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第八十一話:軍の夜

◆第10階層出口・夜営/ルッツ視点


 第10階層を抜けた先には広い空間が用意されていた。


 迷宮主がわざわざ準備したような「休憩所」だった。

 天井は高く、空気は澄んでいる。隅には飲める水が湧き、薪が一塊整然と積まれていた。


 ルッツはその光景を見て、奇妙な違和感を覚えた。


 (敵が退路の途中に休憩所を用意する。これも殺さない迷宮の流儀か)


 兵士たちは命令を待たずに、各自の場所を確保した。

 壁際に荷物を下ろし、装備を点検し、配給された硬パンを口に運ぶ。

 話す者はいなかった。


 五百で攻め込んで、四百十七。

 八十三人が消えた。

 その重さが沈黙の中に滲んでいた。


「副官殿」


 若い兵が近づいてきた。手に折りたたんだ紙を持っている。


「これを、もし……俺が消えたら、本国に送ってほしいんです」


 ルッツは紙を受け取った。

 封をしていない。


 中を見ようとして、ルッツは手を止めた。

 代わりに、若い兵の目を見た。


「分かった。預かる」


「ありがとうございます」


 若い兵はそれだけ言って、自分の場所に戻った。


 ルッツは預かった紙を胸の内ポケットに入れた。


 次々と、別の兵たちがルッツのところに来た。

 誰もが手紙を一通預けていく。封のしてある者もいた。封のしていない者もいた。

 どれも「もし、消えたら」という条件付きの遺書だった。


 二十年、戦場で生きてきた。

 遺書を預かるのは初めてではない。

 だが――「消えたら」という条件付きの遺書は初めてだった。


 死ではない。

 消えたなら、どこかに、いる。

 その「どこか」が彼らには見えない。


 (迷宮主よ。あんたが用意したこの『消える』というルールは……死より残酷かもしれない)


 ルッツは内ポケットの厚みを左手で押さえた。



◆ヴァルターとルッツ/夜の対話


「ルッツ」


 声がした。


 振り返ると、ヴァルターが座っていた。

 大剣『鉄理』を膝に置き、薄い布を当てて手入れをしている。

 いつもの儀式だった。彼が戦場で寝る前に必ずする、剣の点検。


「将軍」


 ルッツは隣に腰を下ろした。


 二人の間に暫しの沈黙があった。

 ヴァルターは黙々と剣を磨き、ルッツはその手元を見つめていた。


「ルッツ。お前、いくつになった」


「四十二です」


「俺と何年だ」


「……二十年と、三ヶ月になります」


「そうか。長いな」


 ヴァルターは剣を磨く手を止めなかった。


「ルッツ。一つ、聞いていいか」


「はい、将軍」


「お前はなぜ、二十年間、俺の隣にいた」


 ルッツは答えに詰まった。

 答えなど考えたこともなかった。

 ただ、命令を翻訳し、部下に伝え、将軍の半歩後ろを歩いていた。それが自分の仕事だった。


「……分かりません」


 正直に答えた。


「ただ、将軍の隣が自分の持ち場だと思っていました」


「持ち場、か」


「はい」


 ヴァルターは剣を布に置いた。

 ようやくルッツの目を見た。


「ルッツ。俺は二十年前のことを、お前に話したことはあったか」


 ルッツの心臓がわずかに跳ねた。


 二十年前の辺境の村。

 ヴァルターが命令を無視して突撃し、退路を絶たれた部下が壊滅したというあの話。

 軍内では誰もが知っている。だが、ヴァルター本人の口からは一度も聞いたことがなかった。


「……いえ。一度もありません」


「……そうか」


 ヴァルターはしばらく黙っていた。


 やがて、彼は低く淡々と話し始めた。


「俺は命令を無視した。村人を救いたかった。救えた。だが、退路にいた部下が敵の伏兵に壊滅した。中に、俺が育てた若い兵士がいた。十八歳だった」


「…………」


「上官の撤退命令は正しかった。村の先に敵の本隊が潜んでいた。撤退命令は、それを掴んだ上での判断だった。俺はその判断を、自分の正義で踏み潰した」


 ヴァルターの声は、いつもより低かった。


「以来、俺は命令にのみ従うと決めた。自分の判断は信用しない。そうすれば、もう誰も死なない」


「……将軍」


 ルッツは続けようとした言葉を飲み込んだ。


 代わりに、彼は自分の左手を自分の胸の内ポケットに置いた。

 預かった何通もの遺書の上に。


「将軍。私は二十年、あなたの隣にいました」


「ああ」


「あなたが命令にしか従わない理由を知りませんでした。今、知りました」


「…………」


「ですが、将軍」


 ルッツは初めて、自分の言葉で続けた。


「あなたの部下は――今夜、私に遺書を預けています」


 ヴァルターの手が止まった。


「『消えたら』本国に送ってほしい、と。誰一人、生きて帰れるとは思っていない」


「…………」


「あなたが命令に従うことで、彼らを生きて返せるなら、それで構いません。ですが、もし――もし命令ではなく、別の判断が必要な瞬間が来たら」


 ルッツはヴァルターの目を真っ直ぐ見た。


「私は、あなたの判断を、信じます」


 ヴァルターは何も答えなかった。


 ただ、しばらくして彼は剣の手入れを再開した。

 布を当てる音が、夜営の中に規則的に響いた。


 その音だけが、答えだった。



◆夜営の片隅


 ある兵士は布の上で手紙を書いていた。


 ろうそくの灯りで手元を照らしながら。


『マレナへ。

 春が来たら、東の斜面の畑に麦を撒いてくれ。あそこは陽当たりがいい。お前も、そう言っていただろう。

 ヨナは種を撒くとき、いつも撒きすぎる。半分でいい。あいつに、そう伝えてくれ。

 俺がいなくても、畑は続く。お前たちが、続く。

 ……不器用な手紙だ。最後まで、すまない』


 兵士はその手紙を丁寧に折り、封をした。

 誰宛に出すか、宛先は決まっていない。

 もし、消えたら――誰かが届けてくれるかもしれない。

 それだけだった。


 別の兵士は装備の点検を何度も繰り返していた。


 もう五度点検した。

 六度目、七度目を繰り返しても、装備は変わらない。

 だが、点検をやめると、考えてしまうのだった。


 明日のことを。

 明後日のことを。

 帰れない、かもしれないこと。


 また別の兵士は、ただ天井を見上げていた。


 迷宮の中だ。空などないはずだった。

 だが、彼の見ている天井は、どこかの夜空のようにぼんやりと光っていた。

 彼はそこに、故郷の星を重ねて見ていた。


 誰もが無言だった。

 誰もが何かを握りしめていた。


 夜は、長かった。



◆迷宮核の間/黒瀬視点


 モニターの中で、王国軍の夜営が映っていた。


 俺はマグカップを置き、その光景をしばらく見ていた。


「ナノ」


「はい、ご主人」


「あの兵士たち、家族がいるんだろうな」


「はい。第三軍団五百名の家族構成、データベースから引き出しますか?」


「いや、いい」


 俺は首を振った。


 (数字で見たくない)


「ご主人」


「何だ」


「感傷的になっておられますね」


「……黙れ」


「いつものことです」


 俺はコーヒーを一口飲んだ。

 冷めていた。


 (あの兵たちは、何のためにここに来た。宰相の命令だ。勇者の回収。だが、勇者はここにはいない。偽りの命令で送られて、ここで削られている)


 モニターの中の夜営は静かだった。

 誰も喋らない。

 誰もが何かを握りしめている。手紙か、装備か、見えない故郷の星か。


 全員、生きて帰したい。


 その思いが心の奥から、ふと湧き上がった。


 (家族がいるなら、家族のところに返してやりたい)


 ……柄じゃ、ないな。

 俺はぬるくなったコーヒーを飲み干した。


 (明日、バルログが彼らを削る。それは予定通りだ。だが――できる限り生かしたい)


 通信を開く。


「バルログ」


『……何用だ』


 バルログの声は、いつもより静かだった。

 明日、彼が戦うことを、彼自身が最もよく知っている。


「明日、お前は奴らを削る。それは変えない」


『分かっておる』


「だが、一つだけ頼みがある」


『言え』


「殺さないことは大前提だ。その上で――できる限り痛みを最小にしてくれ」


 通信先で、バルログがしばらく沈黙した。


『……我に、戦士としての慈悲を要求するのか』


「ああ」


『難しいことを言う』


「分かってる。だから、頼みなんだ」


 バルログはまた沈黙した。


 やがて、低く笑った。


『……承知した。我にできる範囲で、慈悲を払う』


 通信が切れた。


 俺はマグカップを置き、モニターを見つめた。


 夜営の光が、ゆっくりと静まっていく。

 兵士たちが一人、また一人、横になり、目を閉じる。

 彼らが見る夢は、おそらく家族の夢だ。


 俺はその光景を、長い間見ていた。


 夜が、明けようとしていた。

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