第八十話:削る迷宮
◆第1階層〜第4階層/ルッツ視点
行軍は順調――そう報告できるはずだった。
第1階層。苔の匂いがする洞窟道。
ゴブリンが現れるたび、罠が起きた。落とし穴。目潰しの粉煙。頭上から落ちる網。それを抜けた先で、訓練されたゴブリンの斉射が待っている。
矢は、急所を外していた。腿を貫き、肩を抜き、武器の柄を砕く。殺すための矢ではない。動けなくするための矢だ。
倒れた兵に担架部隊が駆け寄る。抱え起こそうと手を伸ばす。
その兵が淡い光に包まれて消えた。
ルッツは記録を取った。
これで三人。
第2階層。骨の回廊。
スケルトンが人の死角から来る。暗がりで味方と敵の輪郭が溶ける。隣の兵を斬りかけて、寸前で剣を止めた者がいた。
戦闘不能の兵がまた消える。
六人。
第3階層。水の階層。
サハギンが水流を操り、隊列を二つに割った。深い水路の向こうに取り残された小隊が孤立して沈む。
また消える。
八人。
第4階層。雪の階層。
ホワイトウルフが吹雪を呼ぶ。視界が白で潰れる。方向を見失った兵が崖の縁に足をかけた。仲間が腕を掴んで、引き戻す。間に合った。
戦闘不能、累計十名。
「副官殿。第1から第4まで、損耗十名」
部下が低い声で報告する。
十名。五百のうちの、十。二パーセント。
数字としては、許容範囲だ。
数字としては。
ルッツの首の後ろを、冷たいものが伝った。
(死体が、ない)
二十年、戦場にいた。負傷者は出る。死者も出る。死者は、骸を残す。骸を片付け、名を記し、遺品を本国へ送る。それが戦場の手順だった。
だが、ここには骸がない。血の跡もすぐに乾いて消える。残るのは主を失った武器だけだ。
負傷兵の搬送先が、こちら側ではない。
――あちら側だ。
前を行くヴァルターが、振り向かずに言った。
「ルッツ。消えた中に、衛生兵は」
「……二名」
「分隊長は」
「軍曹が、一名」
ヴァルターは何も言わなかった。
言わなくても分かった。二十年、この背中の半歩後ろを歩いてきた。背中だけで将軍の考えが読める。
無作為ではない。
軍を機能から殺している。武器より先に指揮と回復を削っている。
――選んで、削っている。
◆第4階層・出口/ヴァルター視点
雪原を抜けた先に、あるはずのものがなかった。
地図ではここから第5階層へ繋がっている。住人の暮らす商業区画。先遣隊も、そう報告していた。
だが、行く手を塞いでいたのは、巨大な石壁だった。
継ぎ目がない。黒い岩盤。最初からそこに何もなかったかのように、通路を埋めている。
「将軍。これは……」
ルッツが壁に手を当てた。
「構造を書き換えられています。第5階層への入口が、丸ごと」
「迷宮主の仕業か」
「でしょう。代わりに――こちらに」
ルッツが指した先に、下りの階段があった。壁に、短い文字。
『第六階層へ』
第五階層を迂回させている。
住人の暮らす場所を、戦場から外している。
ヴァルターは石壁を見上げた。
あの向こうに街がある。
そして、おそらく――消えた部下たちも、あの向こうだ。
兵が淡い光に消えるたび、彼らがどこへ行ったのか、ヴァルターには分からなかった。骸はない。武器だけが残る。迷宮の仕掛けが、どこかへ運んだ。
生きているのか。殺されたのか。
確かめる術が、ない。
大剣の柄に手をかけた。
鉄理ならこの壁も断てるだろう。
だが、すぐに離した。
こじ開けるには、時がかかる。その間に、本隊が伸びきって孤立する。
それに――迷宮主は、わざわざ第五階層を戦場から外した。住人を、巻き込まないために。
ずっと戦場を見てきた。
敵を殺し、土地を奪い、勝った者が全てを取る。それが戦だった。
この迷宮は、殺さない。住人を逃がし、攻め込んだ兵すら、どこかで生かしているらしい。
(……奇妙な敵だ)
言葉にしようとすると、それしか、出てこなかった。
「全軍、第六階層へ。隊列を保て」
石壁を、一度だけ振り返る。
その向こうの気配を、鉄の箱の中に、押し込んだ。
◆第6階層〜第10階層/ルッツ視点
第6階層から先は、情報があった。
過去にこの迷宮へ挑んだ冒険者の記録が、王国に出回っている。罠の位置。魔物の種類。地形の癖。先遣隊は、それを頭に叩き込んでいた。
すべて、想定の内。――のはずだった。
第6階層。灼熱の回廊。
記録の通り、サラマンダーが炎の幕を張り、奥からヘルハウンドが来る。ルッツは手を打っていた。冷却の障壁を二重に張り、魔法兵を最後尾へ。
手順通りに軍は動いた。
それでも十名が消えた。半分が、障壁を張っていた魔法兵だった。
(対処した。手順通りに。なのに、削られる)
第7階層。嵐の峡谷。
記録の通りだった。吹き荒れる下降気流が、飛行を封じる。空は使えない。地を進むしかない。
兵たちは、地を進んだ。
だが、空を奪われたのはこちらだけだった。
グリフォンとハーピーは、その風の中を、当たり前のように舞う。狭い谷底に一列へ伸ばされた軍を、上空から、ついばむように削っていく。
風に流されて、矢は、届かない。
八名。
第8階層。
ここが、最も悪かった。
光がない。音も、奪われる。松明は、灯した瞬間に吸い込まれて消える。声を出せば、その声を辿って、闇の奥から刃が伸びる。
デュラハン。首のない騎士。目を使わず、音だけで狩る。
「声を出すな……位置を、声で報せるな……」
ルッツは、囁いた。
だが、闇の中で、恐怖は伝染する。一人が、仲間の名を呼ぶ。その声へ、刃が伸びる。助けようと、別の一人が声を上げる。連鎖。
ルッツは、自分の心臓の音だけを頼りに、剣を構えた。二十年で、これほど何も見えない戦場は、初めてだった。
救いは、一つだけ、あった。
倒れた兵が、淡い光に包まれて消える――その光だけが、闇を、ほんの一瞬、照らす。
味方が一人脱落するたびに、倒すべき敵が、見える。
こんな道標を、ルッツは知らなかった。
第八階層を抜けた時点で、四十名は脱落していた。
第9階層。水鏡の闘技場。
記録は「己の鏡像が襲ってくる」だった。対策も、用意してあった。鏡像は本体の動きをなぞる。なら、陣形さえ崩さなければ、捌ける。
だが、鏡像は、襲ってこなかった。
代わりに――味方の「退け」の合図を、寸分違わず、真似た。
どれが本物の伝令か、分からない。偽の合図に従った小隊が、退いてはならない方向へ退き、孤立した。
消えたのは、記録を、最も忠実に守った兵からだった。
第9階層を抜けて、五十三名。
第10階層。旧ゲヘナの、溶岩の海。
切り立った黒い岩山。足場は、熱で揺らいでいる。火炎翼竜が空を舐め、火炎の精霊が陽炎の向こうに滲み、ケルベロスが岩陰を駆ける。
記録には、魔物の種類が、正しく書いてあった。火属性。耐熱の装備があれば、一体ずつなら、捌ける。
書いていなかったのは――その魔物たちが、軍隊のように動くことだった。
翼竜が空から陽動し、精霊が退路を焼き、ケルベロスが孤立した兵を囲む。一糸乱れぬ連携。指揮を執る巨躯の鬼が、決して、自分の部下を無駄に死なせない。
王国軍は、初めて自分たちと同じものを相手にしていた。統率された、軍を。
しかも、相手はこの灼熱の地形を知り尽くしている。
溶岩の足場の上で、統率された炎が軍を削った。
この一層だけで、三十名。
第10階層を抜けた時、累計、八十三名。
ルッツは、ようやく、首筋の冷たさの正体を掴んだ。
(情報が罠になっている)
知っているほど、その通りに動く。
その通りに動くほど、読まれている。
「将軍。第11階層まで、あと少し。残存、四百十七」
声が、自分でも、低いと分かった。
「了解」
ヴァルターは、大剣の柄に手を置き、一度だけ、深く息を吐いた。
その背中が、初めて、迷っているように見えた。
――気のせい、かもしれない。
◆迷宮核の間/黒瀬視点
モニターの各階層が、戦況で色を変える。
緑、黄、橙、赤。第10階層まで、全部、黄に塗り替わった。突破済み。
「ご主人。王国軍の損耗、累計八十三。全員、第5階層・隔離区画へ転移済み。死亡者ゼロ。重篤者は、救護隊が対応中です」
ナノが、兵力カウンタを宙に開く。五百から始まった数字が、四百十七まで落ちている。
「順調だな」
マグカップを口に運ぶ。今日で、十二杯目のコーヒー。ナノが何か言いたげな光を寄越したが、無視した。
「各階層で少しずつ削れば、軍は弱体化できる。こっちのコストは、階層あたりの魔力だけ。替えの効かない指揮役や、回復役から削っているから投資対効果がいい」
「一気に削るんじゃなくて、精神的に削っていくなんてブラック企業の経営者みたいですね」
「人聞きの悪い計算するな」
「ご主人の口調を、学習しました」
モニターを切り替える。ルッツが、整然と隊を立て直している。記録通りに罠へ対処し、記録通りに、削られながら。
「あいつら、攻略記録を読み込んできたな」
「はい。トーマスが流したと思われる攻略情報と、動きが一致します」
俺は、鼻を鳴らした。
「情報ってのはな、ナノ。過去のスナップショットだ。連中が握ってるのは、今までのバージョンの手順書だよ」
「と、おっしゃいますと」
「うちは、毎日アップデートしてる。罠の閾値も、魔物の動きも、昨日と今日で違う。古いマニュアル通りに動けば、書いてある通りに削られる。……当たり前だろ。現場はいつも変わりつづけてるんだ」
前世で、何度も部下に言った台詞だ。
「手順書を信じるな。本番を信じろ」。
……誰も、聞いちゃいなかったが。
「相変わらず、言い方が悪役ですね」
「効率の話だ」
モニターを、もう一度切り替えた。
第5階層、隔離区画。
救護テントの前で、人間と獣人が、肩を並べて働いている。レオが運送員と水樽を運ぶ。ガロウが、若い狼人に搬入の位置を指で示す。ミナが、縛られたままの兵の脈を取り、隣で獣人の薬師が、止血の薬草を選り分けている。
暴れ出した兵が、一人。ガルスが盾で、やんわり押さえ込む。グレンが「落ち着け、誰も殺さねえよ」と、面倒くさそうに言う。
兵は、しばらく暴れて、それから、力を抜いて、座り込んだ。
「捕虜の様子は」
「八十三名、ほぼ全員、第1区画に収容済み。逃亡を企てた者は、ゼロです」
「逃げないのか」
「『ここは、王国より丁寧だ』という呟きが、多いそうです」
「…………」
俺は、コーヒーを一口飲んだ。
苦い。冷めかけている。
(捕虜の待遇が、自国の兵舎よりいい、ときた)
ブラック企業としては、減点だ。搾取が足りていない。
――そう自分に言い聞かせて、もう一口、飲んだ。
……減点だ。本当に。
モニターの中の兵は、まだ、若い。
俺が、削っている。一名あたり、六十魔力で。
「ナノ。リリは」
「第15階層で待機中。マカロン三百個をケット・シーに作らせているとのことです」
「戦闘前にマカロンを作らせるな」
「『戦闘のあとに食べるからこそ』だそうです」
「……あいつのワークフロー、どうなってんだ」
「ご主人とは、別のレイヤーで動いておられます」
通信を、開く。
「リリ」
『なに、ご主人。今、忙しいんだけど』
「もうすぐ、ヴァルターが第11階層に着く。バルログが受け持つが、抜かれる公算が高い。お前も、準備しておけ」
『……本気で来るの。S級が』
「ああ。本気だ」
通信の向こうで、リリが、少し黙った。
『……ご主人』
「何だ」
『今回さ。ボクと、一緒に、戦ってくれる?』
声がいつもより小さかった。
マカロン三百個。意味の分からない交渉。あの軽口の、ぜんぶの奥に、時々、あの子の孤独が、見える。
「ああ。一緒だ」
『……うん。じゃあ、待ってる』
通信が、切れた。
「ナノ。第15階層への転移座標を、確保しておけ。バルログ戦の決着を見届けたら、俺も飛ぶ」
「ご主人が、前線に出られるのですか」
「ああ。今回は、出る」
「……了解です」
ナノの声に、わずかな揺れが混じった。
気づかないふりをして、マグカップを置く。
モニターの中で、ヴァルターが、第11階層の扉に、手をかけている。
(来い、ヴァルター。ここからが、本番だ)




