第9話 逃げてもいい
翌朝。
レオンの小屋には、金属を削る音だけが響いていた。
ギリ、ギリ、と。
机の上には、昨日作ったばかりの小さな分岐機構が置かれている。
魔力をすべての部位へ流し続けるのではなく、必要な場所へ必要な分だけ送る。
考え方そのものは単純だった。
問題は、それをどうやって安定させるか。
「リシア」
「……」
「リシア」
「……」
「リシア」
「はいっ!?」
椅子に座っていたリシアが、びくりと肩を震わせた。
レオンは手を止める。
「三回呼んだ」
「す、すみません」
「もう一回流す」
「はい」
リシアが右手を伸ばす。
淡い光が彼女の指先に集まり、机の上の魔力経路へ流れ込んでいく。
青い線が光った。
「どう?」
「……大丈夫です」
「どこが?」
「え?」
「どこに流れてる?」
「あ……」
リシアは慌てて目を閉じた。
「手首と……肘……?」
「疑問形?」
「すみません」
光を止める。
レオンは彼女を見る。
淡い金色の髪。
空色の瞳。
いつもなら何かにつけて口を出してくる少女が、今日は妙に静かだった。
昨日の帰りからずっとだ。
「疲れてる?」
「大丈夫です」
「じゃあ体調悪い?」
「違います」
「腹減ってる?」
「レオンじゃないんですから」
「俺も今日は食べた」
「それを自慢しないでください」
少しだけ。
いつもの声に戻った。
だが、それも一瞬だった。
すぐに視線が落ちる。
レオンは工具を置いた。
「昨日のこと?」
リシアの肩が揺れた。
「……違います」
「そう」
それだけ言って、レオンは再び工具を手に取った。
「え?」
「何?」
「……聞かないんですか?」
「違うんだろ?」
「それは……」
リシアが黙る。
ギリ。
ギリ。
再び金属を削る音。
「……ずるいです」
「何が?」
「そうやって何も聞かないの」
「聞いてほしいの?」
「……分かりません」
「じゃあ分かったら教えて」
「……」
また沈黙。
今度は長かった。
やがて。
「私……」
小さな声が聞こえた。
レオンの手が止まる。
「聖女になりたかったわけじゃないんです」
レオンは工具を置いた。
「昨日の話?」
リシアが頷く。
「学校にいた頃、よく言われました」
彼女は膝の上で両手を握った。
「光魔法が得意だから」
「うん」
「治癒も使えるから」
「知ってる」
「浄化も……普通の生徒より強かったから」
そこで言葉が止まった。
「先生たちは褒めてくれました」
嬉しい話のはずなのに。
リシアは笑っていなかった。
「『聖女様のようになれるかもしれない』って」
「……嫌だった?」
リシアは少し驚いた顔でレオンを見る。
「分かるんですか?」
「顔」
「……そんなに分かりやすいですか、私」
「割と」
「嫌でした」
小さな声。
「聖女になりたくなかった?」
「なりたくありません」
即答だった。
そして。
「……怖かったんです」
その声は、もっと小さかった。
「怖い?」
「みんなに見られるのが」
リシアの指が強く絡み合う。
「期待されるのが」
「……」
「私が治せなかったら、誰かが苦しむかもしれない」
「……」
「浄化できなかったら、誰かが傷つくかもしれない」
彼女は俯く。
「そんなの……怖いじゃないですか」
レオンは何も言わなかった。
「みんなは、すごいって言ってくれました」
「……」
「才能があるって」
「……」
「でも、私にはそんなもの……」
リシアの声が震える。
「そんなもの、いらなかった」
ぽたり。
膝の上に一滴落ちた。
「リシア?」
「私、強くないんです」
「魔力の話?」
リシアが首を振った。
「違います」
もう一滴。
「私……怖がりなんです」
ぽたり。
「すぐ怖くなって」
「……」
「何かあったら逃げたくなって」
「……」
「誰かに強く言われたら、何も言えなくなって」
昨日。
かつての同級生たちを前にしたリシアを思い出す。
魔物には杖を向けられる少女が。
あの時は。
震えていた。
「私……弱いんです」
リシアが両手で顔を覆った。
「臆病で……」
声が崩れる。
「何もできなくて……」
レオンは固まった。
「……」
泣いている。
目の前で。
「……」
どうする?
分からない。
金属なら分かる。
割れた場所を見ればいい。
負荷を調べる。
原因を探す。
必要なら補強する。
だが。
泣いている人間は?
「……」
レオンは机を見る。
金槌。
違う。
やすり。
もっと違う。
布。
これか。
レオンは一枚の布を取った。
「リシア」
「……何ですか」
「これ」
リシアが顔を上げる。
目が赤くなっていた。
差し出された布を見る。
「……これ、油ついてません?」
レオンが布を見る。
端に黒い染み。
「……少し」
「最低です……」
「待って」
「普通、泣いてる女の子に油のついた布渡します?」
「他にない」
「探してください……」
「分かった」
箱。
工具。
棚。
ようやく見つけた比較的きれいな布を差し出す。
リシアは受け取った。
「……ありがとうございます」
「ああ」
鼻をすすりながら目元を拭く。
少しだけ。
本当に少しだけ。
笑っていた。
レオンは安心した。
正解だったかは分からない。
少なくとも。
金槌よりは良かったらしい。
「それで」
しばらくしてリシアが続けた。
「ある日、聖女様が学校へ来たんです」
レオンは黙って聞く。
「祝福式があって」
聖女。
教会から認められた特別な存在。
強力な光魔法と治癒、浄化の力を持ち、人々から尊敬されている。
リシアにとっても。
最初は憧れだった。
「すごかったんですよ」
「何が?」
「全部です」
リシアが少しだけ笑う。
「私とは全然違いました」
大勢の人の前に立っても。
笑って。
迷わず。
誰かに期待されることを恐れているようには見えなかった。
「きれいで」
「うん」
「優しくて」
「うん」
「みんなに好かれて」
「うん」
「……私がなれないもの全部持ってました」
だが。
祝福式の途中。
聖女が大規模な浄化魔法を使用した。
会場全体が光に包まれた。
歓声が上がった。
教師たちは感動していた。
生徒たちは聖女を見つめていた。
リシアも。
だからこそ。
気づいた。
「変だったんです」
「何が?」
「魔力が」
レオンの表情が変わる。
「最初は普通でした」
リシアが手を伸ばす。
あの日を思い出すように。
「聖女様自身から、ちゃんと魔力が流れてた」
「じゃあ何が変?」
「途中から……」
リシアが自分の胸元を押さえる。
「増えたんです」
「増えた?」
「急に」
「本人の魔力が?」
「分かりません」
リシアは首を振る。
「だから怖くなったんです」
「外から?」
「それも分かりません」
分からない。
それが重要だった。
「ただ……」
リシアが目を閉じる。
「聖女様の服の下で、一瞬だけ光ったものがありました」
「何?」
「青い……線みたいなもの」
レオンの目が細くなる。
「青い?」
「はい」
「どんな形?」
「分かりません。一瞬だったから」
「魔導具?」
「分かりません」
「魔石?」
「分かりません」
「じゃあ――」
「分からないんです!」
リシアが叫んだ。
そして。
すぐに口を押さえる。
「……ごめんなさい」
「いや」
「私も……分からなかった」
声がまた震える。
「だから先生に聞いたんです」
『あの力は、本当に聖女様自身のものなんでしょうか』
それだけ。
本当に。
それだけだった。
「でも……」
翌日。
話が変わっていた。
――リシアが聖女を疑っている。
数日後。
――リシアは聖女が偽物だと言っている。
さらに。
――光魔法の才能があるから、自分こそ聖女に相応しいと思っている。
そして最後には。
『リシアは聖女の座を奪おうとしている』
「そんなこと、一度も言ってない……」
リシアの声が震える。
「私、聖女になんてなりたくなかったのに」
「……」
「なのに、みんな……」
否定した。
最初は。
だが。
説明すればするほど。
『嫉妬してるだけだろ』
『聖女様を傷つけるな』
『自分の方が優れてると思ってるの?』
教師からも呼ばれた。
聖女へ謝罪するよう勧められた。
「謝らなかった?」
リシアが首を振る。
「だって……」
空色の瞳にまた涙が溜まる。
「見たものまで嘘だったって言いたくなかった」
「それで?」
「……」
「リシア?」
「逃げました」
ぽたり。
また涙。
「学校から」
昨日の言葉。
『誰も信じなかったから学校から逃げたんだろ?』
あの時。
リシアが何も言い返せなかった理由。
「本当だったから……」
リシアが泣きながら笑う。
「そこだけは、本当だったから」
「……」
「言い返せなかった」
教師にも。
友人にも。
同級生にも。
「怖くなって……」
「……」
「全部捨てて逃げました」
リシアは顔を覆う。
「私、最低ですよね」
「なんで?」
「だって逃げたんですよ?」
「うん」
「戦わなかった」
「うん」
「自分が正しいと思うなら、最後まで言えばよかったのに」
「うん」
「なのに私は――!」
「逃げたら駄目なの?」
リシアが止まった。
「……え?」
レオンは彼女を見る。
「逃げたら駄目なの?」
「だって……」
「死ぬまで?」
「……」
「壊れるまで?」
その言葉を口にした瞬間。
白い部屋が見えた。
一瞬だけ。
前世。
机。
記録用紙。
薬品の臭い。
『数値、また外れてます』
「……」
『サンプルの準備、間違ってませんか?』
違う。
そんなはずはない。
確認した。
いや。
確認したつもりだった。
眠っていなかった。
手が震えていた。
一度。
測定値を書き間違えた。
一度。
試料の条件を間違えた。
一度。
結果を急いで、最初からやり直すことになった。
失敗するたび。
怖くなった。
自分は本当に必要とされているのか。
自分は本当にできる人間なのか。
結果を出さなければ。
証明しなければ。
だから。
もっと働いた。
眠らなかった。
休まなかった。
そして。
また間違えた。
『今日はもう帰った方がいいですよ』
『あと一回だけ』
咳。
『最近、その咳ひどくないですか?』
『大丈夫』
大丈夫ではなかった。
知っていた。
数値も見た。
危険性も知っていた。
それでも。
止まらなかった。
止まる方が。
怖かった。
「レオン?」
リシアの声で戻る。
十五歳の手。
細い腕。
机の上には。
自分が何度も作り直した魔導腕。
「俺も怖いよ」
「……え?」
「失敗するの」
リシアが目を見開く。
「レオンが?」
「何その反応」
「だって……」
壊れても。
失敗しても。
また作る。
灰の谷にも入る。
魔物の前にも立つ。
リシアには。
そう見えていたのだろう。
「怖いから調べる」
「……」
「失敗したくないから試す」
「……」
「死にたくないから」
レオンは机の上の手袋を見る。
「今は手袋もする」
リシアが少し笑った。
「今は、なんですね」
「ああ」
レオンも笑わなかった。
「前は――」
口が止まる。
リシアが見る。
「……前?」
「……昔の話」
「……」
「怖いのに、怖くないふりしてた」
レオンは右手を見る。
「失敗したら、もっとやった」
「……」
「間違えたら、もっと働いた」
「……」
「休んだ方がいいって言われても、休まなかった」
頭の中に。
あの言葉。
『あと一回だけ』
「結果を出せば大丈夫だと思ってた」
「それで……?」
レオンは少しだけ黙った。
「死んだ」
「……え?」
しまった。
リシアが固まる。
「レオン?」
「……」
「今、死んだって……」
「言い方間違えた」
「どう間違えたらそうなるんですか!?」
「昔の知り合いの話」
「絶対違いますよね!?」
「……」
「レオン?」
「今はいい」
リシアが口を開く。
だが。
止まった。
そして。
「……分かりました」
それ以上。
聞かなかった。
レオンが彼女にそうしたように。
リシアも。
待つことを選んだ。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのはリシアだった。
「逃げても……いいんですか?」
レオンはすぐには答えなかった。
逃げる。
諦める。
同じではない。
少なくとも。
今のレオンはそう思う。
「逃げていい時もあると思う」
「……」
「俺は逃げなかった」
リシアを見る。
「だから死んだ」
「また言った!」
「あ」
「やっぱりあなたの話じゃないですか!」
「……忘れて」
「無理ですよ!」
リシアの目にはまだ涙が残っていた。
それでも。
今度は少し笑っていた。
レオンは頭を掻く。
「とにかく」
「誤魔化しましたね」
「逃げた後で」
リシアが止まる。
「どうするかは、自分で決めればいい」
「……」
「戻ってもいい」
「……」
「戻らなくてもいい」
「……」
「別の道を探してもいい」
レオンは机の上の魔導腕を見る。
一度目は壊れた。
だから。
同じものを作らなかった。
「逃げたからって、その後まで決まるわけじゃない」
リシアは何も言わなかった。
ただ。
きれいな布を握りしめた。
「……ありがとうございます」
「何が?」
「分からないなら、いいです」
「そう」
「そこは聞いてくださいよ」
「難しいな」
「本当に人の気持ち分からないんですね」
「材料より難しい」
「また材料と比べた!」
少しだけ。
小屋の空気が戻った。
◇
「もう一回やる?」
レオンが尋ねる。
「はい」
「無理なら明日でもいい」
リシアが驚いた。
「何?」
「いえ」
彼女は目元を拭く。
「やります」
椅子に座り直す。
レオンは魔導腕を装着した。
昨日作った分岐機構。
必要な場所へ。
必要な魔力を。
必要なだけ。
「流す」
「はい」
青い光。
まず。
弱く全体へ。
「どう?」
「大丈夫です」
「拳」
カチッ。
指が曲がる。
手首から先の青い線だけが強くなる。
「どう?」
「昨日より安定してます」
「肘」
カチッ。
手への流れが弱まる。
代わりに。
肘周辺の経路が明るくなる。
「肩」
また切り替わる。
「……」
リシアが黙った。
「どう?」
「……」
「リシア?」
彼女の顔から。
血の気が引いていた。
「止める?」
「待ってください」
リシアが立ち上がる。
レオンの右腕へ近づく。
触れない。
ただ。
手をかざす。
「もう一回、拳を」
「分かった」
握る。
青い光が強くなる。
「肘」
切り替わる。
「肩」
さらに流れが移動する。
リシアの目が見開かれた。
「レオン」
「何?」
「もう一回……強く動かせますか?」
「できる」
レオンは魔力を増やす。
右腕。
青い経路が一瞬強く輝く。
必要な部分へ。
流れが集中する。
「……」
リシアが一歩下がった。
「どうした?」
「似てる……」
「何に?」
リシアは答えない。
青い光を見ている。
まるで。
過去の何かを見ているように。
「リシア」
「……あの時と」
「何?」
彼女がレオンを見る。
「聖女様の魔力です」
レオンの動きが止まった。
「同じ?」
「分かりません」
リシアはすぐに首を振る。
「同じとは言えません。でも……」
もう一度。
魔導腕を見る。
「自然に増えたんじゃない」
「……」
「何かで流れを変えて」
「……」
「必要な場所へ集めて」
「……」
「一気に強くする感じが……」
リシアの手が震えた。
「あの時の聖女様と、似ています」
小屋が静かになった。
レオンは自分の右腕を見る。
人工的に作った。
魔力を流すための経路。
分岐。
切り替え。
集中。
増幅ではない。
少なくとも。
今のところは。
だが。
「人工的だった?」
「分かりません」
リシアは答えた。
今度は。
逃げるような声ではなかった。
「でも」
空色の瞳がレオンを見る。
「私が見たものが何だったのか……」
握っていた手を。
少しだけ開く。
「もう一度、確かめたいです」
昨日まで。
逃げたことを悔やんでいた少女が。
初めて。
自分からそう言った。
レオンは頷く。
「ああ」
まだ証拠はない。
聖女が偽物だとも。
その力が人工物だとも。
何一つ。
分かってはいない。
だが。
分からないなら。
調べればいい。
レオンは右腕の青い光を見つめた。
その光は。
リシアがずっと逃げてきたものへと続く。
最初の手がかりになろうとしていた。
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