第11話 聖女を騙る少女
朝のスラムには、昨夜の雨が残した湿った匂いが漂っていた。
レオンは小屋の裏で、右手をじっと見つめていた。
短い黒髪が額にかかり、灰色の瞳にはいつものように考え込む光が宿っている。着古した灰色の上着の袖は肘までまくられ、細い腕には作業中についた小さな傷痕が残っていた。
手のひらの上には、青白い光が浮かんでいる。
「……十八、十九、二十」
光が揺れた。
「二十一……」
ふっと消える。
「……昨日より短いな」
「昨日は二十五秒でしたね」
木箱に腰掛けていたリシアが、膝の上の記録帳に数字を書き込んだ。
淡い金色の髪を後ろで結び、白いブラウスの上に薄茶色の上着を羽織っている。空色の瞳は、レオンの手元を注意深く観察していた。
「昨日より調子が悪いんでしょうか?」
「分からない。昨日の疲労が残ってる可能性もある」
「だったら、今日は休んだ方が……」
「まだ一回しか試してない」
「そうやって無理をするんですよ」
「……分かった。あと二回だけ」
リシアは疑わしそうに眉を寄せた。
「本当に二回ですよ?」
「ああ」
レオンはもう一度、手のひらに魔力を集めた。
魔力を使うこと自体は、難しくない。
難しいのは、その力を一定に保つことだった。
前世で扱っていた金属加工機械も同じだ。
力を加えすぎれば素材が変形する。弱すぎれば加工できない。必要なのは、適切な力を適切な時間だけ与えること。
魔力にも、似たような原理があるのかもしれない。
「……二十六」
光が揺れる。
「二十七……二十八」
消えた。
「おっ」
リシアが顔を上げる。
「今の、昨日より長かったですよ!」
「……ああ」
「すごいです!」
「三秒だけどな」
「三秒も、です」
レオンは自分の手を見た。
指先に軽い疲労がある。
だが、昨日のような痺れはない。
「……なるほど」
「何か分かりました?」
「少しだけ」
レオンは記録帳を受け取り、数字を書き加えた。
魔力維持時間。
消費量。
疲労感。
そして、最後に一つ。
――魔力の性質変化は、まだ行わない。
「……え?」
リシアが覗き込む。
「今日は氷を作らないんですか?」
「ああ」
「どうしてです?」
「普通の魔力すら安定させられないのに、性質を変えようとしても無駄が多い」
レオンは机の上に置かれた小瓶を見た。
中には、先日生み出した小さな透明の結晶が入っている。
自分の魔力から現れた、正体不明の物質。
あれ以来、同じものを作ろうとしても成功していない。
「筋肉と同じだ」
「筋肉?」
「いきなり重いものを持とうとしても、体を壊すだけだろ」
「……そうですね」
「まずは基礎から鍛える」
リシアは少し驚いたように目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「レオン、本当に変わりましたね」
「何が?」
「前なら、絶対に結晶を作るまでやめなかったと思います」
「……否定できない」
レオンは苦笑した。
かつての自分なら、疲労など無視していた。
前世では、その結果として命を落とした。
同じ失敗を繰り返すつもりはない。
「……ところで」
レオンはリシアを見た。
「お前、学院ではどんな訓練をしてた?」
「私ですか?」
「ああ。魔力操作の基礎を知りたい」
リシアは少し考えた。
「最初は、光を一定の大きさで維持する練習でした。それから、魔力を細く伸ばしたり、複数に分けたり……」
「分ける?」
「はい。例えば、こんな感じです」
彼女が右手をかざす。
白い光が一つ浮かんだ。
それが二つに分かれる。
さらに三つ。
小さな光の球が、指先の周囲をゆっくり回った。
「……器用だな」
「慣れればできますよ」
「どれくらいで?」
「私は半年くらいかかりました」
「……半年」
「はい」
レオンはしばらく光を見つめた。
それから、記録帳に新しい項目を書いた。
――目標。魔力を二つに分ける。
「……よし」
「レオン?」
「まずはこれをできるようにする」
リシアは笑った。
「では、今日から私が先生ですね」
「……調子に乗るなよ」
「先生に向かって、その態度は何ですか?」
「まだ授業料は払ってない」
「じゃあ、今日のお昼ご飯をお願いします」
「……高い授業料だな」
二人の笑い声が、小さな空き地に響いた。
その頃。
王都の中央神殿では、一人の女性が過去の悪夢を思い出していた。
◇
聖女セレスティアは、鏡の前に立っていた。
二十歳。
腰まで届く銀色の髪。
穏やかな金色の瞳。
白い聖衣には繊細な金糸の刺繍が施され、胸元には青い宝石が輝いている。
人々は彼女を「神に選ばれた聖女」と呼ぶ。
誰もが憧れる存在。
誰もが救いを求める存在。
けれど、セレスティアは鏡に映る自分を見つめながら、ゆっくりと袖をまくった。
白い肌に、いくつもの傷痕が残っている。
手首から前腕にかけて。
薄くなったものもあれば、まだはっきりと分かるものもあった。
「……まだ、消えないのね」
指先でそっと触れる。
痛みはない。
けれど、その痕を見るたびに、忘れたかった記憶が蘇る。
四年前。
まだ十六歳だった頃。
彼女は、聖女ではなかった。
ただの学院生だった。
◇
王立聖魔学院。
白い石造りの校舎。
広い中庭。
美しい噴水。
貴族の子女や、魔法の才能を認められた者たちが集まる名門校だった。
セレスティアは、その学院へ特待生として入学した。
家柄は平凡。
後ろ盾もない。
けれど、光魔法と治癒魔法に優れた才能を持っていた。
最初の頃、彼女は毎日が楽しかった。
図書館には見たこともない魔導書が並び、授業では新しい魔法を学べた。
将来は、病気や怪我で苦しむ人々を助けたい。
それが彼女の夢だった。
だが。
ある日を境に、全てが変わった。
「ねえ、聞いた?」
教室の後ろで、数人の女子生徒が話していた。
「セレスティアって、自分が聖女になるつもりらしいわよ」
「え?」
「神殿の聖女候補だって、自分から言いふらしてるんですって」
「嘘でしょう?」
「本当よ。あの子、最近治癒魔法の成績がいいじゃない」
「だからって、聖女を名乗るなんて……」
セレスティアは、自分の席で教科書を開いていた。
その会話が耳に入る。
最初は、誰か別の人の話だと思った。
しかし。
「ねえ、セレスティア」
一人の女子生徒が近づいてきた。
赤茶色の髪を綺麗に巻いた少女だった。
「あなた、自分が聖女だって言ってるんですって?」
セレスティアは驚いて顔を上げた。
「……え?」
「とぼけないでよ」
「そんなこと、言ってません」
「じゃあ、どうして噂になってるの?」
「分かりません……」
少女は鼻で笑った。
「ふうん。そうやって、何も知らないふりをするんだ」
「本当に、私は……」
「いいから。身の程を知りなさいよ」
そう言い残し、少女は去っていった。
セレスティアはしばらく動けなかった。
自分が聖女だなどと、一度も言ったことはない。
聖女候補になりたいと宣言したこともない。
ただ、治癒魔法を勉強していただけだ。
それなのに。
翌日には、噂がさらに広がっていた。
『セレスティアは神殿から選ばれたと嘘をついている』
『自分を聖女だと名乗っている』
『神の名を利用して、貴族に取り入ろうとしている』
誰が最初に言い出したのか。
セレスティアには分からなかった。
◇
最初に起きたのは、教科書がなくなることだった。
授業の前。
机の中に入れていたはずの治癒魔法の教科書が消えていた。
「……あれ?」
鞄の中を探す。
机の下を見る。
隣の席にもない。
「どうしたの?」
近くの女子生徒が声をかけた。
「教科書が見つからなくて……」
「あら、大変ね」
少女は笑った。
「聖女様なら、奇跡で出せるんじゃない?」
周囲から笑い声が上がった。
セレスティアは俯いた。
「……私は、聖女なんかじゃ……」
「聞こえなーい」
「……違います」
「じゃあ、どうしてそんな噂があるの?」
答えられなかった。
噂を流したのは、自分ではない。
それなのに、どうして自分が説明しなければならないのだろう。
結局、その日は教科書なしで授業を受けた。
教師に事情を説明すると、返ってきたのは冷たい言葉だった。
「自分の持ち物くらい、きちんと管理しなさい」
「……はい」
その日の放課後。
教科書は中庭の噴水に浮かんでいた。
水を吸ったページは膨らみ、文字が滲んでいた。
セレスティアは濡れた本を胸に抱えた。
そして、誰にも見られない場所で、静かに泣いた。
◇
それから数週間。
嫌がらせは少しずつ酷くなっていった。
廊下ですれ違えば、肩をぶつけられる。
教室へ入れば、会話が止まる。
机には『偽物』と書かれていた。
食堂では、隣の席が空いたままだった。
誰かが近づくと、別の生徒が囁く。
『あの子と仲良くすると、神殿に目をつけられるわよ』
セレスティアは、次第に一人で過ごすようになった。
ある日の昼休み。
彼女は中庭の隅にあるベンチで、パンを食べていた。
そこへ三人の女子生徒がやってきた。
「こんなところにいたのね」
セレスティアは顔を上げた。
「……何か、ご用ですか?」
「別に。ただ、ちょっと聞きたいことがあるだけ」
一人が腕を組んだ。
「あなた、まだ聖女のふりを続けるつもり?」
「……していません」
「嘘つき」
「本当に、私は……」
「だったら、ここで奇跡を見せてよ」
少女は自分の指先を差し出した。
小さな擦り傷があった。
「聖女様なら、治せるでしょう?」
セレスティアは戸惑った。
傷なら治せる。
それ自体は難しくない。
けれど、今ここで魔法を使えば、また何か言われるのではないか。
「……治療なら、保健室で……」
「逃げるの?」
「違います」
「やっぱり偽物なんだ」
少女が笑った。
その直後。
冷たい水が、頭から降ってきた。
「……っ!」
セレスティアは息を呑んだ。
髪が濡れる。
制服が肌に張りつく。
膝の上のパンが地面に落ちた。
目の前には、空になった水桶を持つ女子生徒がいた。
「あら、ごめんなさい」
少女は笑っていた。
「手が滑っちゃった」
周囲から笑い声が上がる。
「聖女様なら、水くらい浄化できるでしょう?」
「ほら、奇跡を見せてよ!」
セレスティアは何も言えなかった。
冷たい水が、頬を伝う。
制服の裾から、ぽたぽたと雫が落ちる。
「……やめてください」
ようやく声が出た。
「何?」
「……お願いです。もう、やめて……」
少女の表情が変わった。
「何よ、その言い方」
セレスティアは顔を上げた。
「……え?」
「まるで私たちが悪いみたいじゃない」
「そんなつもりじゃ……」
「聖女を騙る方が悪いんでしょう!」
少女が声を荒らげた。
「神様に選ばれてもいないくせに、聖女の名前を使うなんて!」
別の少女が言った。
「それって、冒涜よね?」
「そうよ。神への冒涜だわ」
セレスティアは首を振った。
「……私は、そんなこと……」
「まだ嘘をつくの?」
その時。
廊下の向こうから、教師が現れた。
セレスティアは顔を上げた。
「先生……!」
助けてくれる。
そう思った。
だが。
教師は濡れたセレスティアを見ると、眉をひそめた。
「何をしているんですか」
「……あの、私は……」
「その格好で校内を歩くつもりですか?」
「……え?」
「学院の品位を考えなさい。すぐに着替えてきなさい」
セレスティアは言葉を失った。
教師の後ろで、女子生徒たちが笑っている。
「……先生」
「何ですか?」
「私、水を……」
「言い訳は結構です」
教師は冷たく言った。
「それから、最近あなたに関する良くない噂を耳にしています」
セレスティアの胸が締めつけられた。
「……噂?」
「聖女の名を軽々しく口にすることは、許されませんよ」
「……私は、言ってません」
「ならば、誤解されるような行動を慎みなさい」
教師はそれだけ言い残して去っていった。
セレスティアは、濡れた制服のまま立ち尽くした。
誰も助けてくれなかった。
◇
その夜。
学院の寮。
セレスティアは小さな部屋で、一人座っていた。
机の上には、濡れた教科書。
乾かした制服。
そして、母親から届いた手紙があった。
『セレスティアへ。
学院での生活はどうですか?
あなたが一生懸命勉強していると思うと、お母さんも嬉しいです。
無理をしすぎないでくださいね。
いつでも帰ってきていいのですから。』
セレスティアは手紙を握りしめた。
「……お母さん」
涙が落ちた。
「……帰りたい」
けれど、帰れなかった。
特待生として入学した。
家族は喜んでくれた。
村の人々も、期待してくれた。
ここで逃げれば、みんなを失望させてしまう。
そう思った。
セレスティアは鏡を見た。
濡れて乱れた銀色の髪。
赤くなった目。
青白い顔。
「……どうして」
小さな声が漏れた。
「私、何もしてないのに……」
誰も答えなかった。
◇
それから、さらに月日が過ぎた。
嫌がらせは止まらなかった。
セレスティアが治癒魔法の試験で高得点を取れば、『教師を騙した』と言われた。
失敗すれば、『やっぱり偽物だ』と笑われた。
誰かを助ければ、『聖女の真似をしている』と責められた。
何もしなければ、『自分の罪を認めた』と噂された。
何をしても、悪く言われた。
ある日。
セレスティアは教室の扉を開けた。
自分の机の上に、一枚の紙が置かれていた。
大きな文字で、こう書かれていた。
『偽物の聖女は学院から出ていけ』
その下には、さらに小さな文字が並んでいた。
『神を冒涜する女』
『嘘つき』
『恥知らず』
セレスティアは紙を手に取った。
教室には、何人もの生徒がいた。
誰もこちらを見ない。
誰も何も言わない。
彼女は紙を折りたたんだ。
鞄に入れた。
そして、何事もなかったように席に座った。
その日の授業で、教師が質問した。
「では、この治癒魔法の理論を説明できる者は?」
セレスティアは答えを知っていた。
何度も勉強した内容だった。
しかし。
手を挙げられなかった。
また目立てば、何か言われる。
また誰かに嫌われる。
そう思うと、体が動かなかった。
教師は別の生徒を指名した。
セレスティアは俯いた。
好きだった魔法の勉強が、いつの間にか怖くなっていた。
◇
ある雨の夜。
セレスティアは寮のベッドに座っていた。
外では雨が窓を叩いている。
机の上には、今日も誰かが置いていった紙があった。
『消えろ』
たった二文字。
それだけだった。
セレスティアは紙を見つめた。
長い間。
何度も。
何度も。
その言葉を読んだ。
「……私が、いなくなれば」
声が震えた。
「みんな、喜ぶのかな……」
涙が頬を伝った。
最初は、そんなことを考える自分が怖かった。
死にたいわけではない。
本当は、生きていたい。
魔法を勉強したい。
誰かを助けたい。
家族に会いたい。
それなのに。
明日、学院へ行くことを考えるだけで、胸が苦しくなった。
また水をかけられるかもしれない。
また笑われるかもしれない。
また教師に責められるかもしれない。
誰も信じてくれない。
誰も助けてくれない。
「……もう、嫌……」
セレスティアは膝を抱えた。
しばらく泣いていた。
そして、誰にも打ち明けられない苦しさの中で、自分自身を傷つけてしまった。
それで何かが解決したわけではなかった。
むしろ、後から恐怖と後悔が押し寄せた。
自分の腕に残った傷を見て、セレスティアは震えた。
「……何、してるの……私……」
涙が止まらなかった。
翌朝。
彼女は長袖の制服を着た。
傷を隠した。
そして、何もなかったように教室へ向かった。
誰にも気づかれないように。
誰にも知られないように。
けれど、胸の奥に積もった苦しさは消えなかった。
◇
四年後。
中央神殿。
セレスティアは鏡の前に立っていた。
白い聖衣。
銀色の髪。
金色の瞳。
胸元に輝く青い宝石。
今では、誰もが彼女を聖女と呼ぶ。
人々は彼女に頭を下げる。
感謝する。
奇跡を求める。
だが。
かつて自分を偽物と呼んだ人々の顔を、セレスティアは忘れていなかった。
今でも、時々夢に見る。
冷たい水。
濡れた制服。
踏みにじられた教科書。
そして。
『神への冒涜だ』
その声。
セレスティアはゆっくりと袖を下ろした。
「……どうして、私だったのかしら」
誰が噂を流したのか。
なぜ、自分が標的になったのか。
今でも分からない。
ただ、ある日突然、周囲の態度が変わった。
それだけだった。
コンコン。
扉が叩かれた。
「セレスティア様?」
若い侍女の声。
エマだった。
「お茶をお持ちしました」
「……ありがとう。入って」
扉が開いた。
栗色の髪を後ろでまとめた少女が、銀の盆を持って入ってくる。
「本日もお疲れ様でした」
「ありがとう、エマ」
セレスティアは微笑んだ。
いつもの、優しい微笑み。
けれど、エマは少し首を傾げた。
「……セレスティア様?」
「何かしら?」
「お顔が、少し……」
「大丈夫よ」
セレスティアはすぐに答えた。
いつもの言葉。
何度も繰り返してきた言葉。
エマは黙っていた。
それから、静かに言った。
「……本当に、大丈夫ですか?」
セレスティアの指先が止まった。
「……え?」
「無理をなさっているように見えます」
「そんなこと……」
否定しようとした。
けれど、声が出なかった。
エマは机にお茶を置いた。
そして、セレスティアの袖口に目を向けた。
少しだけ、古い傷痕が見えていた。
エマの表情が変わる。
「……その傷は」
セレスティアは慌てて袖を下ろした。
「昔のものよ」
「……そう、ですか」
エマはそれ以上聞かなかった。
しかし、部屋を出ようとはしなかった。
「……エマ?」
「はい」
「どうしたの?」
エマは少し迷った後、言った。
「……もし、よろしければ」
「……?」
「今日は、少しだけお話ししませんか?」
セレスティアは目を瞬いた。
「お話?」
「はい。お仕事のことでも、何でも」
「……どうして?」
エマは微笑んだ。
「聖女様が、ずっとお一人でいらっしゃるように見えたので」
セレスティアは何も言えなかった。
しばらくして。
「……私」
小さな声が漏れた。
「……昔、学院にいた頃……」
そこで言葉が止まった。
喉が詰まる。
涙が込み上げる。
エマは静かに椅子を引き寄せた。
「はい」
それだけ言った。
セレスティアは俯いた。
「……誰にも、信じてもらえなかったの」
声が震えた。
「私、何もしてないのに……」
涙が落ちた。
「……みんな、私を嫌って……」
エマは何も言わなかった。
ただ、そばにいた。
「……怖かった」
セレスティアは両手で顔を覆った。
「毎日、怖かった……」
エマは静かに答えた。
「……はい」
「……もう、学院に行きたくなかった……」
「……はい」
「……いなくなった方がいいって、思ったことも……」
エマの表情が曇った。
それでも、責めることはなかった。
「……今も、そう思うことがありますか?」
セレスティアは少し迷った。
そして、首を横に振った。
「……今は、違うわ」
けれど。
「……時々、あの頃に戻ったみたいになるの」
エマは頷いた。
「それなら、今夜は一人で抱えないでください」
セレスティアは顔を上げた。
「……え?」
「私でよければ、お話を聞きます。それに、安心して相談できる治療師も、一緒に探しましょう」
セレスティアは唇を噛んだ。
聖女なのに。
人を癒やす立場なのに。
自分が助けを求めてもいいのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
けれど。
「……ありがとう」
小さく答えた。
エマは優しく微笑んだ。
その夜。
セレスティアは久しぶりに、誰かの前で泣いた。
聖女としてではなく。
ただの、一人の女性として。
◇
翌朝。
レオンは小屋の前で、魔導腕の調整を続けていた。
リシアが隣で記録帳を開いている。
「今日はどうしますか?」
「昨日の続き」
「魔力を二つに分ける練習ですね」
「ああ」
レオンは右手を開いた。
淡い光が灯る。
ゆっくりと意識を集中する。
一つの光を、二つに。
しかし。
光は途中で崩れ、消えてしまった。
「……難しいな」
「最初はそんなものですよ」
リシアが笑った。
「私も何度も失敗しましたから」
レオンは頷いた。
「……そうか」
そして、もう一度手を開く。
失敗してもいい。
できなければ、原因を調べればいい。
昨日より少しだけ、前へ進めればいい。
レオンは魔力を集めた。
その時。
手のひらの光が、ほんの一瞬だけ色を変えた。
青白い光。
そして。
かすかな銀色。
「……ん?」
リシアが目を見開く。
「レオン、今……!」
「ああ」
レオンは手を見つめた。
光はすぐに元へ戻った。
しかし、確かに変化した。
「……また、変わったな」
レオンは小さく笑った。
「まだ、全然分からないけど」
リシアも微笑んだ。
「はい。でも、少しずつですね」
「ああ」
レオンは頷いた。
「……一歩ずつだ」
王都では、一人の聖女が過去の傷と向き合い始めていた。
スラムでは、一人の少年が未知の魔力を鍛え始めていた。
そして、二人の運命がいつか交わることを。
今はまだ、誰も知らなかった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
もしこの物語を楽しんでいただけたなら、コメントや星評価を残していただけると大変嬉しいです。皆様のご意見や応援は、私にとって大きな励みになります。
お時間をいただき、本当にありがとうございました!




