第9話
前話の宴会から数日後。
定食屋の裏庭で、俺はポチのブラッシングに勤しんでいた。
「キュゥ……」
靴のそばで、黒い毛玉が気持ちよさそうに目を細めている。専用のブラシで撫でるたび、艶やかな毛並みが陽光を反射した。
「あなた、少しは私の話を聞いていますか?」
背後から、ひどく疲れた声が降ってきた。
振り返ると、スーツ姿の神崎が眉間を揉みほぐしている。手には分厚いバインダーが握られていた。
「聞いてるぞ。阿久津とかいう奴が残したデータに、厄介な情報が混ざってたんだろ」
俺はブラシを動かす手を止めず、適当に相槌を打つ。
「ええ。解析班からの報告書によれば、未発見の特級ダンジョン候補地が郊外に存在する可能性が高いとのことです。もしそれが事実なら、都心の特級に匹敵する脅威になりかねません」
神崎はバインダーをめくりながら、早口で説明を続ける。
お役所仕事も大変だな、と同情はするが、俺の知ったことではない。命のやり取りなんてものは、ただの作業だ。わざわざ自分から首を突っ込む趣味はない。
「それで、俺にどうしろと?」
「いえ、あなたにどうこうしてほしいわけではありません。ただ、担当者として現状を共有しておこうかと……ああっ、もう! なんで私はこんなところで愚痴をこぼしているんでしょうか!」
神崎は自暴自棄気味に叫ぶと、ポケットから胃薬の瓶を取り出し、錠剤を水なしで飲み込んだ。
真面目すぎるのも考えものだ。向こうでの長い時間、俺も色々な人間を見てきたが、こういうタイプは一番早くすり減る。
「まあ、座れよ。お茶でも淹れてやるから」
俺が縁側を指差すと、神崎は深いため息をつきながら腰を下ろした。
「師匠ー! いるー?」
お茶の準備をしようと立ち上がった瞬間、裏木戸が勢いよく開いた。
派手なピンク色の髪を揺らしながら、キララが飛び込んでくる。相変わらず動きやすさより見栄えを重視した、サイバーパンク風の探索服だ。
「ウチ、めっちゃいい映えスポット見つけちゃったんだよね!」
キララは息を切らしながら、スマートフォンのディスプレイを俺の顔の前に突き出した。
「映えスポット?」
「そう! 郊外にあるダンジョンなんだけど、自然豊かで景色が最高なの。しかもモンスターが全然出ない超穴場らしくてさ。ここでピクニック配信したら、絶対バズると思うんだよね!」
キララが指差した地図の座標を見て、神崎が弾かれたように立ち上がった。
「ちょっと待ちなさい! そこはさっき私が言っていた、特級候補地の座標とほぼ一致しています。一般人の立ち入りは推奨されていません!」
「えー? でもネットの掲示板じゃ、ただの綺麗な森だって書き込みばっかりだよ? 危険な場所なら、とっくに立ち入り禁止になってるっしょ」
キララは唇を尖らせて反論する。
確かに、行政の対応が遅れているだけかもしれないが、現状ではただのフリーエリア扱いらしい。
「ピクニックか。外で食う飯も美味いからな」
俺は顎を撫でながら呟いた。
最近は定食屋の飯ばかりだったし、たまには気分を変えるのも悪くない。
「あなたまで何を言ってるんですか! 万が一、強力なモンスターが出現したらどうするつもりですか!」
神崎が血相を変えて詰め寄ってくる。
「出たら出たで、美味そうな奴なら狩って焼く。不味そうなら無視する。それだけだ」
俺の答えに、神崎は再び胃のあたりを押さえてうずくまった。
「……わかりました。私が止めても、どうせ行くんでしょう。なら、私も同行します。担当者として、あなたの暴走を監視する義務がありますから」
「別に暴走なんてしないさ。ただの昼飯だ」
俺は肩をすくめ、定食屋の女将さんに弁当の用意を頼みに行くことにした。
◆ーーーー◆
電車を乗り継ぎ、郊外の駅から少し歩いた先に、そのダンジョンはあった。
入り口のゲートをくぐると、空気の質がガラリと変わる。
鬱蒼と茂る木々の隙間から木漏れ日が差し込み、穏やかな風が草花を揺らしていた。
「わーっ、めっちゃ綺麗! みんな見て見てー、マイナスイオンたっぷりだよ!」
キララはさっそくカメラを回し、テンション高く実況を始めている。
俺は適当な平地を見つけると、持参したレジャーシートを広げた。
「キュン!」
ポチが嬉しそうにシートの上を転げ回る。
俺はリュックから重箱を取り出し、蓋を開けた。卵焼きに唐揚げ、おにぎりがぎっしりと詰まっている。
「平和でいい場所だな。風が気持ちいい」
俺は唐揚げを一つ摘み、口に放り込んだ。サクサクとした衣の食感と、ジューシーな肉汁が広がる。
外で食べる弁当は、どうしてこうも美味く感じるのだろうか。
「……おかしいですね」
シートの端に正座した神崎が、険しい顔で周囲を見回していた。
彼女の手には、ダンジョン庁から支給された魔力測定器が握られている。
「何がだ? 弁当の味付けか?」
「違います。この階層、本当にモンスターの気配が全くありません。いくら浅い階層とはいえ、不自然すぎます」
神崎は測定器の数値を睨みつけている。
「いいじゃないか。静かで飯が美味い。それ以上の価値なんてないだろう」
俺はおにぎりを頬張りながら答える。
戦いなんてものは、向こうの世界で一生分やってきた。今はただ、この温かい食事の時間を邪魔されなければそれでいい。
「師匠、ウチにも唐揚げちょうだい!」
配信を一段落させたキララが、シートに飛び込んできた。
俺は重箱を彼女の方へ押しやり、水筒の茶を啜る。
「……っ」
その時、神崎が小さく息を呑んだ。
彼女の手元にある測定器が、微弱なノイズ音を発し始めていた。
「環境魔力値は正常……いえ、これは……」
神崎の顔色が変わる。
ディスプレイには、規則的な波形に混じって、不気味なスパイク状のノイズが刻まれていた。
まるで、静かな水面の下で、巨大な何かがゆっくりと呼吸をしているかのような。
「どうした、神崎。腹でも痛いのか?」
俺の問いかけに、神崎は顔を上げ、周囲の森を不安げに見回した。
風が止み、木々のざわめきが消える。
鳥の鳴き声すら聞こえない、異常なほどの静寂。
この静かな森の奥底で、一体何が起きているというのか。
俺は二つ目の唐揚げに手を伸ばしながら、ただのピクニックが少しだけ面倒なことになりそうな予感を覚えていた。




