第10話
唐揚げを噛みちぎる音が、やけに大きく響いた。
神崎は測定器を握りしめ、周囲の木々を睨みつけている。キララも空気を察したのか、配信用のカメラを下ろして息を潜めていた。
だが、五分経っても十分経っても、森の静寂が破られることはなかった。やがて風が吹き抜け、木々の葉がざわめく音が戻ってくる。
「……消えました。ノイズ、完全にゼロです」
神崎が怪訝そうにディスプレイを叩く。俺は三つ目の唐揚げを飲み込み、水筒の茶で流し込んだ。
「腹の虫の音でも拾ったんじゃないか?」
「そんなわけないでしょう! 確かに異常な波形が……」
神崎は未練がましく測定器を振るものの、やがて諦めたように電源を落とす。
結局、その日はそれ以上の異変は起きなかった。俺たちは残りの弁当を平らげ、拍子抜けしたまま帰路につくことになった。あの不気味なノイズが、何かの前触れだったのだと知るのは、もう少し後のことだ。
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数日後。俺が日課の散歩に出ようとアパートのドアを開けると、そこに白い影が立っていた。
「おはようございます、師」
氷室玲奈だった。機能美を極めた純白の戦闘服に身を包み、凛とした表情でこちらを見据えている。
ただ、その下半身が生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていた。
「お前、どうしたんだその格好」
「お気になさらず。師に教えられた修練を、三日三晩休まず続けていた結果です」
俺は頭を抱えた。先日、彼女からしつこく教えを乞われた際、適当にその辺の木の枝を振る動作を見せて誤魔化したのだ。まさかそれを不眠不休でやり続けるとは。
「筋肉痛か。無理するからだ」
「いえ、これは筋肉痛などという生易しいものではありません。極限の脱力に至るため、肉体の限界を超えて余計な力みを削ぎ落とす……これが真の修練なのですね。素晴らしい境地です」
氷室は勝手に感動し、熱っぽい視線を向けてくる。完全に勘違いしているが、訂正するのも面倒だ。
俺は部屋に戻り、買い置きしてあった湿布の箱を持ってくると、彼女の手に押し付けた。
「とりあえず、風呂に入ってこれを貼って寝ろ。睡眠時間を削るやつは長生きしないぞ」
「師からの賜り物……! ありがたく頂戴いたします。この湿布にも、何か特別な魔力伝導の仕掛けが?」
「ただの市販薬だ。近所の薬局で安売りしてた」
氷室は湿布の箱を胸に抱きしめ、深く一礼しようとして「ぐっ」と顔をしかめた。背筋が限界らしい。俺は呆れながら彼女を見送り、散歩の目的地を変更することにした。
◆ーーーー◆
「おい、剣崎。遅いぞ」
指定されたダンジョン庁の訓練施設に入ると、角刈りの男が腕を組んで待ち構えていた。鬼瓦鉄平だ。
今日は彼が担当する初心者講習の特別ゲストとして呼ばれている。日当が出るという言葉に釣られてやってきたが、どうにも居心地が悪い。
「すまない、道端で小鹿を保護していてな」
「小鹿? まあいい。今日集まっているのは、先週登録を済ませたばかりの新人たちだ。お前には彼らの前で、実戦の動きを見せてもらう」
鬼瓦の後ろには、真新しい防具を身につけた十数人の若者が整列していた。皆、緊張した面持ちでこちらを見ている。俺の見た目が十七歳だからか、少し戸惑っている者もいるようだ。
「俺の動きを見せて、参考になるのか?」
「なるわけがないだろう」
鬼瓦は即答した。眉間の皺がいつもより深い。
「お前のあのデタラメな動きを真似すれば、新人は三日で死ぬ。だから今日は、反面教師として呼んだんだ」
「反面教師ねえ」
「そうだ。マニュアルを無視して力任せに動くとどうなるか。その極端な例として、お前の戦い方を見せる。新人たちには『絶対に真似をしてはいけない悪い見本』として説明するつもりだ」
鬼瓦はそう言い切ったが、その声にはどこか苦悩の色が滲んでいた。彼自身、俺の動きが単なる力任せではないことに気づいているはずだ。だが、それを言語化して新人に教える術を持たないのだろう。
「まあ、日当分は働くさ」
俺たちは講習用の低層ダンジョンへと移動した。ここはスライムやゴブリンといった低級モンスターしか出ない、安全管理の徹底されたエリアだ。
「よし、まずは剣崎にあのゴブリンを倒してもらう。お前たち、彼の動きの『悪さ』をよく観察しろよ」
鬼瓦の指示で、新人たちがノートを片手に身構える。
前方に現れたのは、錆びた鉈を持ったゴブリンだった。俺は支給された模擬剣をだらりと下げ、ゆっくりと歩み寄る。
「ほら、見ろ。あんな隙だらけの構えでは、いつ攻撃されてもおかしくない。本来なら盾を前に出し、重心を低く保つべきだ」
鬼瓦が解説を入れる。俺はゴブリンの正面に立ち、あくびを噛み殺した。
ゴブリンが奇声を上げ、鉈を振り下ろしてくる。
俺は半歩だけ横にずれ、模擬剣の柄でゴブリンの額を軽く小突いた。
パァン、という破裂音が響き、ゴブリンは白目を剥いて後ろに倒れ込んだ。そのままピクピクと痙攣し、動かなくなる。
「……」
新人たちが静まり返る。鬼瓦も口を半開きにしたまま固まっていた。
「おい、これでいいのか?」
俺が振り返ると、鬼瓦は咳払いをして新人たちに向き直った。
「えー、今のは……その、相手の自滅を誘うという、非常にリスキーな戦法だ。運が良かっただけだから、絶対に真似しないように!」
無理があるだろ、その解説。
講習はその後も続いた。俺が適当にモンスターをあしらうたびに、鬼瓦が苦しい言い訳をひねり出して新人に説明する。なんだか彼が気の毒になってきた。
「よし、今日のところはこれくらいにしておくか」
鬼瓦が額の汗を拭い、講習の終了を宣言しようとしたその時だった。
ズズズ……と、地鳴りのような低い音が響いた。
「地震か?」
新人たちがざわめく。だが、揺れはない。音の出所は、通路の奥の石壁だった。
ピキッ、と壁に亀裂が走る。
「全員、下がれ!」
鬼瓦が鋭い声を上げ、新人たちを庇うように前に出た。
次の瞬間、轟音とともに石壁の一部が崩落した。
もうもうと立ち込める土煙。それが晴れると、そこにはぽっかりと開いた未知の空間が露出していた。
「なんだ、ここは……隠し部屋か?」
鬼瓦が警戒しながら崩落箇所に近づく。
俺は鼻をひくつかせた。土埃に混じって、微かに硫黄の匂いが漂ってくる。
「おい、鬼瓦。あの中から温泉の匂いがするぞ」
「温泉だと? 馬鹿なことを言うな。ここは低層の講習エリアだぞ。そんな特殊な環境が形成されるはずが……」
鬼瓦の言葉が途切れた。
崩落した壁の奥から、冷たい風が吹き出してきたのだ。
それはただの風ではない。肌を刺すような、濃密で重い空気。
「……なんだ、この魔力溜まりは」
鬼瓦が顔を青ざめさせ、腰の剣に手をかけた。
俺も目を細める。
低層ダンジョンには似つかわしくない、異質な気配。それは先日、郊外の森で神崎の測定器が拾ったあの不気味なノイズと、どこか似た手触りを持っていた。
「新しい温泉じゃないのか。残念だ」
俺は肩をすくめ、手元の模擬剣を軽く握り直した。
暗い穴の奥底で、何かがゆっくりと蠢く気配がする。
この未知の空間には、一体何が隠されているのか。
俺は晩飯の買い出しに遅れないことだけを祈りながら、その暗闇を見据えた。




