第8話
翌日の昼下がり。俺は真新しいフリーパスを改札に通し、少し遠方の海浜エリアへ足を運んだ。
都心の喧騒から離れ、電車に揺られること一時間。窓の外には青い海が広がり、スローライフを満喫するには絶好のロケーションだった。
異世界での移動といえば、泥濘に足を取られながら何日も歩き続けるか、気性の荒い馬に揺られるしかなかった。それに比べれば、冷暖房完備で時間通りに目的地へ運んでくれる現代の鉄道は、まさに魔法以上の代物だ。
定期券を買わずに済むというのは、想像以上に快適だ。担当官の計らいには感謝しなければならない。
駅を降りると、潮の香りが鼻をくすぐる。
足元では、昨日からすっかり俺の相棒気取りのポチが「キュゥ」と期待に満ちた声を上げていた。
「焦るな。美味そうな匂いは俺にも分かってる」
目的は、海鮮系モンスターが出現するという中層ダンジョン『蒼海洞窟』だ。
洞窟の入り口には、初心者マークをつけた探索者たちが数人たむろしていた。彼らは分厚いマニュアルを開き、攻略手順を真剣な顔で確認している。
「装甲蟹の甲殻は硬い。まずは魔法で牽制し、重機で関節を狙うんだ」
そんな声が聞こえてくる。俺は彼らを横目に、手ぶらで洞窟の奥へと進んでいった。
「おい、君! その装備で中層に入る気か!? 危険だぞ!」
親切な若者の制止を背中で聞き流し、俺は迷わず洞窟の奥へと足を踏み入れた。空腹を満たすため、目当ての食材の元へ急ぐ。
青白い発光苔に照らされた地底湖。水面が大きく波立ち、巨大なハサミを持つ甲殻類が姿を現す。
装甲蟹と呼ばれるモンスターだ。普通の探索者にとっては厄介な敵らしいが、俺にとってはただの食材にすぎない。
俺は足元に転がっていた、手頃な太さの流木を拾い上げた。
装甲蟹が泡を吹きながら、巨大な右のハサミを振り下ろしてくる。地響きを立てて迫る質量。
俺は流木をだらりと下げたまま、一歩だけ前に踏み込んだ。
四十年の実戦で極められた、究極の脱力と理合の型。
甲殻の継ぎ目、最も脆い関節部分に流木の先端を正確に滑り込ませる。
パカン、と小気味よい音を立てて、巨大な蟹の右腕が外れた。
そのまま流木を返し、急所を軽く叩いて沈黙させる。
「よし。今日の晩飯はカニだな」
命のやり取りなんてものは、さっさと終わらせるに限る。俺は新鮮な身が詰まった脚を何本か担ぎ、帰路についた。
夕暮れ時。下町の定食屋の引き戸を開けると、出汁の良い香りが漂ってきた。
「女将さん、これ茹でてくれないか」
俺が巨大な蟹の脚をカウンターに置くと、割烹着姿の佐藤絹代は目を丸くした。
「あんた、またとんでもないもん拾ってきたねえ! まったく、よく食べる高校生だこと」
女将さんは豪快に笑い、すぐに厨房の奥から特大の鍋を引っ張り出してきた。長年使い込まれた出刃包丁が、硬い甲殻を鮮やかに断ち切っていく。
「今日は特別メニューだよ! みんな、席を詰めな!」
常連客たちが歓声を上げ、あっという間に店内は宴会の空気に包まれる。
「師匠! ウチも混ぜてよ!」
派手なピンク色の髪を揺らし、星野キララが店に飛び込んできた。手にはちゃっかりカメラを持っているが、レンズのキャップは閉まったままだ。
「お前、どこから嗅ぎつけたんだ」
「ウチの情報網を舐めないでよね! っていうか、そのカニめっちゃ美味しそう!」
キララがポチの頭を撫でながら、カウンターの端に陣取る。
さらに、店の戸が静かに開き、純白の戦闘服を着た氷室玲奈が姿を見せた。
「……奇遇だな。私も食事に来たのだが」
「お前もか。まあ座れよ。カニは腐るほどある」
氷室は少し頬を染めながら、俺の隣の席に腰を下ろした。Sランクの威厳はどこへやら、その視線は鍋の中で赤く色づいていくカニの脚に釘付けになっている。
そこへ、スーツ姿の神崎結衣までが疲れた顔で入ってきた。
「あなたという人は……GPSの反応が海浜エリアにあったと思ったら、こんなところで宴会ですか」
「お疲れさん。担当官も食うか? 茹でたてだぞ」
神崎は胃のあたりを押さえながらも、湯気を立てるカニの脚を見て小さく息を吐いた。
「……今日だけですよ。一般市民の安全確認と、書類の整理は終わらせてきましたから」
定食屋は完全な宴会場と化していた。
女将さんが手際よく捌いたカニの刺身、香ばしい匂いを放つ焼きガニ、そして野菜たっぷりのカニ鍋。
「んん〜っ! これヤバい! 甘みがギュッてなってる!」
キララがカニの身を頬張り、カメラが回っていない素のリアクションで感動している。
氷室は無言でカニと格闘していた。戦闘では完璧な動きを見せる彼女だが、カニの殻を剥くのはどうやら苦手らしい。不器用な手つきで身をほじり出している。
神崎はお猪口で日本酒をちびちびとやりながら、「上層部の連中も、少しはこのカニを見習って中身を詰めてほしいものです」とぼやいていた。
俺は熱燗を傾けながら、その光景をぼんやりと眺めていた。
異世界での四十年間。
凍えるような夜、冷たい岩肌に背を預け、硬い干し肉を齧りながら夜明けを待った日々。
生き延びるための食事は、常に孤独と隣り合わせだった。いつ魔物に襲われるか分からない極限状態の中で、温かいものを食べる余裕などなかった。
だが、今は違う。
目の前には湯気を立てる温かい食事があり、耳を澄ませば賑やかな笑い声が聞こえる。
「どうしたの、師匠? 手が止まってるよ!」
キララがカニの爪を振り回しながら声をかけてくる。
「あなた、あまり無理して食べないでくださいよ。未成年なんですから、お酒もほどほどに」
神崎が少し赤い顔で、お役所気質を覗かせながら小言を言う。
「……私が剥いた身だ。食べるか?」
氷室が、苦戦の末に綺麗に身を取り出したカニの皿を、そっと俺の前に押し出した。
騒がしい連中だ。だが、この騒がしさが今はたまらなく心地よい。
俺は氷室からカニの身を受け取り、口に放り込んだ。濃厚な甘みが広がる。
「いや、なんでもない。ただ、悪くない日常だと思ってな」
二度目の人生は、最高の通勤圏内だ。
俺は静かに微笑み、空になったグラスを置いた。
ポチが足元で満足げに丸くなり、女将さんが「まだまだあるよ!」と新しい皿を運んでくる。
この平和な時間が、明日も明後日も続いていく。
さて、明日の晩飯は何にしようか。
果てしないスローライフの可能性に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じていた。




