第7話
夕暮れのダンジョンに、俺たちの足音が静かに響いていた。
氷室玲奈は、手にした木刀を振り下ろしながら、真剣な顔で俺の隣を歩いている。
「剣崎さん。明日は朝六時からでよろしいでしょうか」
「……俺は寝坊する予定だ」
「では、七時に迎えに上がります!」
話が通じない。俺は小さくため息をつき、リードを引いた。ポチが嬉しそうに鳴きながら、足元をちょこちょことついてくる。
彼女の真っ直ぐな視線は、かつて異世界で出会った若き騎士たちを思い起こさせた。彼らもまた、強さを求めて俺に付き纏ってきたものだ。
だが、ここは地球だ。魔王もいなければ、世界を救う義務もない。
家に帰り、温かい風呂に浸かって一息つく。
冷蔵庫から、あの特級ボスの肉の残りを取り出した。塩と胡椒だけで焼き上げると、香ばしい匂いがキッチンに広がる。
一口かじれば、濃厚な肉汁が溢れ出した。異世界で泥水をすすりながら食った魔牛の肉とは、比べ物にならないほど美味い。
安全な寝床と、美味い飯。これさえあれば、俺は満足だ。
面倒な行政のルールや、トップ探索者の弟子入り志願など、適当に流しておけばいい。
食事の時間は絶対に邪魔させない。俺は誰にも邪魔されることなく、平和な晩飯を満喫した。
◆ーーーー◆
ダンジョン庁、局長室。
私、御子柴健三は、デスクの上に積まれた報告書を前に深く息を吐いた。
特級指定ダンジョン『新魔王城』のスタンピード未遂事件。
軍隊もSランク探索者も歯が立たなかった規格外の怪物を、たった一人の少年が単独で解体した。
映像記録には、鉄パイプ一本で特級ボスを瞬殺する剣崎崇の姿がはっきりと映っている。
「……馬鹿げている」
私はこめかみを揉んだ。
これまで、彼の規格外の力をなんとか国家の管理下に置き、ダンジョン庁の実績として利用しようと画策してきた。
だが、前提が間違っていたのだ。
あれは探索者という枠に収まる存在ではない。
機嫌を損ねれば、特級ダンジョン以上の脅威となり得る。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、神崎結衣が入室してきた。
「局長、お呼びでしょうか」
相変わらず、少し疲労の色が見える生真面目な顔だ。
「神崎くん。剣崎崇の件だが……方針を変更する」
私は重々しく告げた。
「彼を、特例の自然災害として扱う」
「……はい?」
神崎くんが間の抜けた声を漏らす。
「国家の管理下に置くことは諦める。彼には自由に動いてもらった方が、結果的に被害が少ない。下手にルールで縛り付けて暴れられる方が、組織にとって致命的だ」
「それは……つまり、丸投げということですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。柔軟な対応と言いたまえ」
私は咳払いをした。
「君には引き続き、彼の担当窓口を任せる。彼が一般社会に溶け込めるよう、機嫌を損ねない範囲でサポートしたまえ。これは、特例措置のパスだ」
私は一枚の黒いカードをデスクに滑らせた。
神崎くんはカードと私の顔を交互に見比べ、深くため息をついた。
「……局長。書類の不備は絶対に許しませんからね。始末書はそちらで処理してください」
呆れ果てたような口調だったが、彼女の目には、どこか覚悟を決めたような光があった。
◆ーーーー◆
翌日の昼下がり。
俺は近所の公園のベンチで、ポチと一緒に日向ぼっこをしていた。
平和だ。実に平和だ。
睡眠時間を削られることもなく、のんびりとした時間が流れている。
「剣崎さん。こんなところにいたんですね」
聞き慣れた、少し硬い声。
振り向くと、スーツ姿の神崎結衣が立っていた。相変わらずきっちりとした身なりだが、以前のようなピリピリとした緊張感は少し薄れている気がする。
「なんだ、担当さん。今日は説教か?」
「違いますよ。あなたに渡し物があって来たんです」
神崎は隣に座り、バッグから一枚の黒いカードを取り出した。
「これは?」
「ダンジョン庁が発行した、特例の『無制限フリーパス』です」
神崎は少しだけ誇らしげに言った。
「局長が、あなたを国家の管理下に置くことを正式に諦めました。今後は、このパスがあれば、ランク制限や事前申請なしで、国内のあらゆるダンジョンに立ち入ることができます」
俺はカードを受け取り、まじまじと見つめた。
黒い券面には、金色の文字で俺の名前が刻まれている。
「……マジか」
俺は思わず声を漏らした。
「ええ。ただし、一般市民の安全を最優先すること。それだけは守ってくださいね」
「いや、そうじゃない」
俺はカードを太陽の光にかざした。
「これがあれば、通勤定期券を買わずに済むじゃないか。都心だろうが地方だろうが、遠くのダンジョンの食材も採り放題だ」
神崎の表情が、ピシリと固まった。
「……は?」
「いやあ、助かる。最近、近所のダンジョンの肉には飽きてきてたんだ。これで、北の雪山ダンジョンにいるっていう氷結蟹も、南の火山ダンジョンにいる火吹き鳥も、交通費ゼロで採りに行ける。食費が浮くぞ」
俺がホクホク顔でカードをポケットにしまうと、神崎は両手で顔を覆った。
「……特級指定の入場パスを、スーパーの特売チラシみたいに言わないでください……」
指の隙間から、くぐもった声が漏れる。
「なんだよ。せっかくのパスなんだ、有効活用しないと損だろ」
「あなたの有効活用のベクトルが、根本的におかしいと言っているんです!」
神崎が顔を上げ、ビシッと俺を指差した。
「いいですか、剣崎さん! このパスは、あなたが自由に活動することで、結果的にスタンピードなどの危機を防いでもらうための……」
「わかってる、わかってる。ついでに掃除くらいはしてやるよ。命のやり取りなんて、ただの作業だからな」
俺が適当に手をひらひらさせると、神崎は深くため息をついた。
だが、その顔に以前のような絶望感はない。
「……本当に、あなたは規格外ですね」
神崎は呆れたように言いながらも、どこか憑き物が落ちたような、柔らかい笑みを浮かべた。
「まあ、私が担当になったからには、一般市民の安全と書類の不備だけは厳しくチェックしますから。せいぜい、美味しい食材を採ってきてください」
「ああ。期待しててくれ」
俺は頷いた。
口うるさいお役所気質だが、根は真面目で面倒見がいい。この担当官との関係も、悪くないと思えるようになってきた。
「キュゥ」
ポチが俺の足元で鳴き、神崎の靴の匂いを嗅いでいる。
神崎は少し躊躇いながらも、ポチの頭を優しく撫でた。
「さて、明日はどこの肉を狙うか」
俺は空を見上げた。
異世界での四十年間、飢えと寒さに震えながら戦い続けた日々は、もう遠い過去だ。
今は、温かい食事と安全な寝床があり、少しばかり騒がしいが、悪くない日常がある。
ポケットの中のフリーパスが、俺の新しいスローライフの可能性を広げてくれていた。




