第6話
「置いてかないでくださいってばー! 師匠ーっ!」
背後から追いかけてくるキララの声が、穏やかな朝の街に響き渡る。
面倒な役人に目をつけられ、騒がしい配信者に付きまとわれ、足元には異世界の魔物によく似た非常食。
思い描いていた完璧なスローライフとは少し違うかもしれない。
だが、この賑やかな日常も、悪くない。
俺は小さく息を吐き、歩き出した。
秋の高い空の下、公園の木々が風に揺れている。
足元では、黒い毛玉のようなダンジョンウルフの幼体が、短い足で一生懸命についてきている。
「キュゥ」
「腹が減ったのか、非常食。帰ったら飯にしてやる」
ポチの頭を撫でながら、俺はあくびを噛み殺した。
昨日は特級指定のボスとかいうのを解体して、少しばかり体を動かした。おかげで今日は妙に眠い。
温かい布団に潜り込んで、夕方まで泥のように眠る。それが今の俺のささやかな目標だった。
だが、アパートの前に着いた途端、その目標は脆くも崩れ去った。
古びた木造アパートの階段下に、場違いなほど洗練された純白の戦闘服を着た女が立っていた。
氷のように冷たい美貌と、銀色の長髪。
Sランク探索者の氷室玲奈だ。
彼女は俺の姿を認めるなり、背筋をピンと伸ばして歩み寄ってきた。
「お待ちしていました。あなたに折り入ってお願いがあります」
凛とした声が、静かな住宅街に響く。
「悪いが、今は昼寝の時間だ。睡眠時間は削らない主義でね」
俺は立ち止まらずに階段を上ろうとしたが、氷室は俺の前に回り込み、深く頭を下げた。
「どうか、私を弟子にしてください!」
その言葉に、俺は思わず足を止めた。
「……は?」
「あの特級ボスを一撃で解体した剣技。現代のセオリーを完全に無視しながら、圧倒的な威力を誇るあの太刀筋。どうしても学びたいのです」
氷室は顔を上げ、真剣な眼差しで俺を見つめてくる。
若くしてSランクに登り詰めた天才肌。プライドが高く他人に厳しいと聞いていたが、自分より強い者には素直に頭を下げるらしい。
だが、俺にとっては面倒事以外の何物でもない。
「弟子なんて取らない。俺のやり方は、現代のマニュアルには合わないぞ」
「構いません。私はさらなる高みを目指したい。そのためなら、これまでの常識を捨てる覚悟はあります」
食い下がる氷室に、俺はため息をついた。
ここで追い返しても、納得するまで毎日待ち伏せされそうな気配がある。
命のやり取りは仕事ではなく、ただの作業として終わらせる。それと同じで、この面倒な交渉もさっさと片付けるに限る。
俺はアパートの植え込みに落ちていた、手頃な長さの木の枝を拾い上げた。
「じゃあ、これで素振りを一万回やっておけ。握り方はこうだ」
俺は木の枝を両手で握り、だらりと下げてみせた。
現代の剣術セオリーから見れば、隙だらけの素人丸出しの鉄パイプの握り方と同じだ。
だが、これは異世界での四十年の実戦で極められた、究極の脱力と理合の型である。
「これが……」
氷室は息を呑み、俺から木の枝を恭しく受け取った。
「終わるまで話しかけるなよ」
「はい! ありがとうございます、師匠!」
勝手に師匠呼ばわりされたが、訂正するのも面倒だ。見た目が十七歳だからといって、若者特有のノリを強要されるのは少しむっとするが、今は静寂が優先だ。
氷室はアパートの前の空き地に移動し、俺が教えた奇妙な構えで素振りを始めた。
シュッ、シュッ、と鋭い風切り音が響く。
「これで数時間は静かになるだろう」
俺は満足して、自分の部屋へと向かった。
◆ーーーー◆
一時間後。
俺は窓の外から聞こえてくる騒がしい声で目を覚ました。
「素晴らしい……! なんという無駄のない動きだ!」
野太い声に聞き覚えがあった。
窓から下を覗き込むと、空き地で素振りを続ける氷室のそばに、角刈りで筋骨隆々の男が立っていた。
初心者講習の教官を務める、鬼瓦鉄平だ。常に眉間に皺を寄せている堅物が、今は目を輝かせている。
「むっ、氷室殿。今の振り下ろし、わずかに肩に力が入っているように見受けられるが」
「ご指摘感謝します、鬼瓦教官。この究極の脱力の型、頭では理解していても、体が無意識に現代のセオリーを追ってしまいます」
「無理もない。我々が長年信じてきた安全マニュアルとは対極にある構えだからな。だが、Sランクである君が、己のプライドを捨てて基礎中の基礎を反復している。その姿勢、教官として感服の至りだ!」
鬼瓦は腕を組み、熱い涙を流さんばかりに感動している。
マニュアルと安全を第一とする男が、なぜか俺の適当な指導を絶賛していた。
氷室の素振りは、確かに一時間前より洗練されている。だが、それを見守る鬼瓦の熱血指導が加わり、空き地は異様な熱気に包まれていた。
「……なんであんなに熱血なんだ、現代人は」
俺はカーテンを閉め、深いため息をついた。
これではうるさくて昼寝どころではない。
足元では、ポチが退屈そうに尻尾を振っている。
「キュゥ」
「そうだな。ひとっ風呂浴びてくるか」
俺は財布とタオルを掴み、部屋を出た。
駅に向かいながら、ポケットから都心行きの通勤定期券を取り出す。
帰還して早々に購入したこの定期券は、本来なら魔王討伐という名の果てしない日常業務へ向かうための切符だった。
改札のセンサーに定期券をタッチし、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
電車に揺られること数十分。俺とポチは、郊外にある温泉ダンジョンへとやってきた。
内部に天然の温泉が湧き出す特殊な環境。モンスターも少なく、俺にとってはスローライフを満喫するための絶好の散歩コースだ。
受付で入場料を払い、脱衣所で服を脱ぐ。
岩風呂の露天スペースに出ると、硫黄の香りが鼻をくすぐった。
「ふう……生き返るな」
肩まで湯に浸かり、目を閉じる。
湯船の底で思い切り足を伸ばし、四十年間酷使し続けた筋肉をゆっくりと揉みほぐす。
常に飢えと寒さと死の危険が隣り合わせで、泥水をすすりながら野営する日々。温かい食事も安全な寝床も、いつ奪われるか分からない極限状態。
それに比べれば、この温かい湯はまさに極楽だ。
ポチも湯船の縁で丸くなり、気持ちよさそうに目を細めている。
食事の時間は絶対に邪魔させない主義だが、風呂の時間も同じくらい重要だ。
しばらく無心でお湯を楽しんでいると、不意に背後から声がした。
「見つけましたよ……!」
振り返ると、息を切らした氷室が立っていた。
純白の戦闘服は汗で張り付き、銀色の髪も乱れている。
「は? お前、素振りはどうした」
「一万回、終わらせてきました。ですが、まだ何も掴めません。次はどうすれば……っ、なぜお風呂に!?」
氷室は湯船に浸かる俺を見て、目を丸くした。
「なぜって、温泉ダンジョンだからな」
「これも……修行の一環なのですか? 極限まで肉体を追い込んだ後、特殊な効能を持つ湯で経絡を開く、とか……」
「いや、ただの風呂だ。お前も入るか? あっちに女湯があるぞ」
俺が適当に指差すと、氷室は戸惑いながらも真剣な顔で頷いた。
「なるほど。これも強者のルーティン……学ばせていただきます」
彼女は勝手に解釈を深め、女湯の方へと消えていった。
相変わらず、現代のトップ探索者は真面目すぎる。
◆ーーーー◆
風呂上がり。
休憩所のベンチで、俺はよく冷えたフルーツ牛乳を飲んでいた。
腰に手を当てて一気に飲み干す。この甘さがたまらない。
「お待たせしました」
さっぱりとした顔つきになった氷室が、隣に腰を下ろした。
「どうだ、いい湯だっただろう」
「はい……。不思議と、体の芯から疲労が抜けていくような感覚がありました」
氷室は自分の手のひらを見つめながら、静かに呟く。
「あの特級ボスを前にした時、私は自分の無力さを痛感しました。Sランクという称号が、いかにちっぽけなものかと思い知らされたのです」
彼女の横顔には、以前のような張り詰めたプライドはない。
「ですが、あなたの戦いを見て、世界が変わりました。圧倒的な力。それなのに、あなたは普段、こうして些細な日常を愛し、のんびりと過ごしている」
氷室は俺の方に向き直り、まっすぐな視線を向けてきた。
「分かりました。あなたの強さの根底にあるものが」
「ん?」
「この平和な日常。温かいお風呂や、美味しい食事。それを守るという強靭な意志こそが、あの規格外の剣技を生み出しているのですね」
氷室の瞳には、確かな尊敬の念が宿っていた。
俺は手元の空き瓶を見つめた。
あの特級ボスを倒したのは、あいつの肉が異世界の魔牛に似ていて美味そうだったからだ。
ただの食料確保であり、平和を守るなんて高尚な意志は欠片もない。
だが、ここで真実を告げれば、彼女の真面目な性格からして、さらに面倒な問答に発展するのは目に見えている。
「……まあ、そんなところだ」
俺が適当に肯定すると、氷室は深く頷いた。
「私も、あなたのような揺るぎない強さを手に入れます。明日からも、ご指導よろしくお願いします」
「勝手にしろ」
俺はベンチから立ち上がり、ポチのリードを引いた。
「キュゥ」
ポチが嬉しそうに鳴きながら、俺の足元をちょこちょことついてくる。
氷室も当然のように俺の隣を歩き始めた。
思い描いていた完璧なスローライフとは、やはり少し違う。
だが、風呂上がりの心地よい疲労感の中、こうして誰かと並んで歩くのも、悪くないと思えた。
俺たちの足音が、夕暮れのダンジョンに静かに響いていた。




