第5話
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翌朝。
俺はリードの先でちょこちょこと歩き回る黒い毛玉を眺めながら、大きく伸びをした。
「きゅんっ」
ダンジョンウルフの幼体であるポチが、足元に転がってきた色鮮やかな落ち葉にじゃれついている。小さな前足で葉っぱを押さえ込もうとしては風に逃げられ、一人で勝手に転げ回る姿は、どう見てもただの犬だ。
特級指定のダンジョンが暴走し、街がパニックに陥ったのは昨日のことだ。だが、一夜明けた都内の公園は、拍子抜けするほど穏やかな空気に包まれていた。
秋の涼しい風が、頬を撫でていく。
異世界では、朝目覚めるたびに魔物の咆哮と血の匂いが風に乗って運ばれてきた。冷たい泥の上で浅い眠りを貪り、いつ襲撃されるか分からない緊張感の中で夜明けを迎えるのが日常だった。
それに比べて、今のこの平和はどうだ。
自販機で買った温かい缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。
焙煎された豆の香りと、程よい苦味が胃の腑に染み渡る。
「……やっぱり、朝はこうでなくちゃな」
睡眠時間を削られることもなく、食事の時間を邪魔されることもない。
ただの散歩が、これほど贅沢に感じられるとは。
ベンチに腰を下ろし、平和な風景をぼんやりと眺めていると、視界の端に派手なピンク色が飛び込んできた。
「あーっ! いたいた、師匠ーっ!」
静寂を破る甲高い声。
動きやすさより見栄えを重視したサイバーパンク風の探索服を揺らしながら、星野キララが駆け寄ってくる。
手にはしっかりとスマートフォンが握られ、レンズがこちらを向いていた。
「ウチの推し、発見しました! みんな、見てるー?」
「……朝から元気だな、お前」
「当然ですよ! 昨日のアレ、ネットじゃもうお祭り騒ぎなんですから!」
キララは興奮気味にまくしたてる。
どうやら、俺が特級ボスを解体した件が、どこかから漏れたらしい。
「あの剣技、どうやったんですか!? 鉄パイプじゃなくて、なんかすごいオーラとか出てましたよね!? 掲示板じゃ『正体不明の強者』の正体がついに判明か、ってスレッドが乱立してますよ!」
「ただの作業だ。肉が美味そうだったから、さっさと終わらせただけだ」
「またまたー、照れ隠しですか?」
キララは全く引き下がる気配がない。
命のやり取りをエンタメとして消費する現代の感覚には、まだ少し慣れない。だが、彼女に悪気がないことは分かっている。
「それより師匠、これ差し入れです!」
キララが差し出したのは、コンビニのロゴが入った袋だった。
中から出てきたのは、生クリームとフルーツがたっぷり詰まった新作のクレープ。
「……もらっていいのか」
「もちろん! 昨日の大活躍のお祝いです!」
遠慮なく受け取り、一口かじる。
途端に、口の中に広がる強烈な甘味と、とろけるようなクリームの食感。
異世界の硬いパンと塩気しかない干し肉とは、完全に次元が違う。
「……美味いな、これ」
「でしょでしょ! 今バズってる新作なんですよ! 生地にもこだわってて……」
現代の利便性と豊かさは、やはり最高だ。
俺はキララのマシンガントークを適当に聞き流しながら、至福のスイーツタイムを満喫した。
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ダンジョン庁のオフィス。
神崎結衣は、デスクに積み上げられた書類の山を前に、深く、ひたすらに深い溜息をついていた。
「特級ダンジョン消滅に伴う事後報告書……未登録探索者による単独討伐の経緯……それに、周辺被害の始末書……」
目の前のモニターには、昨日の騒動に関するデータが延々と表示されている。
胃の奥がキリキリと痛む。
「どうして、あの人はいつも規格外の事ばかり起こすんですか……」
剣崎崇。
『年齢・十七歳』と印字された探索者登録証のコピーを、神崎は恨めしそうに睨みつけた。
彼が担当になってからというもの、神崎の平穏な公務員生活は完全に崩壊していた。
マニュアルも規則も、彼には一切通用しない。
今回もそうだ。特級指定のスタンピードという未曾有の危機に、彼は通勤電車に乗って現れ、あっさりとボスを討伐してしまった。
おかげで、ダンジョン庁の上層部は大混乱に陥っている。
「書類の不備は絶対に許されないのに……これじゃ、何から手をつければいいのか」
こめかみを押さえながら、手元のマグカップに手を伸ばす。コーヒーはすっかり冷めきっていた。
だが、ふと窓の外に目をやると、そこにはいつもと変わらない街の風景が広がっていた。
スーツ姿の会社員が歩き、学生たちが笑い合いながら登校していく。
もし昨日、彼が現場に現れなかったら。
この街は、今頃瓦礫の山になっていたかもしれない。
「……一般市民の安全を守るのが、私たちの仕事ですからね」
神崎は誰に言うともなく呟き、キーボードに手を戻した。
胃痛の種であることには変わりない。懲戒免職の恐怖も常に付きまとっている。
それでも、彼がこの街を守ってくれたという事実だけは、素直に認めざるを得なかった。
「今回だけは、大目に見ます。……今回だけは、ですよ」
自分に言い聞かせるように呟き、神崎は再び書類の山との格闘を始めた。
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「でねでね、ウチのチャンネルの登録者数、昨日だけで十万人も増えたんですよ!」
公園のベンチで、キララが嬉しそうにスマートフォンの液晶を見せてくる。
俺はクレープの最後の一口を飲み込みながら、適当に相槌を打った。
「そうか。そいつは良かったな」
「師匠のおかげです! だから、これからもウチの動画に出てくれませんか? 専属カメラマンとして、どこまでもついていきますから!」
「断る。俺はのんびりスローライフを送りたいんだ」
「えーっ、そんな殺生な! 減るもんじゃないじゃないですかー!」
足元では、ポチがクレープの包み紙から漂う甘い匂いに釣られて、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「きゅーん!」
「お前にはやらん。腹を壊すぞ」
ポチの頭を軽く撫でてやると、不満そうに鼻を鳴らしながらも、大人しく俺の足にすり寄ってきた。
平和だ。
異世界での四十年間、こんなふうに誰かと他愛のない会話を交わす余裕などなかった。
常に飢えと寒さと死の危険が隣り合わせで、温かい食事も安全な寝床も、いつ奪われるか分からない極限状態。
それに比べれば、今のこの騒がしさは、むしろ心地よいとすら思える。
「あ、そうだ師匠! 次はどこのダンジョン行きます? 温泉? それとも美味しいモンスターがいるところ?」
キララが目を輝かせて身を乗り出してくる。
「今日は行かない。帰って昼寝する」
「えーっ! ちょっと待ってくださいよ、師匠ー!」
俺はベンチから立ち上がり、ポチのリードを軽く引いた。
秋の高い空の下、公園の木々が風に揺れている。
「置いてかないでくださいってばー! 師匠ーっ!」
背後から追いかけてくるキララの声が、穏やかな朝の街に響き渡る。
面倒な役人に目をつけられ、騒がしい配信者に付きまとわれ、足元には異世界の魔物によく似た非常食。
思い描いていた完璧なスローライフとは少し違うかもしれない。
だが、この賑やかな日常も、悪くない。
俺は小さく息を吐き、歩き出した。




