第4話
地鳴りが響き、無数の赤い目が暗闇の中で一斉に開く。
晩飯の肉を手に入れただけの俺の前に、未曾有の危機が口を開けていた。
赤黒い瘴気が渦を巻き、特級ダンジョンの奥から次々と異形の怪物が這い出してくる。先ほど解体した魔牛など目ではない、禍々しい気配を纏った群れだ。
俺は足元に置いた霜降り肉の塊を見下ろした。せっかく綺麗に切り分けたというのに、このままでは瘴気にあてられて鮮度が落ちてしまう。
「やれやれ。食事の時間を邪魔されるのが、一番腹が立つんだがな」
ため息をつきながら、俺は血塗れの鉄パイプを軽く振り直した。
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「くそっ……! 防衛線が保たない! 後退しろ!」
崩壊した市街地の瓦礫の中で、鬼瓦鉄平は血を吐くような声で叫んだ。角刈りの頭にはべったりと土埃がこびりつき、常に寄せられている眉間の皺がさらに深くなっている。
彼の視線の先では、Sランク探索者の氷室玲奈が孤軍奮闘していた。純白だったはずの戦闘服は泥と魔物の返り血で汚れ、銀色の長髪が乱れている。
「私が退けば、都心は終わりよ! 持ち堪えなさい!」
氷室は鋭い声で周囲を鼓舞するが、その息は荒い。彼女の放つ冷気の刃が怪物を数体凍らせて砕くものの、湧き出す群れの数は絶望的だった。
『無駄な足掻きだ、モルモットども』
突然、周囲に設置された防災用スピーカーから、芝居がかった男の声が響き渡った。
『私の完璧な制御理論が生み出した特級の力、とくと味わうがいい。君たちの命は、私の偉大な実験のデータとして永遠に記録されるのだから光栄に思いたまえ』
阿久津博士。今回の特級ダンジョン活性化を引き起こした張本人だ。安全な場所からモニター越しに見下ろしているのだろう。その傲慢な響きに、鬼瓦はギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「ふざけるな……! 探索者の命をなんだと思っている!」
『命? ただの数値だよ。さあ、私の最高傑作の目覚めだ』
地響きが一段と大きくなり、ダンジョンの入り口から巨大な影が姿を現した。
先ほどの魔牛を遥かに凌ぐ巨体。全身を硬質な鱗で覆われ、四つの腕を持つ異形の特級ボスだった。その咆哮だけで、周囲のガラスが粉々に砕け散る。
氷室の顔から血の気が引いた。彼女の冷気では、あの鱗一枚すら凍らせることはできないだろう。
誰もが死を覚悟した、その時だった。
「おい、そこのおっさん。スピーカー越しでうるさいぞ」
気の抜けた声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
◆ーーーー◆
俺は片脇に霜降り肉の塊を抱えたまま、特級ボスの前へと歩み出た。
周囲の探索者たちが信じられないものを見るような目を向けてくるが、気にする余裕はない。肉の温度が上がってしまう前に、この面倒な作業を終わらせる必要がある。
スピーカーから、苛立ったような声が響いた。
『なんだ、その薄汚いガキは。私の実験を邪魔する気か?』
「ガキ扱いされるのは慣れてるが、食事の邪魔をされるのは我慢ならないタチでね」
俺が鉄パイプをだらりと下げて意図的に隙を晒すと、特級ボスは苛立ちを露わにして巨体を揺らした。
四つの腕が、俺を粉砕しようと一斉に振り下ろされる。風を裂く轟音。
俺は一歩だけ前に踏み込んだ。
四十年の実戦で極められた、究極の脱力と理合の型。
下段から跳ね上げるように、鉄パイプを振り抜く。
閃光。
それ以外の表現が見つからないほどの一撃が、特級ボスの巨体を駆け抜けた。
硬質な鱗も、強靭な筋肉も、阿久津とやらが豪語していた制御理論の魔力障壁も、すべてが紙切れのように両断される。
巨大な怪物は悲鳴を上げる間もなく、十字に切り裂かれて崩れ落ちた。その余波だけで、背後に群がっていた怪物たちも一掃され、赤黒い瘴気が霧散していく。
静寂が降りた。
『ば、馬鹿な……! 私の理論が……ただの鉄パイプで!? あり得ない、こんな数値は存在しない!』
スピーカー越しの声が裏返り、パニックに陥っている。俺は肩をすくめ、鉄パイプを放り捨てた。
「命のやり取りなんてものは、ただの作業だ。さっさと終わらせるに限る」
俺が肉の塊を抱え直して振り返ると、銀髪の女探索者がへたり込んだまま、俺を凝視していた。
「あなた……一体、何者なの……?」
氷室の震える声には、恐怖ではなく、純粋な畏敬の色が混じっていた。その横では、鬼瓦が口を半開きにして固まっている。
「ただの通りすがりさ。今日の晩飯は焼肉だな」
俺は笑い飛ばし、都心行きの通勤定期券をポケットの上から軽く叩いた。
ダンジョン庁の管理も、マッドサイエンティストの野望も、俺の知ったことではない。俺はただ、愛する平和な日常と温かい食事に帰るだけだ。
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「あら、タカシちゃん。また随分と立派なお肉ねえ。育ち盛りはいっぱい食べなきゃ!」
下町の定食屋。割烹着姿の佐藤絹代が、俺の持ち込んだ肉を見て目を細めた。
「女将さん、持ち込みで悪いんだけど、これ焼いてくれないか。タレは濃いめで頼む」
「任せときなさい。あんたの食べっぷりを見てると、こっちまで元気が出るわ」
女将さんは豪快に笑い、厨房へと消えていく。
カウンター席に座り、出された熱いお茶をすする。テレビでは、先ほどの特級ダンジョン消滅のニュースが繰り返し流れていた。正体不明の強者による一撃だと、キャスターが興奮気味に語っている。
やがて、香ばしい匂いと共に、山盛りの焼肉定食が運ばれてきた。
「お待ちどおさま! ご飯は特大にしておいたわよ」
「助かるよ」
箸を取り、タレの絡んだ肉を口に運ぶ。
濃厚な脂の甘みと、噛み応えのある肉質。間違いない。異世界で四十年、泥水をすすりながら食べていたあの魔牛の味だ。
当時は生き延びるために必死で喰らっていた魔王軍幹部の肉だが、こうして平和な日本の定食屋で、炊きたての白米と一緒に食べると、信じられないほど美味く感じる。
飢えと寒さに震える夜は、もう来ない。
俺は温かい味噌汁をすすり、深く息を吐き出した。現代の些細な利便性と、この静かなスローライフ。これこそが、俺が命を懸けて取り戻したかったものだ。
「うまいな」
独り言のように呟くと、女将さんが嬉しそうに笑った。
◆ーーーー◆
同じ頃。
ダンジョン庁の地下深くにある特別解析室では、重苦しい沈黙が落ちていた。
モニターの青白い光が、数人の分析官たちの顔を照らしている。
阿久津博士の身柄は、特級ダンジョン消滅直後に別動隊によって確保されていた。しかし、問題は彼が残したデータ端末の中身だった。
画面には、阿久津が構築したという制御理論の数式が羅列されている。だが、その根幹部分には、現代の科学はおろか、ダンジョン由来の魔力法則すら逸脱した未知の言語コードが組み込まれていた。
『私の理論は完璧だった。あれは、あの方から授かった真理なのだから』
拘束された阿久津が、狂気じみた笑みを浮かべて語った言葉が、録音データとして再生される。
『ダンジョンがなぜ地球に湧いたのか。君たちは何も分かっていない。あれは始まりに過ぎないのだよ』
解析官の一人が、震える指でキーボードを叩いた。
阿久津のデータが示しているのは、特級ダンジョンの発生が自然現象でも、彼個人の狂気によるものでもないという事実。
地球の裏側、あるいは次元の壁を越えたさらに深い場所から、何者かが意図的にダンジョンのコアを刺激し、この世界を造り変えようとしている痕跡。
画面に表示された未知のエネルギー波形は、ゆっくりと、だが確実に、次の脈動を始めていた。




