第3話
ダンジョン庁の局長室。
けたたましい警報音が鳴り響く中、神崎結衣は血の気を失った顔で壁面の巨大モニターを睨みつけていた。
「局長、特級指定ダンジョン『新魔王城』の魔力反応がレッドゾーンを突破しました。このままではスタンピードが発生します!」
デスクの向こう側で、局長の御子柴健三が神経質そうに細い目をすがめた。彼は高級スーツの袖をいじりながら、神崎が先ほど提出したばかりの報告書に視線を落とす。
「神崎くん。君が担当している剣崎崇という男の報告書だがね。この『デコピンで水蛇を討伐』というのは、何かの隠語かね?」
「いえ、文字通りの物理現象です」
神崎は胃のあたりを押さえながら答えた。御子柴は組織の利益を第一に考え、規格外の力を持つタカシを国家の管理下に置こうと画策している。しかし、今はそれどころではない。
「局長、剣崎さんの件は後回しです! 今すぐSランク探索者と防衛隊に緊急出動要請を!」
「分かっている。だが、現代の防衛システムで特級の暴走を止められるか……」
御子柴の額に冷や汗が浮かぶ。すでに真っ赤に染まりきったモニターの絶望的な予測図から目を逸らし、彼は手元の報告書を強く握りしめた。国家の命運が風前の灯火となっている今、この規格外の男をどうにかして最前線へ投入できないかと、御子柴は必死に策を巡らせていた。
◆ーーーー◆
その頃、タカシは郊外の未発見温泉ダンジョンにいた。
「なんだ、この物々しい柵は」
タカシがタオルを片手に首を傾げていると、蛇のような目つきをしたスーツ姿の男が現れた。悪徳企業幹部の黒田景虎だ。
「ここは我々が管理することになった。一般の立ち入りは禁止だ。さっさと立ち去りたまえ」
黒田は薄ら笑いを浮かべながら告げた。彼はこの温泉ダンジョンの資源を独占し、巨万の富を得る完璧な計画を立てていた。
「俺は風呂に入りに来ただけなんだが」
「言葉が通じないようだな。実力で排除しろ」
黒田の合図で、武装した部下たちがタカシに襲いかかる。
タカシは小さくため息をついた。
「睡眠時間は削らないし、食事の時間も絶対に邪魔させない。そして、風呂の時間も同じくらい大事なんだよ」
タカシは手近にあった木の枝を拾い上げ、軽く振るった。
突風が吹き荒れ、黒田の部下たちと強固なバリケードがまとめて吹き飛ぶ。
「な、何が起きた……!?」
尻餅をついた黒田を尻目に、タカシは悠々と露天風呂へと歩いていった。完璧な独占計画は、ただの湯治客によって物理的に粉砕された。
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風呂上がり。タカシは駅前の定食屋で遅めの昼食をとろうとしていたが、街頭ビジョンが騒がしいことに気づいた。
『緊急速報です。東京都心の特級ダンジョンが活性化し、巨大なモンスターが地上に出現しつつあります!』
画面には、防衛隊の装甲車を紙くずのようになぎ払う巨大な牛型のモンスターが映し出されていた。
タカシは画面をじっと見つめた。
「……あれ、異世界の魔牛に似てるな」
四十年の過酷な戦いの中で、タカシは幾度となく魔王軍の幹部と戦ってきた。その中の一体、魔牛の肉は、驚くほど霜降りが乗っていて美味だった記憶がある。
タカシの腹が、ぐうと鳴った。
「今日の晩飯は焼肉にするか」
タカシは駅の券売機に向かい、「都心行きの通勤定期券」を購入した。
命のやり取りは仕事ではなく、ただの作業だ。だが、美味い飯のための買い出しとなれば話は別である。
タカシは改札を抜け、平和な日常の延長として、通勤電車に揺られてスタンピードの現場へと向かった。
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東京都心。特級ダンジョン「新魔王城」の周辺は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「くそっ、装甲がまるで紙だ! Sランクの攻撃も通じないぞ!」
最新鋭の装備で固めた軍やトップ探索者たちが、次々と吹き飛ばされていく。
巨大な魔牛の咆哮がビル群を震わせ、人々は絶望に顔を歪めていた。
そこに、場違いなアナウンスが響く。
『次は、新宿、新宿。お出口は右側です』
地下鉄の入り口から、タオルを首に巻いたタカシが悠然と歩いてきた。
「お前、あんた! 早く逃げろ! ここは特級指定の最前線だぞ!」
血だらけの探索者が叫ぶが、タカシは気にする様子もなく、その辺に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。
「少し軽いが、まあ贅沢は言えないな」
タカシは鉄パイプを両手で握り、だらりと下げた。素人丸出しの構えに見えるが、それは四十年の実戦で極められた究極の脱力と理合の型だった。
魔牛がタカシに気づき、地響きを立てて突進してくる。
「死ぬぞ!」
探索者の絶叫が響く中、タカシは一歩だけ前に踏み込んだ。
「肉質を落とさないように、一瞬で解体してやるよ」
タカシの姿がブレた。
次の瞬間、鉄パイプが閃光となって魔牛の巨体を駆け抜ける。
勇者の剣技解放。
現代の常識を凌駕する一撃。
巨大な魔牛の体は、まるでパズルが崩れるように、部位ごとに綺麗に解体されて地面に崩れ落ちた。
血一滴すら無駄にしない、完璧な解体作業だった。
周囲は水を打ったような静寂に包まれた。
「よし、これで上質な霜降りが手に入ったな」
タカシは満足げに頷き、晩飯の肉を確保した。
だが、タカシが肉を拾い上げようとしたその時だった。
解体された魔牛の奥、特級ダンジョンの入り口から響く不気味な脈動音に、タカシは肉へ伸ばしかけた手を止めた。
空間そのものが歪み、赤黒い瘴気が間欠泉のように噴き出す。
先陣を切った魔牛の死を合図とするように、暴走状態のコアはさらなる怪物の群れを絶え間なく吐き出し続けていた。すでに決壊していた防衛線を嘲笑うかのように、真の厄災が地上へと溢れ出していく。
地鳴りが響き、無数の赤い目が暗闇の中で一斉に開く。
晩飯の肉を手に入れただけのタカシの前に、未曾有の危機が口を開けていた。




