第2話
翌日。俺は日銭を稼ぐため、都内にある初心者向けのダンジョンへ足を運んでいた。
四十年ぶりの現代日本は、俺の記憶にある姿から大きく変貌している。かつての地下鉄の駅や商業施設の跡地が、そのままダンジョンの入り口として管理されていた。入り口には自動改札機のようなゲートが設置され、探索者たちはICカードをかざして中へと入っていく。
俺も昨日、帰還者窓口で発行された仮の初心者タグを首から下げ、ゲートをくぐった。
内部は蛍光灯で照らされ、順路を示す看板まで立っている。泥水をすすり、硬い干し肉を噛みちぎりながら、いつ終わるとも知れない魔王討伐の旅を続けていた異世界とは大違いだ。安全で、快適で、素晴らしい。現代のダンジョン探索など、俺にとってはピクニックのようなものだった。
だが、少し奥の階層へ進むと、人工的な明かりは途絶え、むき出しの岩肌が続くようになった。
「ギャアアアア! 誰か助けてえええ!」
静寂を破るような悲鳴が響いた。
声のする方へ向かうと、派手なピンク色の髪をした小柄な女が、巨大なカマキリ型のモンスターに追い詰められていた。動きやすさよりも見栄えを重視したような、サイバーパンク風の奇抜な探索服を着ている。
彼女は腰を抜かしながらも、手にした自撮り棒の先についたカメラをしっかりとモンスターに向けていた。
「ウチ、ここで死ぬの!? チャンネル登録者数まだ十万人いってないのに! 誰か、スパチャで助っ人呼んで!」
俺は道中で拾った工事用の鉄パイプを、だらりと右手に下げた。
死の淵に立たされながらもカメラを手放さない現代人の執念には呆れるが、見殺しにする趣味はない。昨日も似たような空腹の苛立ちを抱えながら魔物を処理したなと思い出しつつ、俺は静かに息を吸い込んだ。
カマキリが鋭い鎌を振り上げ、女の首を刈り取ろうとした瞬間。
俺は一歩だけ前に踏み込み、だらりと下げていた鉄パイプを下段から跳ね上げた。昨日もやった手慣れた作業だ。魔王軍の近衛兵が放つ神速の斬撃に比べれば、この程度のカマキリの動きなど止まって見える。俺はあくびを噛み殺しながら、無造作に鉄パイプの先端をカマキリの顎下へと叩き込んだ。
甲高い破砕音とともに、硬質な甲殻が紙くずのように弾け飛んだ。カマキリの巨体は壁に激突し、光の粒子となって霧散する。
「……え?」
女が尻餅をついたまま、目を丸くして俺を見上げた。
「怪我がないなら、さっさと帰れ。ここは遊び場じゃないぞ」
「ちょ、ちょっと待って! 今の、ウチの配信に乗ってた!? キミ、高校生くらいに見えるけど、喋り方が完全におじさんじゃん! 謎の高校生おじさん爆誕キタコレ!」
女——星野キララと名乗った配信者は、興奮した様子でカメラを俺に向けた。
「お前、あんたのテンションにはついていけん。俺は忙しいんだ」
俺は適当にあしらい、その場を後にした。日銭になる魔石をいくつか拾えれば、それで十分だ。
◆ーーーー◆
数時間後。
俺は正規のルートから外れた未踏破領域の奥深くで、静かな地底湖のほとりに湧く天然の温泉を見つけていた。
「ああ……極楽だな」
服を脱いで湯に浸かり、大きく息を吐き出す。硫黄の匂いが漂う天然の露天風呂。岩肌からこんこんと湧き出る湯は、適度な温度を保っている。四十年ぶりの広い風呂だ。温かい湯が、冷え切っていた骨の髄まで染み渡っていく。
ふと、岩陰から黒い毛玉のような生き物が飛び出してきた。ダンジョンウルフの幼体だ。
俺は湯船から片手を伸ばし、飛びかかってきた毛玉の首根っこをひょいとつまみ上げた。
「お、いい肉付きだな。異世界の魔牛に比べれば物足りないが、非常食にはなるか」
「キュ、キュゥゥゥン!」
毛玉は俺の言葉を理解したのか、空中で必死に前足を合わせ、土下座のような姿勢で命乞いを始めた。
「……まあ、飯を分けるくらいならいいか」
俺が荷物からコンビニのソーセージを取り出してやると、毛玉は目を輝かせてそれに食いついた。どうやらモンスターとしての本能よりも、食欲を優先するらしい。
すっかり懐いた毛玉は、俺の頭の上に乗って気持ちよさそうに目を閉じた。
「剣崎さん! 探しましたよ!」
そこに、スーツ姿の神崎結衣が息を切らして駆け込んできた。手にはタブレットを握りしめ、顔を真っ赤にして怒っている。
「あんたか。どうやってここへ?」
「初心者用のタグにはGPSがついているんです! って、なんでお風呂に入ってるんですか! ここは未踏破領域ですよ、一般市民の安全を最優先するルールをなんだと思ってるんですか!」
神崎が胃のあたりを押さえながら叫ぶ。真面目なお役所気質は相変わらずらしい。
「まあいいじゃないか。あんたも入るか? いい湯だぞ」
「入りません! 規則違反です! 始末書が何枚になるか……!」
神崎が頭を抱えたその時、地底湖の水面が大きく盛り上がった。
ザバーッという水音とともに、巨大な水蛇が姿を現す。青白い鱗に覆われた中層のボス格だ。周囲の空気が急激に冷え込み、殺気が肌を刺す。
「け、剣崎さん、危ない!」
神崎が悲鳴を上げる。マニュアル通りなら、即座に撤退して応援を呼ぶべき状況だろう。
だが、俺は湯船に浸かったまま、右手の親指と中指を弾いた。
ただのデコピンだ。しかし、四十年の実戦で練り上げられた魔力と筋力の連動は、空気を極限まで圧縮して不可視の弾丸に変える。
ドンッ、という破裂音。
水蛇の眉間が吹き飛び、巨体が崩れ落ちて光の粒子に変わった。
「……え?」
神崎が口を半開きにして固まる。
「少し湯がぬるくなったな。非常食、上がるぞ」
「キュゥン」
俺が立ち上がってタオルを手に取ると、神崎はふらふらと後ずさり、その場にへたり込んだ。
「もう……マニュアルなんて……意味ないじゃないですか……」
彼女の胃痛は、当分治まりそうになかった。
◆ーーーー◆
その夜。
俺は帰還者用の仮住まいである安アパートの畳の上に寝転がり、コンビニの唐揚げをかじっていた。
「キュン!」
ポチと名付けた毛玉が、尻尾を振って唐揚げをねだる。
「お前はさっきドッグフードを食っただろ。これは俺の分だ。食事の時間は絶対に邪魔させない主義なんだよ」
温かい飯と、安全な寝床。異世界での四十年間、飢えと寒さと死の危険に晒されながら渇望し続けたものがここにある。
テレビをつけると、昼間の出来事がニュース番組の特集になっていた。
『謎の高校生おじさん、中層ダンジョンで無双! 若手配信者を救出』
画面には、俺がカマキリを粉砕する瞬間の切り抜き動画が流れている。
「ウチの師匠、マジでヤバいっしょ! みんなチャンネル登録よろしく!」
ワイプの中で、キララが勝手に俺を師匠呼ばわりしてはしゃいでいた。どうやら彼女は、俺の非公式広報担当を名乗るつもりらしい。
「……面倒なことになったな」
俺はため息をつき、テレビを消した。
まあいい。誰に騒がれようと、俺の目的は変わらない。この平和で快適な現代日本で、のんびりとスローライフを送る。それだけだ。
俺はポチの柔らかい毛並みを撫でながら、静かに目を閉じた。
◆ーーーー◆
だが、平和な日常は、常に唐突に終わりを告げる。
ダンジョン庁の深夜のオフィス。
残業中の神崎結衣は、デスクに突っ伏して胃薬を水で流し込んでいた。
「剣崎さんの報告書、どうやって書けばいいのよ……デコピンでボスを討伐って、誰が信じるんですか……」
公務員としての矜持を保とうにも、相手が規格外すぎて書類の体裁すら整わない。
愚痴をこぼしたその時、彼女のスマートフォンがけたたましい警告音を鳴らした。
同時に、オフィスの壁面に設置された巨大モニターが真っ赤に染まる。
『緊急警報。緊急警報』
無機質なアナウンスが響き渡る。
神崎は跳ね起き、モニターに表示されたデータに目を疑った。
東京都心に位置する特級指定の未踏破ダンジョン——通称「新魔王城」。
その最深部から、観測史上最大クラスの異常な魔力反応が検出されている。グラフの数値が跳ね上がり、レッドゾーンを軽々と突破していく。
「嘘でしょ……特級ダンジョンが、活性化……?」
モニターには、地上へ向かって溢れ出そうとする無数の生体反応が、真っ赤な濁流となって映し出されていた。
現代最強のSランク探索者たちでさえ、足を踏み入れることすら躊躇う絶望の領域。そこから放たれる圧倒的な脅威の波長が、都心の夜空を不気味に歪ませていく。
神崎は震える手でデスクの端を握りしめた。
マニュアル通りに動く現代の防衛システムが、果たしてこの事態に通用するのか。
窓の外で、サイレンの音が遠く鳴り響き始めていた。




