第1話
「……あの、剣崎さん。確認ですが、失踪されたのは四十年前、ですよね?」
ダンジョン庁の帰還者窓口。アクリル板の向こう側で、スーツ姿の担当官が引きつった笑みを浮かべていた。神崎結衣という名札がついている。
「ああ。ずいぶんと長かったな」
「ですが、先ほどの測定結果では、あなたの肉体年齢は十七歳と出ています。これは明らかにシステムエラーかと……」
神崎は手元のタブレットと俺の顔を交互に見比べ、完全にフリーズしている。無理もない。俺自身、鏡を見るたびに違和感を覚えるのだから。
異世界に召喚され、泥水をすすりながら魔王を討伐するのに四十年かかった。ようやく地球に帰還してみれば、世界中のあちこちにダンジョンが湧き、探索者が公務員のように管理される社会へと変貌していた。
おまけに俺の体は、召喚された当時の十七歳のままだ。中身はすっかり初老だというのに、若々しい肌の張りが恨めしい。
「エラーじゃないさ。そういう仕様なんだよ」
「仕様、ですか……? いえ、それよりも問題なのは戸籍です。四十年間の行方不明により、剣崎さんの戸籍は現在喪失状態にあります。復活手続きには時間がかかりますし、その間の生活保護費もすぐには下りません」
神崎が胃のあたりを押さえながら説明する。真面目なお役所気質らしい。
「なら、自分で稼ぐしかないな。とりあえず、近所のダンジョンで日銭を拾ってくるよ」
「えっ? ちょっと待ってください! 未成年は保護者の同意が必要ですし、そもそも探索者免許の取得には初心者講習の受講が義務付けられて……」
「心配するな。都心行きの通勤定期券も買っちまったし、交通費の元は取らないとな」
俺は立ち上がり、パイプ椅子を元の位置に戻した。
「剣崎さん! お話はまだ終わって……!」
背後から響く神崎の制止の声を適当に聞き流し、俺は窓口を後にした。四十年の過酷な戦いを終え、俺が望むのは温かい飯とふかふかの布団だけだ。面倒な手続きは後回しにして、まずは当面の生活費を稼ぐとしよう。
街を歩きながら、俺は大きく伸びをした。
アスファルトの平らな道。排気ガスの匂い。どこからか聞こえる電子音。どれもこれも、四十年ぶりに味わう平和の象徴だ。
しばらく歩くと、巨大なコンクリートの壁に囲まれた施設が見えてきた。近所の初心者向けダンジョンだ。入り口付近の広場では、数十人の若者たちが整列し、教官らしき男の怒声を聞いていた。
「いいか! ダンジョン内ではマニュアルの遵守が命を救う! 危険を感じたら即座に撤退しろ! 英雄気取りの無茶は絶対に許さん!」
角刈りで筋骨隆々の男が、威圧的な態度で指導している。鬼瓦鉄平というらしい。
俺は散歩でもするような足取りで、その集団の横を通り抜けようとした。
その時だった。
けたたましい警報音がダンジョンの入り口から鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
「イレギュラー発生! 中層のモンスターがゲートを突破しました!」
施設内の職員が叫ぶのと同時に、巨大な影が飛び出してきた。全身を分厚い岩の装甲で覆われた、猪のような魔物だ。初心者向けの浅い階層には絶対に現れないはずの代物である。
「ひぃっ!」
「逃げろ!」
パニックに陥り、散り散りに逃げ惑う初心者たち。
「落ち着け! 私が盾になる! お前たちは速やかに退避しろ!」
鬼瓦が前に進み出て、身の丈ほどもある特殊合金の盾を構えた。マニュアル通り、まずは防御を固めて応援を待つ戦術だろう。
だが、突進してきた岩猪の質量は、現代の装備の限界を超えていた。
凄まじい衝突音とともに、鬼瓦の体が宙を舞う。
「ぐはっ……! くそっ、装甲が硬すぎる! 応援はまだか!」
地面に叩きつけられた鬼瓦が、血を吐きながら叫ぶ。岩猪は次の標的を探すように、赤い目をぎらつかせた。
その視線の先には、逃げ遅れた数人の若者が腰を抜かしている。
俺は小さくため息をついた。
腹が減っているのに、面倒なことになった。命のやり取りなんてものは、仕事ではなくただの作業としてさっさと終わらせるに限る。
俺は足元に転がっていた、工事用の鉄パイプを拾い上げた。
「おい、君! 何をしている、早く逃げろ!」
鬼瓦が俺の姿に気づき、悲痛な声を上げる。
俺は返事をせず、鉄パイプを軽く振って重心を確かめた。少し軽いが、まあ贅沢は言えない。
岩猪が俺に向かって突進を開始した。地響きを立てて迫る巨大な質量。
俺は鉄パイプを両手で握り、だらりと下げた。現代の剣術セオリーから見れば、隙だらけの素人丸出しの鉄パイプの握り方だろう。
だが、これは四十年の実戦で極められた、究極の脱力と理合の型だ。
「死ぬぞ!」
鬼瓦の絶叫が響く中、俺は一歩だけ前に踏み込んだ。
岩猪の巨大な牙が俺の体を貫く、その直前。
下段から跳ね上げるように、鉄パイプを一閃させた。
空気が爆ぜるような轟音が広場に響き渡る。
鉄パイプの先端が岩猪の顎下を捉え、分厚い岩の装甲ごと、その巨体を真っ二つに粉砕した。
血と肉片が雨のように降り注ぐ中、俺は血振りをするように鉄パイプを振り抜き、地面に放り投げた。
「よし、作業終了」
広場は水を打ったような静寂に包まれていた。
腰を抜かしていた若者たちも、地面に倒れ伏した鬼瓦も、信じられないものを見るような目で俺を見つめている。
現代の安全・マニュアル重視の管理体制。その常識が、ただの鉄パイプの一撃で根底から覆された瞬間だった。
「……さて、腹減ったな」
俺は呆然とする彼らを尻目に、踵を返した。これ以上目立つと、また面倒な手続きが増えそうだ。
ダンジョンから少し離れた商店街。その一角にある定食屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい! あら、タカシちゃん。今日も早いねえ」
割烹着姿の女将、佐藤絹代が満面の笑みで迎えてくれる。
「ああ。腹が減って倒れそうだよ、女将さん」
「はいはい、育ち盛りだもんね。今日も大盛りにしておくよ!」
カウンター席に座り、出された温かいお茶をすする。五臓六腑に染み渡るような安堵感。四十年の飢えと寒さ、常に死の危険に晒される極限状態から解放された、至福の時だ。
やがて、山盛りのご飯と肉野菜炒めが運ばれてきた。
「いただきます」
俺は箸を割り、無心で飯をかき込んだ。濃いめの味付けがたまらない。
肉を噛み締めながら、ふと先ほどの岩猪を思い出す。
(あいつ、異世界で食った魔牛の味に似てそうだったな。あの肉は硬かったが、煮込むといい出汁が出たんだよな……)
魔王軍の幹部だった魔牛を解体して鍋にした夜を懐かしく思い出しながら、俺は最後の一粒までご飯を平らげた。
「ごちそうさん。美味かったよ」
「お粗末さま! またおいでね、タカシちゃん!」
女将さんの明るい声に見送られ、俺は店を出た。
平和な日常。快適なスローライフ。
これこそが、俺が求めていたものだ。
◆ーーーー◆
同じ頃、ダンジョン前の広場。
神崎結衣は現場に駆けつけ、激しい胃痛に顔をしかめていた。
周囲には規制線が張られ、ダンジョン庁の調査員たちが慌ただしく動き回っている。
「神崎さん、これを見てください……」
主任調査員が、青ざめた顔でタブレットを差し出した。
画面には、真っ二つに粉砕された岩猪の残骸が映し出されている。
「装甲の切断面を解析したんですが……刃物や魔法によるものではありません。ただの鈍器による、純粋な物理的破壊です」
「鈍器……? まさか、その辺の鉄パイプで殴ったとでも言うんですか?」
「信じられませんが、現場の状況はそれを示しています。しかも、一撃で」
神崎は息を呑んだ。
特級探索者でさえ、中層のイレギュラーモンスターを鈍器の一撃で両断することなど不可能だ。
「鬼瓦教官の証言によれば、倒したのは十七歳くらいの少年だったと……」
神崎の手が震え、持っていた書類の束がカサリと音を立てた。
そこには、先ほど窓口で対応した少年のデータが記されている。
失踪四十年。肉体年齢十七歳。
剣崎崇。
マニュアル通りにしか動けないはずの現代のダンジョン社会に、突如として現れた規格外の存在。
この少年は、一体何者なのか。夕暮れの風が吹き抜ける中、神崎は底知れぬ不穏な予感に身を震わせた。




