第29話
午後の日差しが傾き、商店街の通りに夕餉の支度の匂いが漂い始める頃合いだった。
都心の騒ぎから一夜明け、世間はまだテレビの特別番組やネットの速報で持ちきりらしいが、下町の路地裏にはいつもの緩やかな空気が流れている。行き交う買い物客の足音と、自転車のベルの音が心地よく響いていた。
俺は保冷バッグを小脇に抱え、使い古された暖簾をくぐった。
引き戸をガラガラと開けると、使い込まれた醤油と出汁の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「いらっしゃい……おや、タカシちゃんじゃないかい。お昼時でもないのに珍しいねぇ」
厨房の奥から顔を出したのは、白い割烹着姿の佐藤絹代だった。ふくよかな顔に人懐っこい笑みを浮かべ、布巾で手を拭きながら迎えてくれる。
客足が途切れた時間帯とあって、店内には俺ひとりだった。テーブル席の椅子が几帳面に整えられている。
「女将さん、ちょっと頼みがあってな。いい肉が手に入ったんだが、これで焼肉定食を作ってくれないか」
「肉の持ち込みかい? まったく、仕込み中の店を捕まえて人使いが荒いんだから」
そう言いながらも、絹代の顔に嫌がる色は微塵もない。長年の付き合いで培われた気安さで、手招きをしてくる。
俺は保冷バッグから、厳重に包まれた肉の塊を取り出した。都心ダンジョンの特級ボスから手早く切り分けておいた、最上級の部位だ。分厚い霜降りの赤身は、空気に触れた瞬間、ほんのりとした淡い光沢と微細な熱気を帯びていた。
まな板の上にドンと置かれたそれを見て、絹代が目を丸くした。
「ちょいとお待ちなさいよ……なんだいこの肉は。見たこともないくらい綺麗なサシが入ってるじゃないの。それに、なんだかピリピリと温かいような……」
「駅前でちょっと調達してきたんだ。鮮度は保証する」
「駅前でこんな極上肉が売ってるわけないだろうに。まあいいわ、これだけの肉を見せられたら、料理人として腕が鳴るってもんさ」
絹代は腕まくりをすると、慣れた手つきで包丁を研ぎ始めた。どんな珍品であれ、まな板に乗ればただの食材として扱う。その豪快な割り切り方は、見ていて実に気持ちがいい。
研ぎ澄まされた刃が、肉へと吸い込まれていく。繊維に沿って薄く、それでいて食べ応えを残した絶妙な厚みに切り分けられていく様は、見事な職人技だった。
「タカシちゃん、タレは醤油ベースの甘辛でいいかい? ニンニクも少し利かせようかね」
「ああ、ガツンと頼む。白飯も丼で山盛りにしてもらえると助かる」
「はいよ、任せときな!」
熱せられた鉄フライパンに油が引かれ、切り分けられた肉が投入された。
ジュワッ、と心地よい爆音とともに、立ち上る濃密な白煙。肉汁が弾ける音に混ざって、甘辛い特製タレが焦げる暴力的な芳香が店いっぱいに充満する。
肉自体が持つ濃厚な脂の甘みが熱で溶け出し、タレの醤油と絡み合って黄金色の照りを生み出していく。
腹の虫が盛大に鳴いた。戦いの後だろうが何だろうが、腹は減るのだ。
数分もしないうちに、湯気を立てる大皿と、漫画のように盛られた白米、そして熱々の味噌汁が目の前に並べられた。
「お待たせ! 佐藤特製、極上肉のスタミナ焼肉定食だよ。冷めないうちにしっかりおあがり」
「いただきます」
割り箸を割り、俺は迷わず一番大きく焼き上がった一枚を掴んだ。
タレをたっぷりと纏った肉を口に運び、一気に噛み締める。
刹那、舌の上で弾けたのは圧倒的な旨味の濁流だった。
歯を立てた瞬間に繊維がほどけ、閉じ込められていた肉汁がじゅわりと溢れ出す。脂の融点が異常に低く、くどさを感じる間もなく上質なコクだけを残して喉の奥へと滑り込んでいく。タレの香ばしさとニンニクの風味が、肉本来の野性味あふれる風味を極限まで引き立てていた。
「……美味い」
思わず声が漏れた。ただ柔らかいだけではない。しっかりとした弾力と、噛むほどに湧き出る濃厚な滋味。この独特の風味と後味には、強烈な既視感があった。
向こうの世界で四十年もの間、野営地で焚き火を囲みながら齧っていた「魔牛」の味そのものだ。
思えば、あれも随分と骨の折れる相手だった。角から雷を撒き散らし、軍勢を率いて前線を壊滅させていた魔王軍の軍団長――通称・轟角公。頑丈な装甲を鉄の棒でひたすら叩き割って仕留めた後、飢えを凌ぐために解体してみたら、信じられないほど上質な赤身肉が取れたのだった。
仲間たちは「敵幹部を食うなんて正気か」とドン引きしていたが、背に腹は代えられない。いざ焼いてみれば全員が無言で骨までしゃぶり尽くす羽目になった、懐かしい思い出だ。
「あの時の幹部より、こっちの方が脂が乗ってて美味いな」
「ん? 何か言ったかい、タカシちゃん」
冷茶のピッチャーを置きに来た絹代が、不思議そうに首を傾げる。
「いや、昔食った牛の肉より、下処理がいいからずっと美味いと思ってな」
「当たり前じゃないのさ。あたしゃこの道四十年だよ。どこの誰が焼いたか知らないけど、あたしの腕前と比べてもらっちゃ困るねぇ」
絹代は腰に手を当ててからからと笑った。四十年の重みという意味では俺も同じはずなのだが、料理の腕前に関しては完全に女将さんの圧勝だった。
俺は笑みを返し、すぐさま白米に肉をバウンドさせてから口いっぱいに放り込んだ。タレの染みた米粒と肉汁が混ざり合い、至福の調和を生み出す。箸が止まらない。山盛りだった丼飯が、みるみるうちに消えていく。
「ふふっ、本当に気持ちのいい食べっぷりだねぇ。高校生はそうやってしっかり食べなきゃ駄目だよ」
絹代は目を細め、満足そうに頷いている。
見た目が十七歳であるせいで、世間からは何かと若造扱いされるのが玉に瑕だが、こうして大盛り飯を気兼ねなく振る舞ってもらえるのなら、若い外見もそう悪くはない。
壁に掛けられた小さなテレビからは、昼のニュースの続きが流れていた。画面の隅には「都心ダンジョンの危機を救った謎の高校生探索者」という仰々しいテロップが躍り、コメンテーターたちが熱弁を振るっている。
絹代がチラリとテレビを見上げ、茶碗を拭きながら呆れたように呟いた。
「世間じゃやれ特級だの英雄だのって大騒ぎしてるけどねぇ。あたしらにしてみりゃ、毎日こうやって平和にご飯が食べられるのが一番だよ。ねえ、タカシちゃん」
「ああ、全くだな。温かい飯を邪魔されずに食えるのが、何よりの贅沢だ」
俺は味噌汁を啜り、最後の一切れとなった肉をご飯に乗せて噛み締めた。
飢えと泥水にまみれ、いつ終わるとも知れぬ戦いに明け暮れていた長い年月。あの過酷な日々を生き延びた果てに手に入れたかったのは、名声でも富でもなく、ただこの一杯の温かい食事だったのだと思う。
「お代わり、まだあるかい?」
「はいよ! いくらでも食べなさい!」
絹代の明るい声と、湯気を立てる炊飯器の蓋が開く音が店内に響く。
外はすっかり夕暮れ色に染まり、家路を急ぐ人々の足音が窓の外を通り過ぎていった。
俺は差し出された二杯目の山盛りご飯を受け取り、静かな満足感とともに、再び箸を伸ばした。




