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第30話

腹八分目というには少々膨らみすぎた腹をさすりながら、俺は夜風の心地よい路地を歩いていた。


定食屋の女将が「育ち盛りなんだから持っていきな!」と持たせてくれたアルミホイルの包みは、手のひらにずっしりとした重みと温もりを伝えてくる。中に入っているのは、特級ボスの肉から出た端切れだ。味付けを施す前の、鮮度のいい上質な脂が乗った生肉である。


街灯がぽつりぽつりと灯る下町の住宅街は、どこかの家から漂う夕餉の匂いと、微かに漏れ聞こえるテレビの笑い声に包まれていた。都心であれほどの騒動があった直後だというのに、数駅離れたこの町にはいつもの穏やかな時間が流れている。


古い木造平屋の引き戸を開けると、暗がりの中からタタタッと慌ただしい爪音が響いてきた。


「キャンッ、クゥン!」


黒い毛玉のような塊が、猛烈な勢いで玄関まで滑り込んでくる。ダンジョンウルフの幼体――我が家の非常食こと、ポチだ。


千切れんばかりに尾を振り、俺のすねに鼻先をこすりつけてくる。留守番をさせられてよほど退屈だったのか、それとも俺が手に提げている包みの匂いを敏感に察知したのか。鼻をひくひくさせ、濡れた黒い瞳をキラキラと輝かせて見上げてくる。


「よしよし、いい子にしてたか。暴れたりしなかったようだな」


頭をわしゃわしゃと撫でてやると、ポチは目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。ダンジョンの深層で出会った頃の警戒心など見る影もない。今や完全に、ただの甘えん坊な小型犬である。


靴を脱いで板張りの廊下を上がり、台所へ向かった。ポチは俺の足元にぴたりと張り付き、一歩進むごとに爪をカツカツと鳴らしながらついてくる。


「ほら、お前にも土産があるぞ。あっちの特級品の肉だ。人間用にはタレで焼いたが、お前には生のままの方がいいだろう」


アルミホイルを開き、プラスチックの平皿に赤身と脂身が綺麗に入り混じった肉を一切れ落としてやる。床に皿を置いた瞬間、ポチは待ちきれないとばかりに顔を突っ込んだ。


「ハフッ、ハフッ、ムシャムシャ……!」


小さな口を精一杯に広げ、特級ボスの肉に無我夢中で食らいつく。野生を完全に忘れたその食べっぷりは、見ていて清々しいほどだ。一口噛むごとにあふれ出る魔力と旨味に目を丸くし、短い前足で皿を器用に押さえながら、一瞬で平らげてしまった。


皿をピカピカになるまで舐め尽くすと、ポチは満足そうに「ふひゅー」と長いため息を吐いた。そして膨らんだ腹を揺らしながら再びすり寄ってきて、俺のズボンの裾に顎を乗せてくる。


「美味かったか。そうだろうとも。あんな図体だけのデカい牛も、こうして肉になれば立派なご馳走だからな」


腹のあたりを軽く掻いてやると、ポチは心地よさそうに目を細め、その場にコテリと横倒しになって無防備な腹をさらした。



俺は台所のガスコンロにやかんをかけ、火をつけた。青い炎が静かに揺れ、やがてシュンシュンと細い湯気が立ち上り始める。


急須に茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。立ち上る香ばしい緑茶の香りを吸い込みながら、厚手の湯呑みに注ぎ分けた。深緑色の液体が、陶器の白い内側に美しいコントラストを描く。


湯呑みを片手に、俺は居間の障子を開けて縁側へと出た。


夜風がさらりと頬を撫でる。庭には古い飛び石と、手入れの行き届いていない小さなツツジの植え込みがあるだけだが、この狭さと静けさが今の俺にはちょうどいい。


縁側に腰を下ろし、板張りの上にぽすんと腰を落ち着ける。木肌の少しひんやりとした感触が、薄手のズボン越しに伝わってきた。少し遅れて、満腹になったポチがよちよちと歩いてきて、俺の太もものすぐ横に丸まった。


湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりと口をつける。


熱い茶が喉を通り、胃の腑へと染み渡っていく。じんわりとした温もりが体中に広がり、自然と深い息が漏れた。


見上げた空は、深い藍色へと移り変わる途中の、淡い紫と茜色が混ざり合ったグラデーションを描いていた。遠くのビル群の輪郭が夕闇の中に溶け込み、家々の窓にオレンジ色の明かりが一つ、また一つと灯っていく。


異世界にいた頃の空を思い出す。


あちらの空は、いつもどこか不気味な赤や濁った灰色に染まっていた。空を見上げる時は、決まってワイバーンの襲来を警戒する時か、毒の雨から身を隠す場所を探す時だけだった。星を見上げる余裕などなく、夜はただ寒さと飢えに震えながら、背中を冷たい岩壁に押し当てて浅い眠りを貪るだけの時間だった。


四十年。文字にすればたったの三文字だが、生き抜くにはあまりに長すぎる年月だった。


泥水を啜り、硬い野草を噛み砕き、いつ終わるとも知れぬ魔王軍との死闘に明け暮れていた日々。仲間が倒れ、武器が砕け、それでも立ち止まることを許されなかった過酷な旅路。


あの長い戦いの果てに、俺が本当に欲しかったものは何だったのか。


伝説の武器でも、王から授けられる領地でも、民衆からの万雷の喝采でもなかった。ただ、誰にも邪魔されることなく、温かい飯を腹いっぱい食って、こうして縁側で静かにお茶をすすること――それだけだったのだ。


「……まったく、贅沢なもんだな」


呟いた声は、夜風に溶けて消えていく。


肉体こそ十七歳のままだが、中身はとっくに隠居した老人のようなものだ。役所の若い連中がやれダンジョンの脅威だの、探索者の育成だのと騒ぎ立てているのを見ると、微笑ましいと同時に少しだけ同情したくなる。あいつらも大変な時代を生きているのだ。


だが、俺にとっては関係のない話だ。


世界中にダンジョンが湧こうが、都心に特級指定の化け物が出現しようが、それは俺の平穏を脅かす理由にはならない。邪魔なものが出れば、散歩のついでに鉄パイプを振って片付ければいい。電車に乗って、定期券を改札にタッチして、現場に行ってひと振りするだけだ。


二度目の魔王討伐などと大層な名目で呼ばれようと、俺にとっては通勤圏内でのちょっとした肉の調達に過ぎない。


隣で丸くなっているポチが、「くぅ……」と小さく寝言を漏らしながら前足をピクピクと動かした。夢の中で特級ボスの肉でも追いかけているのだろうか。指先で背中の毛を撫でてやると、温かい体温が伝わってくる。


遠くで、電車の走る微かな走行音が聞こえた。

ガタンゴトンと規則正しいリズムが夜の空気に響き、やがて遠ざかっていく。


明日は何をしようか。


定食屋の女将がくれたキャベツの残りがあるから、近所のスーパーで豚肉の特売でも探して、野菜炒めにでもするか。それとも、あの温泉ダンジョンにでももう一度足を伸ばして、のんびりと露天風呂に浸かってくるのも悪くない。


明日の晩飯のことだけを考えていればいい一日。

それ以上の幸福など、この世のどこを探してもありはしない。


湯呑みの底に残った最後の緑茶を飲み干し、縁側の板の上に置く。ことり、と小さな乾いた音が鳴った。


背中を壁に預け、深く息を吐き出す。


手に入れたのだ。過酷な四十年を生き抜いた対価として、これ以上ないほどに完璧で、退屈で、愛おしい日常を。


ゆっくりと瞼を下ろす。


心地よい夜風が、庭の草木をかすかに揺らしていった。


静まり返った縁側には、満ち足りた二つの寝息だけが、静かに、どこまでも穏やかに重なり合っていた。

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