第28話
カーテンの隙間から差し込む昼下がりの陽光が、畳の上に細長い光の帯を描いていた。
ちゃぶ台の上に置いた小型テレビからは、ワイドショーの司会者が興奮気味にまくし立てる音声が流れている。都心部を襲った未曾有の特級災害と、突如現れた制服姿の少年による一撃討伐――ネット上に拡散された動画の検証やら、専門家による防衛体制の議論やらで、どのチャンネルも大騒ぎだった。
「……ふわぁ」
俺は畳の上で大きくあくびをして、敷きっぱなしのせんべい布団に寝返りを打った。
世界がどうひっくり返ろうが、知ったことではない。都心まで電車に揺られて食材を調達してきたのだから、翌日の昼まで泥のように眠るのは当然の権利というものだ。異世界にいた頃は、魔王軍の襲撃を警戒して三日三晩眠れないことなど日常茶飯事だった。天井があって、鍵のかかる部屋で、誰にも邪魔されずに眠れる。これ以上の贅沢がどこにあるだろう。
「くぅん」
腹のあたりがもぞもぞと蠢き、黒い毛玉が顔を出した。ポチだ。俺のジャージの裾に潜り込んでいたらしい。小さな鼻先をひくひくさせながら、俺の顎の下にすり寄ってくる。
「おいおい、くすぐったいぞ」
指先で喉のあたりを掻いてやると、ポチは喉をゴロゴロと鳴らして目を細めた。ダンジョンで拾った当初は手のひらサイズだったが、毎日ちゃんとしたドッグフードと俺の飯の余りを与えているせいか、毛艶も良くなってきている。モンスターの幼体とはいえ、こうして腹を見せて甘えてくる姿は、ただの呑気な子犬と何ら変わらない。
布団から這い出し、伸びをして背骨を鳴らす。テレビの向こうでは、キャスターが「この英雄は一体何者なのか!」と声を張り上げていた。液晶画面をリモコンの主電源ボタンで消し去ると、部屋の中にしんと静けさが戻ってきた。
台所へ向かい、冷蔵庫のドアを開ける。昨夜、都心で仕留めて持ち帰った肉の塊が、巨大なタッパーの中で行儀よく鎮座していた。見事な霜降りの赤身は、一晩寝かせたことで余分なドリップも抜け、しっとりと熟成が進んでいる。異世界で討伐した魔王軍の軍団長――あの馬鹿でかい四つ足の猛獣肉によく似た、濃厚な魔力の匂いがかすかに漂っていた。
「よし、昼飯にするか」
昨夜は簡単にすき焼き風にして食ったが、まだまだ量はたっぷりある。今日は厚切りにして、シンプルに塩と胡椒で焼くのが良さそうだ。ついでにすりおろしニンニクと醤油を合わせれば、白飯がいくらでも進むだろう。
フライパンを取り出し、コンロに火をつけようとした、まさにその時だった。
アパートの薄い玄関ドアを、控えめながらも切迫した調子で叩く音が響いた。
「……いらっしゃいますか。ダンジョン庁の者です」
聞き覚えのある、少し疲れの混じった女性の声だった。
俺は火をつける手を止め、ため息混じりに玄関へと向かった。鍵を開けてドアを少し引くと、そこにはパリッとしたスーツを着崩すこともなく、きっちり髪をまとめた神崎が立っていた。手には分厚いバインダーを抱えているが、目の下にはうっすらと隈が浮かび、全体から凄まじい疲労感が漂っている。
「なんだ、神崎か。昼飯時だぞ」
「なんだ、ではありません! 電話にも出ない、メッセージも既読にならない……どれだけ心配したと思っているんですか!」
開口一番、神崎は吊り上がった眉の下から鋭い視線を投げかけてきた。だが、その怒声にはどこか張りがなく、本気で怒っているというよりは、張り詰めていた糸が切れたような脱力感が混ざっている。
「携帯の充電が切れてたんだよ。それに、無事なのはテレビ見りゃ分かるだろ」
「そういう問題ではありません! 都心部の特級指定区域への無断侵入、一般人装甲車列の強行突破、さらには未登録武器によるボスの無許可解体……行政規則の違反事項を挙げたら、始末書が何十枚あっても足りないんですよ!」
玄関先でまくし立てる神崎の額には、青筋が浮かびかけていた。真面目なお役所気質の彼女にとって、昨夜の俺の行動は頭痛の種以外の何物でもなかったのだろう。上層部への報告やマスコミ対応で、徹夜の作業を強いられたことは想像に難くない。
だが、そんな剣呑な空気をぶち壊すように、部屋の奥からポチがてててと走ってきた。神崎のパンプスの周りをくるくると回り、人懐っこくしっぽを振って「わふっ」と短く鳴く。
「あ……ポチちゃん」
神崎の厳しい表情が、一瞬でふにゃりと崩れた。しゃがみこんでポチの頭を撫でる手つきは手慣れたものだ。ポチも嬉しそうに神崎の手の甲を舐めている。
「……はぁ。本当に、あなたという人は……」
ポチの温もりに触れたことで緊張の糸が完全に切れたのか、神崎は玄関のたたきにへたり込むように深く息を吐いた。怒りの炎はすっかり鎮火し、残ったのはただの限界寸前の公務員の姿だった。
「立ち話もなんだ。上がれよ。ちょうど飯にするところだった」
俺がそう声をかけると、神崎は力なく眼鏡を押し上げ、観念したように靴を脱いだ。
「……お邪魔します。失礼ですが、少しだけ座らせてください。もう足が限界で……」
六畳一間の狭い部屋に通すと、神崎は吸い寄せられるように座布団へ腰を下ろした。ちゃぶ台の上に置かれた冷めた麦茶を一息に飲み干し、再び長い吐息を漏らす。
「庁内は今、蜂の巣をつついたような大騒ぎですよ。幸い、現場の映像はキララさんの配信以外すべてノイズ処理が間に合って、あなたの身元までは特定されていませんが……上層部は『あの少年は何者だ』『国家戦力として確保しろ』と大激論です。御子柴局長がうまく話を濁してくださったので、今回は『異常気象に伴う局所的魔力暴走による自壊』という極めて無理のある報告書で押し通すことになりましたが」
「へえ、そりゃ重畳だな」
俺は台所に戻り、分厚く切り分けた霜降り肉をまな板に並べた。
「重畳、じゃありません。どれだけ胃が痛む作業だったか……。それに、あなたが無茶をして命を落としていたらどうするつもりだったんですか。いくら腕に覚えがあるからといって、特級指定ですよ? 現代のトップ探索者たちが束になっても歯が立たなかった相手なんです」
神崎は書類を整える手を止め、畳を見つめながらぽつりと呟いた。その声には、規則違反への苛立ちではなく、純粋な安堵と心配が滲んでいた。口うるさい役人ではあるが、根底にあるのは市民の安全と、担当する俺への情なのだろう。
俺はフライパンを強火で熱し、油を引かずに肉を投入した。ジュワッという心地よい轟音とともに、香ばしい脂の匂いが一気に六畳間に広がる。
「無茶なんてしてないさ。通勤電車に乗って、頼まれていた用事を片付けて、晩飯の買い出しをして帰ってきただけだ」
「……それを人は無茶と呼ぶんです」
神崎が呆れたように肩をすくめる。だが、鼻腔をくすぐる肉の芳香には抗えないようで、喉が小さく動いたのを俺は見逃さなかった。
塩と粗挽き胡椒を振り、表面にこんがりと焼き色がついたところで火を止める。アルミホイルに包んで余熱で中まで火を通し、一口大に削ぎ切りにした。昨夜の残りの炊き立て白飯を丼に盛り、千切りキャベツを敷いた上に、たっぷりと肉を並べる。仕上げに特製のニンニク醤油ダレを回しかけた。
「ほら、昨日の肉だ。一緒に食うか?」
丼を二つ並べてちゃぶ台に置くと、神崎は目を丸くした。
「えっ、あ、でも……公務員が職務中にご馳走になるわけには……」
「仕事はもう終わったんだろ? 朝から何も食ってないような顔してるぞ」
神崎は腹の虫が鳴りそうになるのを必死で堪えるように口元を押さえ、やがて諦めたように両手を合わせた。
「……いただきます」
割り箸を割り、肉を一切れ口に運んだ瞬間、彼女の瞳が見開かれた。
「……っ! な、なんですかこれ……すごく柔らかくて、脂が甘くて……なのに全然くどくない……!」
「だろ。あの手の魔獣は、外殻を砕いて一番芯の筋肉を削ぎ落とすと極上の味になるんだ。異世界じゃ魔牛なんて呼んでたが、筋張ってなくて上等な肉質だったよ」
「これ、本当にあの恐ろしい特級ボスの肉なんですか……? 信じられません……」
神崎は夢中になって箸を動かし、大盛りのご飯を驚くべきスピードで平らげていく。さっきまでの疲労困憊した表情はどこへやら、頬をほんのり桜色に染めて、幸せそうに咀嚼していた。
ポチには味付けしていない茹で肉を少しだけ皿に取り分けてやると、尻尾を千切れんばかりに振ってがっついている。
テレビのニュースでは、都心の封鎖が解除され、日常が戻りつつあることを告げていた。電車は平常運行に戻り、人々は再び通勤や通学のために駅へと向かっている。
世界を救う大戦争も、歴史を揺るがす英雄譚も、俺にとっては過去のものだ。今の俺にあるのは、このちっぽけなアパートの一室と、美味い肉と、温かい飯だけ。
「ごちそうさまでした……ふぅ、生き返りました」
空になった丼を置き、神崎が満足そうにお茶をすする。その顔には、先ほどまでの刺々しさは微塵も残っていなかった。
「始末書の修正は?」
「……もう、どうにでもなれです。今日くらいは、定時で帰って泥のように寝ます」
「それがいい。美味いもん食って寝るのが一番だ」
窓の外からは、近所の子供たちが元気に走っていく声が聞こえてくる。ぽかぽかとした陽気が部屋を満たし、満腹になったポチは再び俺の膝の上で丸くなって寝息を立て始めた。
神崎は膝を抱え、穏やかな眼差しでその様子を眺めている。
「……本当に、平和ですね」
「ああ。平和が一番だ」
俺は残った麦茶を喉に流し込み、穏やかな午後の光の中で、ただ静かに目を細めた。




