第27話
崩壊した地下通路の瓦礫の陰で、星野キララは小型ドローンの操作端末を握りしめたまま、呼吸することすら忘れていた。
端末の液晶画面には、特級指定ボスの巨体が完全に両断され、霧散していく瞬間が鮮明に映し出されている。そしてその中心には、保冷バッグを大事そうに抱え、折れた鉄パイプを手にした少年の後ろ姿があった。
「……うそ、でしょ……」
漏れ出た呟きは、現場の静寂に吸い込まれた。だが、キララの手元にある配信端末の画面は、静寂とは程遠い狂乱の坩堝と化していた。
同時接続者数はすでに七桁の大台を軽々と突破し、コメント欄は肉眼で追うことすら不可能な猛スピードで流れている。
『は????』
『今何が起きた????』
『特級ボスが一瞬で消えたんだが??』
『あの鉄パイプの兄ちゃん誰だよ!!』
『Sランクの氷室玲奈が手も足も出なかった相手だぞ!?』
『神速の解体ショー……!?』
画面を埋め尽くす弾幕のような文字の嵐を見つめながら、キララは全身を駆け巡る激しい興奮に小さく震えた。
命懸けで潜入し、カメラを回し続けた甲斐があった。世界中の誰もが絶望し、都心の壊滅を覚悟したその瞬間に、彼女だけが一番の特等席で奇跡の瞬間を目撃していたのだ。
「見たか世界……! これが、ウチの師匠の力なんだよっ……!」
キララは拳を天高く突き上げ、歓喜の声を張り上げた。
危険を顧みずに配信を続けたことへの恐怖など、とっくに消し飛んでいた。ただただ、己が見込んだ規格外の存在が、世界の常識を真っ向から粉砕した快感に酔いしれていた。
画面の向こうで、タカシは振り返ることもなく、のんびりとした足取りで改札口の方へと歩いていく。その背中は、人類を滅亡の危機から救った英雄のそれというよりは、近所のスーパーで目当ての特売品を手に入れて満足げに帰る買い物客そのものだった。
「ふふっ……あーあ、もう絶対誰も信じてくれないやつじゃん。でも、映像はウチが全部バッチリ撮っちゃったもんねー!」
キララは自慢げに鼻を鳴らし、配信の録画データをバックアップ用のクラウドへと即座に転送した。
◆ーーーー◆
その頃、ダンジョン庁の地下に設置された中央対策室は、まるで時が止まったかのような静寂に包まれていた。
壁一面に設置された巨大モニターには、都心部特級ダンジョンの各所に設置された監視カメラの映像と、キララが中継していた生配信の画面が並んで映し出されている。
数十人のオペレーターはキーボードから手を離し、呆然とモニターを見上げていた。避難警報の準備や防衛出動要請で怒号が飛び交っていた喧騒は、跡形もなく消え失せている。
司令席に立つ御子柴健三は、微動だにせずモニターを見つめていた。
手元には、彼が作成を命じていた『特異探索者・剣崎崇の国家戦力化および管理統制案』と題された分厚いファイルが置かれている。国家の威信をかけ、規格外の力を持つ少年をいかにして組織の歯車として組み込むかを記した、緻密な計画書だった。
だが、画面の中で繰り広げられた光景は、そんな官僚の机上の空論を根底からあざ笑うかのような圧倒的な現実だった。
特級ボスをただの食材として解体し、首謀者を一撃で無力化し、何食わぬ顔で去っていく姿。
「……管理、か」
御子柴の口から、乾いた掠れ声が漏れた。
彼は手元のファイルをゆっくりと閉じると、深く、重いため息をついてその場に腰を落とした。いつも整えられているオールバックの髪が、わずかに乱れている。
「台風の進路を書類で規制しようとするようなものだったな……。神崎くん」
「は、はい……」
隣で直立不動のまま画面を凝視していた神崎結衣が、掠れた声で応じた。
「彼を枠組みに嵌めようなどという私の考えは、文字通りの傲慢だったようだ。あれは……誰かが飼い慣らせるような存在ではない」
御子柴は自嘲気味に口元を歪め、力なく首を横に振った。組織の長として培ってきたプライドや出世欲が、あの規格外の一撃の前ではあまりにも矮小で無意味なものに思えた。
一方の神崎は、胸の前で抱えていたタブレット端末を強く握りしめ、痛む胃のあたりをそっと手で押さえた。
「局長……その、これからの事後処理ですが」
「……想像もしたくないな」
御子柴がげっそりとした表情で天井を仰ぐ。
神崎は手元のタブレットに視線を落とした。すでにダンジョン庁の広報部や上層部、さらには他省庁や海外の探索者機関から、異常な件数の問い合わせメールが殺到し始めている。
『特級ボスの消滅原因について』
『現場で観測された未知の魔力波形に関する調査報告』
『未登録の民間人が特級危険区域に侵入した経緯の説明要求』
画面をスクロールするだけで頭が痛くなってくる。どう考えても、今夜から数日間は一睡もできない激務が確定していた。
特級ボスを鉄パイプで解体して肉を持ち帰りました、などと公的な報告書に書けるはずがない。かといって嘘をつけば、世界中に拡散された配信映像との整合性が取れなくなる。
「また始末書……いえ、始末書どころの騒ぎじゃありませんね、これは」
神崎は深くため息をつき、スーツのポケットから胃薬の包みを取り出した。水なしでそれを飲み込むと、苦い味が口いっぱいに広がる。
全く、あの人はいつもそうだ。こちらの都合など微塵も気にせず、常識を派手に破壊しては面倒な後始末を全部こちらに押し付けていく。
だが――。
神崎はモニターの中の、誰も死なずに済んだ現場の映像を見つめた。
Sランク探索者の氷室玲奈も、前線で孤立していた防衛隊員たちも、全員が無事に生き残っている。都心の街並みも、何一つ破壊されることなく平和な夜を維持していた。
もし彼がいなければ、今頃この街はどうなっていただろうか。何百人、何千人という犠牲者が出て、この対策室も阿鼻叫喚の地獄絵図になっていたはずだ。
「……まったく、人使いが荒いんだから」
神崎の唇の端に、呆れと疲労の混ざった、けれどどこか温かい微かな笑みが浮かんだ。
彼がこの街にいてくれてよかった。その事実だけで、これから始まる絶望的な書類仕事の山にも、立ち向かう覚悟が決まるというものだった。
「局長、広報部との合同記者会見の原稿、私が草案を作成します。それと、剣崎さんの行動記録については……『現場の特異環境による魔力現象』として処理する方向で調整させてください」
「……ああ、頼む。全て君に任せるよ」
神崎は小さく一礼すると、徹夜作業に向けて背筋を伸ばし、端末のキーボードへと指を走らせ始めた。
◆ーーーー◆
地下鉄の改札を定期券で通り抜け、ホームに降り立つと、ちょうど滑り込んできた上り電車に乗り込んだ。
車内は仕事帰りのサラリーマンや学生たちで適度に埋まっており、特級ボスの咆哮や瓦礫の崩落音に満ちていた先ほどまでの空間が、まるで遠い夢のようだった。
俺は吊り革に掴まりながら、足元に置いた保冷バッグをそっと見下ろす。
ジッパーの隙間から冷気が漏れ出ないよう、しっかりと閉めてある。中には、あの巨大な魔獣から切り落とした、最高の霜降り肉が収まっていた。
異世界で野営をしていた頃、魔王軍の幹部連中が率いていた大型の有角魔獣を狩って食べたことがあったが、あの肉の味は今でも忘れられない。脂の甘みと赤身の旨味が絶妙で、粗塩を振って焚き火で炙るだけで極上のご馳走になったものだ。
今回の肉は、あの時の魔牛の肉質に驚くほどよく似ている。現代の日本の調味料で調理したら、一体どれほど美味くなるのか。想像するだけで口の中に唾液が湧いてくる。
窓の外を流れる都心の夜景を眺める。
高層ビルの明かりや、道路を行き交う車のテールランプが、整然とした光の帯を作っていた。異世界の荒涼とした荒野とは比べものにならないほど、静かで、豊かで、平和な景色だ。
世界がどう騒ごうが、ダンジョン庁のお役人たちがどんな顔をして書類をめくっていようが、俺の知ったことではない。命のやり取りなど、生きるための飯を食うための作業に過ぎないのだから。
電車が最寄り駅に到着し、ドアが開く。
ホームに降り立つと、夜の冷たい空気が心地よく頬を撫でた。
駅前のスーパーに立ち寄ると、ちょうどタイムセールのシールが貼られた長ネギと焼き豆腐が目に入った。すき焼き用の割り下と、生卵もカゴに入れる。
「よし、これで準備は完璧だな」
レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げてアパートへの道を歩く。
早く帰って湯を沸かし、風呂で汗を流してから、ゆっくりと肉を焼こう。温かい布団と美味い飯。それさえあれば、四十年の過酷な日々の埋め合わせとしては十分すぎる。
俺は保冷バッグを抱え直し、軽やかな足取りで、愛おしい日常の待つ我が家へと急いだ。




