第26話
改札を出ると、駅の構内はすでに戦場と化していた。
非常ベルのけたたましい警告音がコンクリートの壁に反響し、赤い警戒灯が不規則に明滅を繰り返している。崩れ落ちた天井の破片が散らばる通路を抜け、俺は地上へと通じる階段をのんびりと上がっていった。
外に出ると、生暖かい風が鼻腔をくすぐる。立ち込める土煙と焦げた硫黄の匂い。異世界の前線拠点で嫌というほど嗅がされた、あの懐かしい魔獣どもの気配が漂っていた。
「……まったく、残業手当も出ないってのに」
俺は布袋から抜き身の鉄パイプを取り出し、肩に担いだ。夜空を見上げれば、都心の高層ビル群の合間に、異様な紫色に発光する巨大な亀裂が広がっている。ダンジョンの最深部が地上へせり上がってきたのだろう。
広場の中央では、すでに激しい戦闘が繰り広げられていた。
いや、戦闘と呼べるような生易しいものではない。一方的な蹂躙だ。
防衛線を構築していた重装甲の車両は無残にひしゃげ、アスファルトの上には無数の亀裂が走っている。その瓦礫の山の中央に、純白の戦闘服を身にまとった銀髪の女性——氷室玲奈が、膝をついていた。
彼女の細い剣は半ばからへし折れ、純白のスーツは煤と血で汚れている。
氷室の眼前には、異形の巨獣がそびえ立っていた。全身を黒鋼のような外殻で覆い、筋骨隆々とした四肢と二本の湾曲した角を持つ、巨大な魔牛の姿をした特級ボスだ。その周囲を取り巻く禍々しい魔力の奔流は、大気を歪ませるほどの重圧を放っている。
「くっ……これが、人工的に覚醒させた特級ボスの力……!?」
氷室が苦悶の声を漏らし、折れた剣の柄を握りしめ直す。だが、満身創痍の彼女に立ち上がる力は残っていなかった。
魔牛が低く唸りを上げ、巨大な前脚を振り上げる。踏み潰されれば、人間の肉体などひとたまりもなくミンチに変わるだろう。
氷室は唇を噛み締め、悔しげに瞳を閉じた。迫り来る死を受け入れるように、彼女の肩から力が抜ける。
「おいおい、そんなところで寝転がってると風邪引くぞ」
俺は息を吐きながら歩調を緩めず、氷室のすぐ脇へと滑り込んだ。
振り下ろされた巨大な蹄の直下、俺は左手を無造作に伸ばし、掌でその凄まじい質量を受け止めた。ズドン、と空気を破る衝撃波が広がる。だが、俺の足元のアスファルトすら微動だにしない。
「……え?」
氷室が恐る恐る目を開け、呆然と俺を見上げる。俺の横顔と、片手でやすやすと怪物の攻撃を止めている光景が、彼女の認識の追いつかない領域にあったのだろう。
『ハハハ! まさか本当に現れるとはね、哀れなモルモットが!』
広場の一角、半壊した大型ビジョンから、聞き覚えのある不快な高笑いが響き渡った。画面に映し出されているのは、白衣を着たボサボサ頭の男——阿久津だ。
『私の知能が構築した最高傑作の前に、貴様のような野蛮な規格外がどこまで耐えられるか、じっくりと計測させてもらおう! その魔牛は現代のあらゆる武術、魔力を学習し、最適化された完全生物なのだからね!』
スピーカー越しの喚き声に、俺は顔をしかめた。
「おっさん、声がでかいんだよ。それに……」
俺は魔牛の蹄を軽く押し返し、化け物の体勢をわずかに崩させた。
「俺は今、猛烈に腹が減ってるんだ。晩飯の買い出しに来ただけなんだから、つまらん講釈で時間を取らせるな」
『な、なんだと……!? 晩飯だと!? 貴様、この事態を何だと思って——』
通信を無視して、俺は鉄パイプを両手で持ち直した。
右手を前に、左手を胸の高さに添える。背筋を伸ばしすぎることもなく、膝の力を完全に抜いた構え。現代の探索者アカデミーの教科書に載っているような洗練されたフォームとは程遠い、ただの棒切れを持った素人のような脱力。
氷室が息を呑む気配が伝わってくる。
「あ、危ない……! その個体の外殻は、現代のどんな高出力兵装すら通さない……!」
忠告の言葉を背に受けながら、俺は鼻先で笑った。
どんなに硬い殻だろうと、魔力の流れと肉の継ぎ目さえ見えていれば関係ない。四十年間、泥を啜りながら数え切れないほどの魔物を解体してきた経験が、俺の網膜に明確な切断線を映し出していた。
魔牛が二本の巨角を突き出し、地を蹴った。踏み込みの一撃でアスファルトが爆ぜ、猛烈な突風が巻き起こる。
俺は息を吸い、静かに踏み出した。
速さすら感じさせない、自然な足運び。
すれ違いざま、手にした鉄パイプを水平に薙いだ。銀色の軌跡が夜の闇を薄く切り裂く。ただそれだけだった。
けたたましい炸裂音も、派手な光の演出もない。
だが次の瞬間、世界が静止したかのような静寂が訪れた。
突進の勢いのまま通り過ぎたはずの魔牛が、ピタリと動きを止める。
『……は? 何が起きた……? おい、バイタル反応はどうなっている!?』
ビジョンの向こうで阿久津が狼狽した声を上げる。
直後、ズレるような鈍い音が響いた。
魔牛の巨大な胴体が、胸郭のラインに沿って真っ二つにズレ落ちる。硬度を誇っていた外殻も、強靭な筋肉組織も、まるで温めたナイフで切られたバターのように滑らかな断面を晒していた。
断面から溢れ出たのは、ドス黒い血液ではなく、淡い光粒子を帯びた見事なサシの入った極上の肉だった。
どさりと、二つに分かれた巨体が地面に崩れ落ちる。消滅することなく物質として定着したそれは、完全に食材としての純度を保っていた。
「よし、完璧だな。脂の乗り具合も申し分ない」
俺は鉄パイプについたわずかな脂を布で拭い、満足げに頷いた。異世界でたまに狩った高級魔獣と全く同じ肉質だ。すき焼きにしても美味いだろうが、今夜はシンプルに塩と胡椒で焼いて食うのが一番だろう。
『ば、馬鹿な……! 私の計算が……私の完璧な理論が、あんな鉄くずの一振りで……!?』
大型ビジョンの中で、阿久津が頭を抱えて発狂したように叫んでいる。画面の端に映る施設内の様子からして、どうやらこの広場の真下、地下鉄の配電施設あたりに潜んでいるらしい。
「氷室、ちょっと待っててくれ。すぐに片付けてくる」
俺は呆然と座り込んでいる氷室に声をかけると、ボスの残骸から一番美味そうなロース肉の塊をナイフで手際よく切り取り、持参した保冷バッグへと丁寧に詰め込んだ。
そして、広場の隅にある地下への通用扉へと歩みを進める。
扉を鉄パイプの先端で軽く小突くと、頑丈な電子ロックが蝶番ごと吹き飛んだ。階段を駆け下り、配電室の重厚な防壁を蹴り破る。
室内の奥で、端末にへばりついていた阿久津が、青ざめた顔で振り返った。
「ひ、ヒィッ……! くるな、来るな化け物め! 私の崇高な実験を邪魔するな!」
阿久津が震える手で護身用のスタンガンを構える。
俺は無言で間合いを詰めると、スタンガンを振り払うことすらなく、阿久津のみぞおちへ鉄パイプの石突を軽くめり込ませた。
「ぐえっ……!?」
カエルの潰れたような声を上げて、男はその場に崩れ落ちる。
「他人の飯時を脅かすような真似は、二度とするなよ」
気絶して泡を吹く阿久津の首根っこを掴み、俺は配電室の主電源を鉄パイプで叩き壊した。これで地上の異常な魔力供給も完全に停止するはずだ。
阿久津を引きずりながら地上へ戻ると、空を覆っていた紫色の亀裂は綺麗に消え去り、澄んだ夜空が戻っていた。街を包んでいた重苦しい空気も、嘘のように霧散している。
広場の中央では、氷室が折れた剣を杖代わりにしながら、なんとか自力で立ち上がっていた。
俺が阿久津を瓦礫の上に放り出すと、彼女は目を丸くしてそれを見下ろし、次いで俺の手にある保冷バッグへと視線を移した。
「……剣崎さん、あなたは、一体……」
氷室の声は震えていた。恐れからではない。自分たちが命懸けで挑み、組織を挙げてなお敵わなかった絶望を、あまりにも容易く、まるで日常の家事の延長のように片付けてしまった存在に対する、純粋な畏怖と感動が混ざり合った響きだった。
彼女の澄んだ瞳が、射抜かれたように俺の姿を捉えて離さない。誇り高きSランク探索者の仮面が剥がれ落ち、そこには一人の剣士としての純粋な敬意が宿っていた。
「ただの元勇者だよ。今は無職の初心者探索者だがな」
俺は肩をすくめ、保冷バッグを大事そうに抱え直した。
「さて、後片付けとお役所への報告は任せたぞ。俺は早く帰って、この肉を焼かなきゃならんのでね」
踵を返し、駅へと向かって歩き出す。
背中に突き刺さる氷室の熱い視線を感じながら、俺は夜風の中、軽やかな足取りで家路を急いだ。




