第24話
シリンダーの強化ガラスを内側から押し破り、赤黒い肉塊が急速に膨張していく。
ドクン、ドクンと床を揺らす重低音が、駅構内だったはずの巨大空間に反響していた。周囲に張り巡らされていた魔力ケーブルが次々とショートし、青白い火花を散らしている。空気が目に見えて歪み、肌を刺すような熱気が立ち込めていた。
「っ……くっ……!」
隣で氷室が、たまらず片膝をついた。
純白の戦闘服が、吹き荒れる魔力の乱気流に激しく煽られている。彼女は額に大粒の汗を浮かべ、荒い息を吐きながら細剣の柄を必死に握りしめていた。手袋越しにも、指先が強張っているのが分かる。
「何という魔力圧……。特級ボスの活性化を優に超えている……。こんなものが外に出たら、都心部は数分で壊滅する……っ」
震える声でそう絞り出す氷室の視線の先では、肉塊の表面に無数の血管のような筋が浮き上がり、節足動物の殻のような硬質な甲殻が急速に形成されつつあった。禍々しい魔力の光粒が周囲の空気中から螺旋を描いて吸い込まれ、不完全な胎児が巨獣の形をとろうと蠢いている。
だが、俺の目にはどうしても別のものに見えていた。
「なんだか、こねすぎた挽肉みたいだな」
「……は?」
氷室が呆然とした顔でこちらを見上げてくる。
「いや、つなぎの卵を入れ忘れて、表面だけパサついて固まりかけた巨大な肉団子っていうかさ。あんまり美味そうには見えないな」
「な、何を言っているんですか、あなた……! あれは人工的に羽化させられようとしている災害そのものです! 冗談を言っている場合では……!」
必死に叫ぶ氷室の言葉を背中で聞きながら、俺はズボンのポケットに手を入れた。指先が、硬いプラスチックの板に触れる。都心行きの通勤定期券だ。
表面を指の腹でなぞりながら、頭の中で時間を計算する。
ここに来るまでにずいぶんと時間を食った。地下鉄の改札を越え、異界化した通路を歩き、結界を壊してようやくここまで辿り着いたのだ。このままだと、駅前のスーパーの総菜コーナーから割引シール付きの揚げ物が消えてしまう。
「悪いが、残業はしない主義なんだ」
誰に言うでもなく呟き、俺は右手に提げた鉄パイプを軽く持ち直した。
異世界で四十年もの間、泥にまみれて魔王を追いかけ回していた頃は、残業どころか二十四時間年中無休のサバイバルだった。温かい飯を食う暇もなく、湿った地面に毛布一枚で眠り、いつ奇襲されるか分からない極限状態。あんな生活は、もう二度と御免だ。
せっかく手に入れた平和な日常なのだ。晩飯の時間を邪魔される謂れはない。
俺は右足を一歩、前に踏み出した。
その瞬間、羽化しかけていた肉塊の中央が裂け、巨大な赤い複眼がぎょろりとこちらを捉えた。耳をつんざくような甲高い咆哮が響き渡り、空気を裂く衝撃波が同心円状に放たれる。床のコンクリートがめくれ上がり、瓦礫が散弾のように吹き飛んだ。
「剣崎さん、下がって……!」
氷室の悲痛な制止の声。
その叫びが届いたときには、すでに俺の姿はそこから消えていた。
衝撃波が到達するよりもわずかに早く、俺は肉塊の懐へと滑り込んでいた。足裏で地面を強く蹴る必要すらない。四十年の歳月の中で身体に染みついた、最も効率的に間合いを詰める重心移動。風を切る音すら置き去りにして、巨大な肉団子の直下へと潜り込む。
見上げるほどの巨躯が、俺を押し潰そうと巨大な前脚を振り下ろしてくる。
大木ほどもある太さの、硬質化した爪。当たれば人間など一瞬でミンチだろう。
俺は息を吸い、ただ鉄パイプを振り上げた。
魔力をこれ見よがしに練り上げる必要もない。大層な構えをとる必要もない。ただ、相手の装甲の最も脆い結合部を見極め、そこへ手首のスナップを利かせて先端を当てるだけだ。異世界で硬い竜の甲羅を解体するときに、毎日何百回と繰り返した作業の延長にすぎない。
カツン、と小さく乾いた音が響いた。
振り下ろされようとしていた巨大な前脚が、空中でピタリと静止する。
「……え?」
後ろで氷室が間の抜けた声を漏らした。
次の瞬間、鉄パイプの先端が接触した一点から、白く細い亀裂が爆発的に走り出した。
ピキピキ、とガラスが軋むような音が連続し、それが瞬く間に巨体全体へと広がっていく。羽化のために急造された硬質甲殻は、俺が叩き込んだ振動波の逃げ場を失い、内側から自壊を始めていた。
バアアアンッ!
凄まじい破裂音とともに、巨大な外殻が一気に四散した。
吹き飛んだ甲殻の破片は、空気に触れた端から黒い灰となって霧散していく。羽化寸前だった肉塊は形を保てなくなり、ドロドロとした魔力の滓となって床へと崩れ落ちた。
暴風がホールを吹き抜けた後には、静寂だけが残されていた。
床に膝をついたままの氷室が、口を半開きにして立ち尽くす俺の背中を見つめている。彼女の銀色の髪が、ゆっくりと収まっていく風に揺れていた。
「う、嘘でしょう……。あんな高密度の外殻を、鉄パイプの一撃で……? いったい、どんな魔力操作をすれば……」
信じられないものを見る目で、氷室は呟いた。
俺は肩をすくめ、鉄パイプの先端についた埃を軽く払った。
「いや、ただの殻の継ぎ目を突いただけだ。栗の皮を剥くのと大して変わらんよ」
「栗……? あなたは、あれを栗の皮と同列に……?」
氷室はこめかみを押さえ、深くうなだれた。これ以上付き合えば面倒な質問攻めに遭うのは確実だ。
培養プラントの周囲に散らばっていた黒い灰が消え去り、中央の台座が露出していた。
そこには、外殻が粉砕されたことで露わになった、手のひらサイズの赤黒い結晶が転がっている。周囲の魔力を吸い上げる不気味な吸引力は完全に消え失せ、暴走していたエネルギーは綺麗に沈静化していた。
これで、スピーカーの主が企んでいた人工魔獣の覚醒計画とやらは完全に頓挫したわけだ。
俺は台座に近づき、転がっている結晶をつま先で軽く突いてみた。
硬く澄んだ音が響くだけで、動く気配はない。
「うーん……やっぱり、中身も肉じゃなくてただの石か」
魔牛の肉に似た極上の部位でも採れるかと少し期待していたのだが、これでは晩飯のおかずにはならない。ただの魔力の塊を持ち帰っても、部屋の電気代が安くなるわけでもないしな。
すっかり興味を失った俺は、くるりと背を向けた。
「おい、氷室。片付けはそっちの組織でやってくれるんだろ? 俺はもう帰るぞ」
「えっ……あ、待ってください! このコアの回収と、事後処理の報告書が……!」
「報告書なんて書いたことないし、書き方も知らん。適当に『自然消滅した』とでも書いといてくれ」
俺はひらひらと手を振りながら、崩壊した結界の出口へと歩き出した。ポケットの定期券をもう一度指先で確認する。今から早歩きで駅へ向かえば、七時半の特売タイムには余裕で間に合うはずだ。
後ろから氷室の慌てた足音が追いかけてくるが、俺は足を止めずに通路へと滑り込んだ。
台座の上に残された、赤黒い結晶。
二人の足音が遠ざかり、静まり返った地下ホールの闇の中で――。
トクン、と。
耳には聞こえない極小の振動が、結晶の最深部から放たれた。
砕け散った外殻の奥深くに隠されていた、より純度の高い真の核。それは破損した偽りの器を捨て去り、周囲の瓦礫の隙間へと音もなく滑り落ちていた。
結晶の表面に、かすかな青い燐光が灯る。
それは先ほど、自分を一撃で粉砕した圧倒的な力の波動――タカシが鉄パイプを通じて叩き込んだ、異世界の極致たる魔力の波長を、一筋の狂いもなく正確にトレースし、記憶していた。
敵性存在。排除不能。現段階における、最大の障害。
真のコアは無機質な自己学習を完了させると、光を完全に消し去り、地下の底知れぬ亀裂の奥深くへと静かに身を潜めていった。




