第23話
薄暗い地下の階段を下りきると、空気の質感が肌にまとわりつくように変わった。
昨日訪れたはずの地下鉄連絡通路は、もはや人工物の面影をわずかに残すだけの異界と化していた。タイルの床は黒ずんだ血管のような植物の根に覆われ、ひび割れたコンクリートの壁からは、毒々しい青紫色の燐光が滲み出ている。頭上を走るはずの配管はぐにゃりと歪み、まるで生き物の腸のように脈動していた。
「……これは、ひどいな」
俺は担いだ鉄パイプの位置を直しながら、通路の奥を見渡した。どこか遠くから、低周波のうなり声のような風の音が届いてくる。
「警戒を密にしてください、あなた」
隣を歩く氷室玲奈が、腰の細剣の柄に手を添えながら張り詰めた声を出した。銀髪がかすかに揺れ、その切れ長の瞳が青紫の闇を射抜いている。純白の戦闘服は、淀んだ空気の中でも染みひとつなく輝いていた。
「昨日とはまるで魔力の密度が違います。おそらく、特級コアの活性化がこの階層の物理法則そのものを書き換え始めている……。一歩足を踏み外せば、生きて戻れる保証はありません」
「そうか? それにしても、キノコが生えそうな湿気だな」
俺が鼻を鳴らすと、氷室は信じられないものを見るような目を向けた。
「湿気、ですか……? この禍々しい魔力のプレッシャーを感じて、最初に出る感想がそれなのですか」
「いや、ほら、地下のダンジョンでこういう生温かい風が吹いてくるときは、大抵ろくでもないカビか毒キノコが繁殖してるんだよ。昔、寝床の近くに生えた胞子を吸い込んで三日三晩ひどい腹下しをやったことがあってな。飯が食えなくなるのが一番困る」
「……あなたの過去の過酷さは察しますが、今は周囲に集中してください。私の探知スキルにも、激しい魔力の乱気流が感知されています」
氷室は小さく息を吐き、額に微かに浮かんだ汗を拭った。彼女ほどのSランク探索者がこれほど神経を尖らせているのだから、現代の基準では間違いなく最大級の危険地帯なのだろう。
だが、向こうで四十年も泥水をすすってきた身からすれば、この程度の空気の濁りは日常茶飯事だった。魔王の居城の周辺なんぞは、空気が濃すぎて吸うだけで肺が焼けるような場所ばかりだったのだから。
通路の奥へ進むにつれて、紫の霧は濃度を増していった。足元を踏みしめるたび、ぬめりとした感触が靴底から伝わってくる。放置された自動改札機は金属が腐食して飴細工のように折れ曲がり、案内看板の文字は別の言語の呪文のように書き換わっていた。
「奥の広場……旧改札ホールのあたりから、強烈な反応があります」
氷室が前方を指差す。その指先がわずかに強張っていた。彼女の卓越した感覚が、奥に潜む異常な存在の気配を的確に捉えている証拠だ。
「よし、じゃあサッと行って、昨日の肉の残りを回収して帰るか。スーパーの特売もやしも買ってあるんだ」
「……本気で言っているのですか。あの巨大な魔獣を倒した後の残骸が、この変異の中で無事だとは思えませんが」
「あそこの肉は筋繊維が頑丈だからな。ちょっとやそっとの魔力じゃ腐らんよ。むしろ適度に熟成されて旨味が増してるかもしれん」
俺たちが広大な吹き抜けのホールへと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
バチッ、と鼓膜を劈くような高周波の破裂音が鳴り響いた。
足元の床に刻まれていた赤黒い亀裂が一斉に発光し、幾重にも重なる幾何学模様を描き出す。紫色の光の帯が床から天井へと立ち昇り、俺たちの四方を瞬く間に囲い込んだ。
「っ……結界!?」
氷室が瞬時に細剣を抜き放ち、半身の構えをとった。白銀の刃から凍てつく冷気が放たれ、周囲の空気を凝固させる。
「空間遮断の術式です! 外部との通信も完全に遮断されました……! これは自然発生したトラップではない、何者かが意図して配置したものです!」
周囲の空間がぐにゃりと歪曲し、外の景色が万華鏡のようにねじれて見えなくなる。四方を囲む光の壁は、まるで厚い防弾ガラスのように硬質で、触れるものすべてを拒絶するような威圧感を放っていた。
天井の隅に設置された、壊れかけの監視カメラの横にある非常用スピーカーから、ざらついたノイズが響いた。
『ククク……よくぞ戻ってきたな、規格外の異分子よ』
スピーカー越しに、嘲るような男の笑い声がホール内に反響する。
『阿久津様の偉大なる遺産……人工特級コアの最終覚醒には、莫大な高密度のエネルギーが必要だった。まさか向こうから、最高の生贄がホイホイと罠に飛び込んでくるとはな』
氷室が鋭い視線をスピーカーに向けた。
「残党か……! 姿を現しなさい! 都心部のダンジョンをこれ以上刺激すれば、スタンピードが起きて地上の人々にも被害が出るのですよ!」
『ハハハ! 地上の豚どものことなど知ったことか! このコアさえ完全なものとなれば、ダンジョン庁も国家も我らの軍門に降るのだ!』
男の声は狂信的な熱を帯びていた。
『その結界は、空間そのものを切り離して圧縮する絶対封殺陣だ。どれほど強大な物理攻撃も、魔力すらも、空間の壁に吸収されてコアの起動エネルギーへと変換される! 貴様のその異常な魔力、残らず吸い尽くして炉の糧としてくれるわ!』
スピーカーから勝ち誇った哄笑が響き渡るのと同時に、結界の壁が脈打ち始め、周囲の魔力がじわじわと吸い取られていくような圧迫感が満ちてきた。
「くっ……魔力が引かれていく……!? これだけの規模の結界を、一瞬で展開するなんて……」
氷室が歯を食いしばり、細剣に魔力を込めて光の壁へと突き出した。鋭い氷結の刺突が壁に激突するが、キン、と澄んだ音を立てて冷気が霧散し、壁には傷ひとつつかない。
「防壁が衝撃を完全に逃がしています……! 私の全力の刺突でも、びくともしないなんて……!」
氷室の顔に焦燥の色が走る。彼女の額から流れる汗が、青紫の光を反射して冷たく光った。
俺は、結界の壁をじっと見つめていた。
「おい」
「剣崎さん……申し訳ありません、私の索敵が甘かったせいで、あなたまでこんな罠に……!」
「いや、そうじゃない」
俺は腕時計に目を落とした。文字盤の針は、すでに夕方の五時半を指している。
「これ、壊すのに手間取ると、晩飯の時間が遅れるんだが」
「……は?」
氷室がぽかんとした顔でこちらを振り返った。その表情には、絶体絶命の危機に直面している緊迫感が綺麗に抜け落ちている。
「な、何を言っているのですか……? 今、状況を理解していますか? 私たちは空間を切り離す結界に閉じ込められたのですよ!? 吸収される前に、どうにかして術式の基点を探し出し、魔力の循環を狂わせるしか……」
『無駄だ無駄だ!』
スピーカーから男の嘲笑が割り込んでくる。
『術式の基点は結界の外、こちらの培養プラント側にある! 内部から解除するなど絶対に不可能だ! 貴様らはそこで干からびて、コアの養分となる運命なのだよ!』
「だそうだぞ」
俺は息を吐き、肩に乗せていた鉄パイプを右手で持ち直した。
腹が減ってきた。早く帰って、もやしを炒めて、昨日漬け込んでおいた肉と一緒に焼いて食いたい。温かい風呂に入って、テレビのニュースでも見ながらくつろぎたい。
そういうささやかな平穏を、妙な機械をいじくる連中の道楽で邪魔されるのは、ひどく腹が立つ。
「術式の基点が外にあるなら、壁ごと割ればいいだけの話だろ」
「え……? ま、待ちなさい、空間そのものを遮断している壁を物理的に割るなど、理論上ありえま……」
氷室の静止の声を背中に受けながら、俺は結界の壁へと歩み寄った。
鉄パイプを両手で軽く握る。手首の力を抜き、重心をわずかに落とす。四十年間、あらゆる結界や魔導障壁、神聖防壁の類を叩き割ってきた感覚が、自然と腕に蘇ってくる。
結界だろうが空間の歪みだろうが、魔力で編まれたものである以上、必ず力の流れの継ぎ目がある。織物の縫い目のようなものだ。そこを正確に突いてやれば、どんな頑丈な障壁もただの薄皮と変わらない。
「おい、スピーカーのあんた」
俺は天井に向けて声をかけた。
「人の夕飯の時間を邪魔するなよ」
『は……? 何を馬鹿なことを――』
俺は鉄パイプを軽く振りかぶり、結界の光が交差する一点に向けて、無造作に振り下ろした。
金属音はしなかった。
代わりに響いたのは、分厚い氷の板が真っ二つに割れるような、甲高い破断音だった。
ピキリ。
結界の表面に、白い亀裂が一本走る。
『なっ……!? バカな、計器の数値が……空間強度が低下しているだと!?』
スピーカーの向こうで、男の悲鳴のような動揺が響いた。
「嘘……結界に、ヒビが……? 鉄パイプの一撃で……!?」
氷室が目を見張り、息を呑む。
俺は構わず、同じ継ぎ目に向けてもう一度、鉄パイプを叩きつけた。
バキィィィン!
今度は明確な破壊音とともに、光の壁全体に蜘蛛の巣状の亀裂が一気に広がった。空間の歪みが耐えきれなくなり、ガラスが粉々に砕け散るように、結界の破片が光の粉となって四方へと弾け飛ぶ。
強制的に遮断されていた空間が元の次元へと接続され、滞留していた突風がホール内を吹き荒れた。
『う、うわあああっ!? 空間結界が完全崩壊した……!? バカな、ありえん、ありえんぞこんなこと!!』
男の絶叫がスピーカーから響き、やがて激しいノイズとともに途絶えた。
砕け散った結界の光が薄れていく中、ホールの奥の闇が露わになっていく。
そこには、昨日まで存在しなかった巨大な培養プラントがそびえ立っていた。無数の魔力ケーブルが床を這い回り、中心に設置された巨大な円筒状のガラスシリンダーへと接続されている。
そして、そのシリンダーの内部――。
ドクン、と空間全体を震わせるような、重苦しい心臓の鼓動が響き渡った。
「っ……あそこです!」
氷室が細剣を構え直しながら、鋭い声で叫んだ。
ガラスの向こうで、赤黒い光を放ちながら蠢く巨大な塊。特級コアの本体が、不気味な脈動とともに、禍々しい威容を俺たちの前に現していた。




