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第22話

翌朝、アパートの六畳間で目覚めた俺は、まずやかんに湯を沸かした。


インスタントのドリップコーヒーをマグカップに注ぎ、香りを吸い込む。トースターでこんがり焼いた食パンにバターを塗り、昨晩の残りのキャベツを齧る。四十年もの間、干し肉と野草で飢えを凌いできた身からすれば、この朝食の平穏さこそが何物にも代えがたい宝物だった。


「……ん?」


テーブルの端に置いていた初心者探索者用の端末が、けたたましい電子音を鳴らした。


液晶画面を覗き込むと、ダンジョン庁からの緊急一斉送信が赤文字で点滅している。画面には『特別警戒エリア指定に伴う立ち入り禁止勧告』という長々しい件名が躍っていた。


スクロールしてみれば、昨日俺が牛を仕留めた都心の地下鉄直通エリア一帯が、魔力濃度急上昇につき特級危険区域へ格上げされたと書いてある。探索者フリーパスの入場権限も一時凍結され、一般探索者はもちろん、中堅クラスでも立ち入りは厳禁とのことだった。


「立ち入り禁止、ねえ」


俺はトーストを一口かじり、のんびりと呟いた。


あの牛の肉は、絹代さんの手によって極上のすき焼きになった。だが、解体した時に確認した限り、あの個体はまだ背中側のロースやヒレの部位をごっそり残したままだ。冷凍保存の利く現代社会において、あんな極上の食材を放置して腐らせるなど、食に対する冒涜以外の何物でもない。


骨から発信されていたあの妙な魔力信号も気になる。誰が何を企んでいるのかは知らないが、俺の仕入先をこれ以上荒らされるのは迷惑極まりない。


「よし。腐る前に回収しに行くか」


俺は最後の一口を飲み干し、玄関に立てかけてあった工事用の鉄パイプを引っ掴んだ。


いつものように都心行きの通勤定期券をポケットにねじ込み、ポチの頭をひと撫でしてから部屋を出た。快晴の空の下、散歩ついでに肉を拾いに行くだけの簡単な作業だ。



ダンジョンへの連絡通路を兼ねた地下鉄の改札前は、物々しい警戒態勢が敷かれていた。


黄色と黒の規制テープが何重にも張り巡らされ、重装甲の防護服を着た職員たちが慌ただしく行き交っている。物々しいバリケードの真ん中に、腕組みをして仁王立ちする大柄な男の姿があった。


「そこまでだ、剣崎!」


怒声とともに前を塞いできたのは、初心者講習の教官である鬼瓦だった。角刈りの頭を怒りで紅潮させ、眉間の皺を限界まで深くしている。


「よお、鬼瓦さん。朝からご苦労なこったな」


「挨拶をしている場合か! 通達は見ただろう! ここは特級指定に引き上げられた。現在、庁の精鋭と自衛隊による封鎖作戦が進行中だ。初心者のお前が入っていい場所ではない!」


鬼瓦は頑丈な胸板を張り出し、俺の行く手を遮る。周囲の職員たちも、鉄パイプ一本を担いだ軽装の俺を怪訝な目で見つめていた。


「いや、俺は別に奥を制圧しに行こうってわけじゃないんだよ」


俺は鉄パイプを肩に預けたまま、事もなげに言った。


「昨日仕留めた獲物の残りを回収しに行くだけだ。ロースの塊を放置したままだからな。今日の晩飯のオカズがかかってるんだよ」


「ば……っ、晩飯だと!?」


鬼瓦の目が点になり、次の瞬間には血管が浮き出るほど見開かれた。


「貴様、事の重大さが分かっているのか! 内部の魔力濃度は昨日の十倍を超えているんだぞ! 空間そのものが変異を起こし、並の探索者なら呼吸器系を焼かれて数分と保たん! そんな死地へ、晩飯の肉のために潜るなどと……ふざけるのも大概にしろ!」


「ふざけてなんかないさ。食い物の恨みってのは恐ろしいんだぞ。腹が減ってちゃ生きる気力も湧かねえ」


「理屈をこねるな! 教官として、無謀な自殺行為を見過ごすわけにはいかん! どうしても行くと言うなら、力ずくで引きずり戻すまでだ!」


鬼瓦が腰の大型警棒に手をかけ、ぐっと重心を落とした。初心者講習の時と同じ、教科書通りの鉄壁の防御姿勢だ。相手が本気で俺の命を心配してくれていることだけは、その気迫から嫌というほど伝わってくる。


だが、俺にも譲れないものがある。四十年かけて取り戻した日常の食卓を、行政の都合で諦める気はさらさらなかった。


俺は鉄パイプの端を軽く握り、息を吐いて肩の力を抜いた。


構えとも呼べない、ただ突っ立っているだけの立ち姿。だが、四十年の泥沼で骨の髄まで叩き込まれた無駄のない間合いの制御が、自然と周囲の空気を押し広げる。


「……っ!?」


鬼瓦の額から、大粒の汗がツーと流れ落ちた。


男の足が、ピタリと止まる。前に踏み出そうとした瞬間、まるで不可視の刃を喉元に突きつけられたかのような錯覚に囚われたのだろう。威圧感ではない。ただそこに存在する『底知れぬ深淵』に、熟練の戦士としての本能が警鐘を鳴らしていた。


一触即発の静寂が、地下通路を支配する。


「そこまでにしてください、鬼瓦教官」


張り詰めた空気を切り裂くように、凛とした澄んだ声が響いた。


銀色の長髪を揺らしながら歩み出てきたのは、白を基調とした戦闘服を纏った氷室玲奈だった。背中には細身の業物を背負い、その佇まいにはSランク探索者としての冷徹な気品が漂っている。


「氷室……! なぜ貴様がここに」


「ダンジョン庁より、特級エリアの先行偵察任務を受領しました。ですが……」


氷室は鬼瓦に視線を向けた後、俺の前に立って静かに頭を下げた。


「剣崎さん。あなたのお力、昨日の戦いで十分に拝見いたしました。あの魔獣を一撃で解体した腕前、私などの遠く及ぶところではありません」


「おいおい、買い被りすぎだ。俺はただ肉を切り分けただけだぞ」


「謙遜は不要です。教官、彼を止めるのは得策ではありません。むしろ、彼が同行してくれるのであれば、これほど心強いことはない」


「何を言うか! こいつはまだ登録したばかりの初心者だぞ! いくら実力があろうと、ルールを無視して特級エリアに入れるわけにはいかん!」


鬼瓦が怒鳴るが、氷室は微動だにせず、真っ直ぐに教官を見据えた。


「では、名目上は私が彼を『同行監視』するという形にしてください。Sランク探索者の権限で、特例措置としての帯同をダンジョン庁へ申請します。責任はすべて私が持ちます」


「ぐ……っ、貴様までそんな出鱈目を……」


鬼瓦はギリと奥歯を噛み締め、俺と氷室の顔を交互に見比べた。


ルールを重んじる教官としての立場と、探索者の命を守りたいという熱血漢としての本音。そして、俺が放った異様な気配に対する畏怖。様々な感情が入り混じった末に、鬼瓦は深いため息をついて警棒から手を離した。


「……勝手にしろ。だが氷室、絶対に目を離すなよ。万が一のことがあれば、貴様の探索者資格すら剥奪されるぞ」


「心得ています。参りましょう、剣崎さん」


氷室が促すと、俺は「助かったよ」と軽く手を挙げ、バリケードの隙間をすり抜けた。


背後で、鬼瓦が頭を抱えて唸る気配がする。特級指定の脅威を前にして、緊張感の欠片もなく晩飯のオカズを回収しに行こうとする俺の背中に、呆れ果てながらもどこか抗いがたい凄みを感じ取っているようだった。



◆ーーーー◆



地下深く、かつて駅のホームだった空間は、異様な紫色の霧で満たされていた。


中央に設置された巨大なガラスシリンダーの中では、赤黒く脈動する特級コアが禍々しい光を放っている。周囲には無数の魔力ケーブルが這い回り、計器の数値を跳ね上げていた。


黒いコートを着た男が、端末のモニターを指先で叩きながら笑みを浮かべる。


「……来たか。あの男だ」


画面の隅には、防犯カメラをハッキングして捉えた地下通路の映像が映し出されていた。鉄パイプを担いだタカシが、氷室を連れてこちらへ向かって歩いてくる姿だ。


「肉に仕込んだ発信器の波長を追ってきたのか、それとも本能か……どちらにせよ、最高の生贄が自ら戻ってきてくれた」


男がコンソールのレバーを引き絞ると、培養炉の魔力数値が一気に限界値を突破した。


「阿久津様の遺志は、この特級コアによって完成する。四十年の魔力を宿した貴様の命、全てこの炉の糧となってもらおう」


暗闇の中で、巨大な影が蠢き、獣の咆哮のような駆動音が地下空洞に低く響き渡った。

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