第21話
暖簾をくぐると、使い込まれた醤油と出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
夕方の開店直後とあって、カウンター席にはまだ客の姿がない。厨房の奥から、カタカタと小気味よい包丁の音が響いている。
「邪魔するよ、女将さん」
「おや、タカシちゃん。いらっしゃい。今日も元気そうだねぇ」
顔を出した佐藤絹代は、ふくよかな頬を緩めて割烹着の端で手を拭いた。俺の見た目が十代半ばにしか見えないせいか、すっかり近所の食べ盛りな若者として可愛がられている。中身は孫がいてもおかしくない年齢なのだが、この際それはどうでもいい。温かい飯にありつけるなら、年の差など些細な問題だ。
「実はさ、いい肉が手に入ったんだ。これで少し早い晩飯を作ってくれないかと思ってね」
俺は抱えていた保冷バッグから、新聞紙とラップで何重にも包んだ塊を取り出した。ダンジョンから持ち帰ったばかりの、極上の霜降り肉だ。
「持ち込みかい? まったく、人使いが荒いんだから……って、なにこれ!」
ラップを剥がした瞬間、絹代の目が点になった。鮮やかな紅色の赤身に、芸術品のように細やかな脂のサシが入り込んでいる。脂の融点が異常に低く、室温だけで表面が艶やかに光り始めていた。
「すっごいサシだね……。どこぞの高級銘柄牛かい? あたしゃ六十年以上生きてるけど、こんな綺麗な肉は市場でも見たことないよ」
「知り合いから安く譲ってもらってな。すき焼きにしたいんだが、頼めるか?」
「お安い御用さ! こんな上等な肉、腕が鳴るってもんだよ。ちょっと待ってな、すぐ特製の割り下を用意するから!」
絹代は肉の出所を疑うどころか、料理人としての血が騒いだ様子で鉄鍋を取り出した。パニックになる気配は微塵もない。下町で長年店を切り盛りしてきた胆力は伊達ではないようだ。
程なくして、厨房からジュウという暴力的なまでに食欲をそそる音が立ち上った。ネギと牛肉が鉄鍋で焼かれ、そこに甘辛い醤油とみりんの香気が重なる。香ばしい煙が店内に充満し、喉が自然と鳴った。
「はいよ、お待ち遠さま! タカシちゃん、熱いうちにお食べ!」
運ばれてきた鉄鍋の中では、黄金色に透き通った脂がぐつぐつと煮え立っていた。大盛りの白米と生卵が手際よく並べられる。
「いただきます」
俺は割り下をたっぷり吸った肉を一枚掴み、溶き卵にくぐらせて口へ放り込んだ。
噛む必要すらなかった。舌の上に乗せた瞬間、濃厚な肉の旨味と上質な脂の甘みが爆発し、口内全体を満たしていく。醤油の塩気とみりんのコクが、野性味のある肉汁を完璧にまとめ上げていた。
「……うまいな」
思わず息が漏れた。過酷な荒野で岩塩だけを振って齧り付いた肉も悪くはなかったが、この洗練された日本の調味料と調理法には遠く及ばない。あれは生命を維持するための作業だったが、これは魂を喜ばせるための食事だ。
「クゥン!」
足元から控えめな鳴き声が上がった。見下ろすと、毛むくじゃらのポチがお行儀よく座り、鍋を凝視している。
「お前にも分けてやるよ。ただし、味付け前のやつな」
あらかじめ絹代に頼んで素焼きにしてもらった赤身の小鉢を床に置くと、ポチは尻尾を激しく振りながら猛烈な勢いで平らげ始めた。満足げに喉を鳴らす様子を見て、俺も白米をかきこむ。
「ふふ、いい食べっぷりだねぇ。見てるこっちまで腹が減ってくるよ」
絹代が嬉しそうに麦茶を注ぎ足してくれる。外の喧騒とは無縁の、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。
◆ーーーー◆
一方その頃、東京都千代田区にあるダンジョン庁本部ビルの地下司令室は、重苦しい緊張感に包まれていた。
「神崎結衣探索官、ただいま出頭いたしました」
息を切らして入室した神崎は、スーツの乱れを整えながら敬礼した。非番のところを緊急呼集され、胃の奥が嫌な重みで軋んでいる。
部屋の中央にある巨大スクリーンには、無数のグラフと解析データが明滅していた。その前に立つ男——ダンジョン庁長官補佐の御子柴が、鋭い視線を神崎へ向ける。
「急に呼び立ててすまないね、神崎君。だが、事態は一刻を争う」
「……例の未登録エリアに関する件でしょうか。剣崎さんは無事に帰還し、現場周辺の安全は確保されたはずですが」
「表向きはね」
御子柴は手元の端末を操作した。スクリーンに、タカシが立ち入ったとされる地下エリアの魔力濃度マップが表示される。
その数値を見て、神崎は息を呑んだ。
グラフの曲線が、異常な跳ね上がり方を見せていた。通常のダンジョンであれば、深層部でしか観測されない極限値を超過し、危険域を示す警告灯が真っ赤に点滅している。
「これは……一体どういうことですか? ボス個体はすでに討伐されたはずでは」
「討伐されたからこそ、起きた現象だよ」
御子柴が苦々しい表情で眼鏡を押し上げた。
「彼の破壊活動によって生じた膨大な魔力衝撃波が、地下深くに眠っていた古い休眠結界を粉砕した。その結果、周辺一帯のダンジョン構造が変質し始めている。庁の判定基準に基づき、当該エリアは先ほど『特級指定』へと引き上げられた」
「特級……!? あの都心部一帯がですか!?」
神崎の声が上ずった。特級指定とは、一国の軍事力すら無力化しかねないスタンピードの発生源にのみ適用される、最悪の警戒レベルだ。
「さらに厄介なことがある。阿久津の残党たちが意図的に残した培養炉……あれは魔力を吸収して覚醒するタイプの特殊な核だった。剣崎君が放った規格外の一撃が、結果として彼らの起動装置に莫大なエネルギーを注ぎ込んでしまったんだ」
「そんな……剣崎さんは、ただ食材を調達しに行っただけなのに……」
神崎は額を押さえた。胃薬の錠剤が頭をよぎる。彼はいつもそうだ。悪気など欠片もなく、ただマイペースに散歩感覚で行動した結果が、現代の防衛システムを根本から揺るがしてしまう。
「本人の意図はどうあれ、敵側の計画は最終段階へ進んでしまった。このままだと、都心の中枢で前代未聞の災害が起きる。神崎君、彼との連絡はつくかい?」
「……今は、近所の定食屋にいるはずです。すき焼きを食べると言って出かけましたから」
「すき焼き、か」
御子柴は呆れたように口元を歪めたが、すぐに厳しい眼差しを取り戻した。
「彼にこれ以上の暴走を許すわけにはいかないが、同時に、この危機を収束させられる唯一の手札も彼だ。引き続き、厳重な監視と誘導を頼む」
「了解しました……」
神崎は深く頭を下げながら、背筋を伝う冷たい汗を拭った。
◆ーーーー◆
「ふう、食った食った」
すっかり空になった鉄鍋を前に、俺は満足の息を吐き出した。米も三杯おかわりし、腹は完全に満ち足りている。
「ごちそうさまでした。本当に美味かったよ」
「お粗末さま! いつでもまた持ってきな。今度は牛丼にでもしてあげるからさ」
絹代が笑いながら鍋を片付け始める。ポチも丸くなって幸せそうに腹を見せていた。温かい食事と清潔な店、そして穏やかな会話。これこそが、俺が長い年月をかけて取り戻したかった日常だ。
俺は上着を羽織り、財布から代金を出そうとカウンターへ手を伸ばした。
ふと、視界の端に何かが映る。
調理の際に出汁取り用として鍋の隅に放り込まれていた、太い大腿骨の破片だ。身は綺麗に削ぎ落とされ、白く乾燥した骨だけが皿の上に転がっている。
その骨の髄から、ごく微細な光が漏れていた。
人間の耳には到底捉えられない周波数。だが、長年研ぎ澄まされてきた感覚には、それが明確な意味を持った規則正しい波形として伝わってくる。
チ、チ、チ、と。
一定の間隔で空間を震わせる、微弱な魔力信号。それは肉が消費され、骨だけになったこの瞬間もなお、何者かに向けて信号を送り続けていた。
「……おいおい」
俺は小さく苦笑し、骨の欠片を指先で軽く弾いた。まるでラジオのアンテナを叩くように。
肉の味は申し分なかったが、どうやら付け合わせに妙な置き土産が混ざっていたらしい。この発信先がどこであれ、俺の平穏な食後を邪魔するようなら、少々教育が必要になりそうだった。




