第20話
俺は鉄パイプをだらりと下げ、全身の力を抜いた。
今の探索者の常識からすれば、自殺行為にしか見えないだろう。だが、向こうでの四十年で培ったのは、力任せに叩き潰す技術ではない。極限の飢餓状態において、貴重な獲物の肉をいかに傷つけず、美味しくいただくかという生存の知恵だ。
魔牛もどきの巨体が俺を轢き潰そうと迫る。鼻息の熱風が前髪を揺らした刹那、俺は半身をずらして突進の軌道から外れた。
すれ違いざま、鉄パイプの先端を巨体の側面に滑り込ませる。
狙うのは硬い装甲ではない。筋肉の繊維が交差する結節点と、骨格の継ぎ目。力は要らない。ただ、肉の構造を理解し、その結合を解くように刃筋ならぬ「管筋」を通すだけだ。
下からすくい上げる軌道で、鉄パイプが魔獣の急所を正確になぞる。
ズシュッ、というくぐもった音。
直後、魔牛もどきの巨体は急ブレーキをかけたように前のめりに倒れ込み、そのまま綺麗に四つのブロックに分かれて崩れ落ちた。
血抜きすら一瞬で完了している。地面には、見事な霜降りが走る巨大な肉の塊が転がっていた。
「……よし。最高の仕上がりだ」
俺は鉄パイプを肩に担ぎ、満足げに頷いた。このサシの入り具合、肩ロースあたりか。いや、サーロインの可能性もあるな。どちらにせよ、強火で表面をカリッと焼き上げ、中はレアで肉汁を閉じ込めるのが最適解だ。
背後で、ドサリと何かが落ちる音がした。
振り返ると、神崎が手元の測定器を落とし、口をパクパクさせている。氷室も剣を構えた姿勢のまま、石像のように固まっていた。
「えっと……嘘でしょ? 今の、何?」
ドローンを操作していたキララが、震える声で呟く。映像の向こうの視聴者たちも、あまりの出来事にコメントを打つ手を止めているのか、不自然なほど静まり返っていた。
「何って、解体作業だが。ほら、見てみろこの見事なサシを。焼肉にしたら絶対に美味いぞ」
俺は一番大きな肉のブロックを抱え上げ、ホクホク顔で振り返る。
「か、解体って……あれ、特級クラスの変異体ですよ!? それを、その辺の鉄パイプ一本で……」
神崎が胃の辺りを押さえながら、ふらふらと歩み寄ってくる。彼女の顔色は、地下水路の青白い照明を差し引いても酷く蒼白だった。
「ちょっと、自分がどれだけ非常識なことをしたか分かってますか!? 特級クラスの変異体を一撃で解体するなんて、マニュアルのどこにも載ってませんよ!」
「マニュアルが間違っているだけだ。美味い肉を前にして、ちまちま魔法を撃ち込むなんて野暮な真似はできん。素材の良し悪しに、道具は関係ない。要は使い手の腕次第だ」
俺は肉の塊をポンポンと叩きながら答える。早く家に帰って、合羽橋で買った特注の鋳鉄鍋でこいつを焼きたい。その欲求だけで、今の俺は動いていた。
◆ーーーー◆
同じ頃、地上にあるダンジョン庁のモニター室。
御子柴と鬼瓦は、壁面に映し出されたキララの生配信映像を渋い顔で見つめていた。
「……局長。今の動き、見えましたか」
鬼瓦が、腕を組みながら低い声で唸る。彼の額には、じっとりと冷や汗が浮かんでいた。
「いや。私には、あの男がただ鉄パイプを撫でるように動かしたようにしか見えなかった。だが、結果として特級クラスの人工魔獣が一瞬で解体された。それが紛れもない事実だ」
御子柴は神経質そうに眉間を揉みほぐす。剣崎崇という男の規格外ぶりは、すでに何度も報告を受けている。だが、映像越しにそのデタラメな実力を目の当たりにすると、改めて頭を抱えたくなる。
「剣崎の力は、我々の理解を完全に超えています。しかし、問題はそこではありません」
鬼瓦がモニターの一部を指差した。
映像の背景、解体された魔獣の奥に、巨大なカプセル状の装置が映り込んでいる。青白い液体で満たされたその装置は、周囲の魔力を吸い上げるように明滅していた。
「阿久津の残したデータにあった『特級コア培養炉』……形状が完全に一致しています」
鬼瓦の言葉に、御子柴の顔から血の気が引いた。
「なぜあんなものが、都心の地下に隠されている。しかも、すでに稼働状態にあるではないか」
「おそらく、あの魔獣は培養炉を守るための番犬だったのでしょう。剣崎が倒してくれたおかげで発見できましたが、事態は最悪の方向へ進んでいます」
特級コアが完全に活性化すれば、東京の地下鉄網はすべてモンスターの巣窟と化す。経済的損失どころの話ではない。国家の存亡に関わる事態だ。
「すぐに神崎くんへ連絡を取れ。剣崎をそこから動かすな。彼を特級コアの制圧に利用するんだ」
御子柴が早口で指示を飛ばす。
だが、鬼瓦は苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。
「無理でしょう。あの男は今、肉を焼くことしか考えていません。我々の都合で動かせるような相手ではないことは、局長もご存知のはずです。無理に動かそうとすれば、彼が我々を敵とみなす危険性があります。あの男にとって、戦闘はただの作業。我々が束になっても、あの鉄パイプの一振りで全滅しかねません」
モニターの中では、巨大な霜降り肉を抱えた剣崎が、早く帰ろうと神崎たちを急かしている姿が映っていた。
◆ーーーー◆
都内のどこかにある、薄暗い地下制御室。
無数のモニターが並ぶ空間で、黒コートの男が静かに笑みを浮かべていた。
「目標の人工魔獣、ロストしました。生命活動の完全停止を確認」
オペレーターの報告が響く。
「構わん。あの魔獣は、最初から生贄として用意したものだ」
男は手元のコンソールを操作し、別のデータを呼び出す。
「あの正体不明の男が魔獣を解体した瞬間に放った、莫大な魔力波。すべて回収できたな?」
「はい。魔力抽出グリッドは正常に作動しました。回収したエネルギーを、特級コアへ転送します」
モニター越しのゲージが、急速に跳ね上がっていく。
剣崎崇という規格外の存在。彼が放つ圧倒的な力は、阿久津の残党たちにとって、特級コアを強制的に起動させるための極上の着火剤だった。
「阿久津様が残した偉大なる遺産。それを起動させるための最後のピースが、まさかあの得体の知れない男だったとはな。皮肉なものだ」
「エネルギー充填率、百パーセントを突破。臨界点を超えました。コアの脈動、安定期に入ります」
オペレーターの声に微かな震えが混じる。
男の視線の先、分厚い防弾ガラスの向こう側で、巨大な結晶体がドクン、ドクンと不気味な鼓動を刻み始めていた。青白い光が赤黒い瘴気へと変わり、周囲の空間を歪ませていく。
「見事だ。これで、我々の悲願が達成される。東京は、新たな魔王城として生まれ変わるのだ」
男の狂気を孕んだ笑い声が、冷たい制御室に響き渡った。
◆ーーーー◆
俺はそんな裏事情など知る由もなく、重たい肉の塊を抱えてホクホク顔で地下水路を歩いていた。
「ちょっと、本当にそれを持って帰るつもりですか!? 衛生法とか、ダンジョン庁の規定とか、色々あるんですよ!」
神崎が小走りで追いかけながら、悲鳴のような声を上げる。
「細かいことは気にするな。これほどの極上肉、放っておく手はないだろう。急がないと、スーパーの特売で買ったもやしが傷んでしまう。焼肉にはもやし炒めが必須だからな」
俺は足取りも軽く、出口へと向かう。
「もやし……特級クラスの肉の付け合わせが、もやしですか……?」
氷室が、少し頬を染めながら呆れたように呟く。
「師匠、庶民的すぎます! でも私も食べたいです! 配信のネタにもなるし!」
キララもドローンを片手に便乗してきた。
「構わんぞ。肉は腐るほどあるからな。ただし、米は各自で持参しろよ」
俺は笑いながら答えた。
俺はスマホを取り出し、最寄り駅の時刻表を素早く検索する。特売のもやしと極上の霜降り肉、これらを最高の状態で味わうには一分一秒のロスも許されない。
俺は帰りの通勤電車に間に合うよう、さらに歩みを早めた。
だがはるか地下深くでは、安定化した特級コアが静かに、そして確実に異常事態を進行させていた。
脈打つ巨大なエネルギーは、次なる脅威を孕んで暗闇の中で膨張を続けている。果たして、この静かなる危機は、俺の平和なスローライフにどのような影響を及ぼすのか。
今はただ、手の中にある極上の霜降り肉の重みだけが、確かな現実として存在していた。




