第19話
魔法陣の淡い光が、薄暗い通路の先へと点滅しながら続いていく。
まるで獲物を誘い込む罠のように規則的な明滅を繰り返すその光は、壁面を這い上がり、天井にまで複雑な幾何学模様を描き出す。
俺は肩に鉄パイプを担いだまま、迷うことなくその光の道標を辿る。
空腹のせいか、普段よりも自然と歩調が早くなる。
冷たい石造りの床を踏みしめるたび、硬質な足音が地下空間に反響した。
背後からは、慌ただしい足音が二つ、俺を追いかけるように続いてくる。
「ちょっと、あなた! 勝手にどんどん進まないでください。ここは未踏破の危険地帯なんですよ!」
神崎がスーツの裾を翻し、胃のあたりを両手で強く押さえながら小走りでついてくる。
彼女の顔には疲労と焦燥が色濃く浮かび、手にしたタブレットを落としそうになりながら必死に食らいついてきた。
「これ以上の無断探索は重大な規則違反です。始末書だけでは済みませんよ! 私の管理責任が問われたらどうするんですか!」
公務員としての矜持と保身が入り混じった悲鳴を上げる神崎の横で、氷室が抜刀したまま周囲へ鋭い視線を配り、音もなく滑るような歩法で追従してくる。
「油断するな。先ほどの魔獣の死骸を触媒にして、何らかの仕掛けが作動したはずだ。この奥に致命的な罠が待ち構える可能性は極めて高い」
氷室の静かな忠告は、探索者としてのセオリーに忠実なものだ。
だが、俺の鼻腔はまったく別の情報を捉えた。
通路の奥から微かに漂ってくる、獣の匂い。
それは血生臭い魔物の体臭ではなく、上質な脂がたっぷりと乗った、極上の霜降り肉の香りだった。
「罠だろうが何だろうが関係ない。俺の晩飯を台無しにした落とし前は、きっちり肉で払ってもらう」
俺は鉄パイプを握り直し、迷わず通路の奥へと足を踏み出した。
空腹のまま手ぶらで引き返すという選択肢は、俺の辞書には存在しない。
温かい食事と安全な寝床。それさえ確保できれば、現代日本でのスローライフは完璧なのだ。
飯の邪魔をする奴は、誰であろうと容赦しない。
やがて、通路の突き当たりにある巨大な石壁へと辿り着いた。
石壁の表面には、床と同じ幾何学模様の魔法陣が複雑に刻まれる。
俺が鉄パイプの先端でその模様を軽く叩くと、魔法陣が強い光を放ち、重々しい地響きを立てて石壁が左右に割れた。
隠しエリアへの扉が開いたのだ。
開かれた扉の奥からは、さらに濃厚な肉の匂いが漂ってくる。
俺が喜び勇んで踏み込もうとした瞬間、背後の通路から甲高い羽音が響いた。
「師匠ー! やっと見つけた!」
派手なピンク色の髪を揺らし、星野キララが駆け寄ってくる。
動きやすさより見栄えを重視したサイバーパンク風の探索服が、薄暗い通路の中で異彩を放つ。
彼女の頭上では、高性能な小型ドローンが忙しなく飛び回る。
「お前、なんでこんなところに」
「師匠の極秘探索の匂いがしたからね! ウチのネットワークを舐めちゃダメだよ。さっそく配信回すから! みんなー、今日は特級クラスの激レア配信だよ!」
キララは得意げにピースサインを作り、ドローンのカメラに向かってウインクを飛ばす。
空中に投影されたホログラムには、「師匠キター!」「ここどこ?」「ヤバそうな雰囲気」といったリスナーのコメントが滝のように流れていく。
神崎が顔を真っ青にさせ、声を荒らげた。
「一般市民の立ち入りは厳しく制限される決まりです! 今すぐ引き返しなさい。一般人の安全を最優先するのが私のお役目なんですから!」
だが、キララは手元のタブレットを覗き込み、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? なんかウチの配信電波、どこかに逆探知されたっぽい。外部からアクセスされて……」
その瞬間、ドローンのプロペラ音が不規則に乱れ、機体が空中でふらついた。
「うわっ、奥のエリアにすごいエネルギー反応が転送された!」
氷室が眉をひそめ、剣の柄を強く握りしめる。
「何者かが、この配信の電波を利用して我々の現在地を正確に特定したというのか。そして、この先の空間に何かを送り込んだ……」
開かれた石壁の奥の暗闇が、不気味な赤黒い光に染まる。
床の石畳が細かく振動し、積もった埃が舞い上がる。
空気が震え、肌を刺すようなプレッシャーが通路を満たす。
特級コアのエネルギーを強制的に注ぎ込まれたような、不自然で暴力的な魔力の奔流。
神崎の持つ測定器から、けたたましい警告音が鳴り響いた。
「測定不能……! 特級指定クラスの異常な数値です。早くここから離脱しないと、命に関わります!」
俺は鼻を鳴らした。
「離脱? 冗談じゃない。これだけ強大な魔力エネルギーが集まれば、肉の旨味が極限まで引き出される。極上の肉が焼き上がる合図だ」
俺は鉄パイプを軽く振り、重心を確かめる。
少し軽いが、贅沢は言えない。
背後で神崎が俺の腕を掴んで止めようとしたが、俺の体から発せられる異様な気迫に圧倒されたのか、すぐに手を離した。
俺の意識はすでに、極上の食材へと向く。
隠しエリアの最奥は、ドーム状の巨大な空間だった。
中央に鎮座するのは、特級コアのエネルギーを注ぎ込まれて異常に肥大化した特別な人工魔獣。
四つ足で大地を踏みしめ、漆黒の毛並みが魔力の光を反射して鈍く輝く。
一歩踏み出すごとに床がひび割れるほどの重量感。
頭部には巨大な二本の角が天を突き刺すように生え揃い、血のように赤い双眸がこちらを睨みつける。
鼻息一つで周囲の空気が焦げ付くほどの熱量を放つその姿は、まさに絶望の象徴だった。
その姿を見た瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。
向こうの世界で過ごした過酷な日々。
魔王軍の補給部隊を襲撃し、凍える雪山で三日三晩あいつの同族を追い回したこともあった。
常に死の危険に晒される極限状態の中で、唯一の楽しみだったのが、討伐した魔獣の肉を焚き火で焼いて食うことだった。
目の前に立つ漆黒の獣は、あっちの世界で俺が好んで食べていた「魔牛」にそっくりなのだ。
奴らは魔王軍の幹部を名乗り、偉そうに世界征服の野望を語る奴らだった気がするが、そんな肩書きはどうでもいい。
重要なのは、その肩ロースが軽く炙るだけで口の中でとろけるほど絶品だったという事実だ。
まずはあの巨大な角を根元から叩き折り、首の動脈を断って血抜きをする。それから一番美味い肩ロースを切り出すのだ。
あの濃厚な脂の甘みと、噛み締めるたびに溢れ出す肉汁の記憶が、鮮明に蘇る。
「まさか、こんなところであの味に再会できるとはな……」
俺の口元が自然と緩む。
現代日本に帰還して以来、スーパーの特売肉でも十分に満足するが、やはり本物の魔牛の味には敵わない。
「師匠、あれヤバくない!? モニター越しでもプレッシャーが伝わってくるよ!」
キララがドローンを操作しながら叫ぶ。
神崎も測定器を握りしめ、悲痛な声を上げた。
「あれは人工的に合成された特級クラスの変異体です! 現代の装備では太刀打ちできません。お願いですから逃げてください!」
氷室でさえ、額に冷や汗を浮かべて剣を構えたまま動けずに立ち尽くす。
圧倒的な質量の差。
現代の探索者たちがマニュアル通りに動けば、間違いなく全滅する相手だろう。
だが、俺の目には、極上の霜降り肉の塊にしか見えない。
「逃げる理由がない。あいつの肉は、最高の晩飯になる」
俺は鉄パイプを両手で握り、だらりと下げた。
指先の力を抜き、いつでも変幻自在に軌道を変えられる状態を保つ。
現代の剣術セオリーから見れば、隙だらけの素人丸出しの構え。
しかし、これは幾千の死線を潜り抜けて極められた、究極の脱力と理合の型だ。
魔牛が地響きを立てて突進を開始した。
巨大な角が俺の体を貫こうと迫る。
俺は一歩だけ前に踏み込んだ。
腹の底から湧き上がる、かつてないほどの食欲。
この極上の食材を前にして、手加減などできるはずがない。
俺の全力の「調理」が、今ここから始まる。




