第18話
踏み出した足先から、床の石畳が微かに震えるのが伝わってきた。
周囲を取り囲む獣たちが、一斉に牙を剥いて跳躍する。赤黒い体毛に覆われた四足歩行の化け物どもだ。
四方八方から迫る鋭い爪の軌道を、俺はぼんやりと目で追った。
「あり得ない数値です! 測定器の針が振り切れて……!」
背後で神崎がタブレットを抱え込みながら叫んでいる。
彼女の悲鳴を背中で聞き流しつつ、俺は先ほど取り出した鍋を左手で構え直し、空いた右手で鉄パイプを軽く持ち上げた。いつでも新鮮な具材を受け止める準備はできている。
「霜降り肉って触れ込みだったが、どう見ても赤身だな」
先頭の一匹が、俺の喉笛を狙って飛びかかってくる。
俺は鉄パイプを横に薙いだ。
金属の鈍い音が響き、獣の頭蓋がひしゃげる。そのままの勢いで横っ飛びに吹き飛び、壁に激突して動かなくなった。
「しかも、ずいぶんと筋張ってそうだ」
文句を言いながら、俺は手首を返す。
背後から迫っていた二匹目の胴体に、鉄パイプの先端を突き入れた。
肋骨が砕ける感触が手に伝わる。引き抜くと同時に、三匹目の顎をカチ上げ、空中で回転させながら地面に叩きつけた。
「ひっ……!」
神崎が短い悲鳴を漏らす。
俺は周囲を見渡した。残りの獣どもは、仲間が瞬く間に肉塊に変わったのを見て、警戒するように距離を取っている。
「調理の時間は限られてるんだ。さっさと来い」
鍋の湯が沸く前に下ごしらえを終えたい。
俺が鉄パイプを肩に担ぎ直したとき、通路の奥から鋭い足音が響いてきた。
「剣崎さん! 無事ですか!」
銀色の長髪を揺らしながら駆け込んできたのは、氷室玲奈だった。
純白の戦闘服にはわずかに土埃がついているが、相変わらず凛とした佇まいだ。彼女の手には、冷気を纏った細身の剣が握られている。
「氷室か。どうしてここに」
「異常な魔力スパイクを観測したと、ギルドから緊急の通信が入ったのです。あなたが巻き込まれたと聞いて、急いで救援に……」
氷室は言葉を切った。
彼女の視線が、俺の足元に転がる獣の残骸へと注がれる。
「……これは、あなたが?」
「ああ。晩飯の具材にしようと思ったんだが、どうも肉質が硬そうでな。煮込み料理にしか使えそうにない」
俺がため息をつくと、氷室は目を見開いたまま固まった。
彼女は獣の死骸と、俺がだらりと下げている鉄パイプを交互に見比べる。
「信じられない。これほどの高密度な魔力を持った個体を、たった一人で、しかも無傷で……」
氷室の呟きには、純粋な驚愕が混じっていた。
彼女は俺の構えを食い入るように見つめ、何かを納得したように小さく頷く。
「なるほど。一見すると隙だらけに見えるその立ち姿。しかし、いかなる方向からの攻撃にも即座に対応できる、極限まで無駄を削ぎ落とした理合の境地。また一つ、学ばせていただきました」
勝手に感心されているが、俺はただ肩が凝らないように力を抜いているだけだ。
若い探索者はどうにも物事を難しく考えすぎるきらいがある。
「あの、氷室さん。助けに来ていただいたところ申し訳ないのですが……」
へたり込んでいた神崎が、ふらつきながら立ち上がった。
スーツの膝を払いながら、疲労の色が濃い顔で俺たちを見る。
「剣崎さんの場合、救援よりも後の書類処理を手伝っていただいた方が助かります。この特異な魔力反応、どう報告書にまとめればいいのか……」
神崎が胃のあたりを押さえてうめく。
俺は鉄パイプを地面に突き立て、残った獣どもに向き直った。
「まあ、書類のことは後で考えろ。まずはこいつらを片付ける」
俺が一歩踏み出すと、獣たちは怯えたように後ずさった。
だが、逃がすつもりはない。
俺は地を蹴り、一瞬で群れの中央に潜り込んだ。
鉄パイプが空を裂き、鈍い打撃音が連続して響き渡る。
ものの数秒で、残っていた獣たちはすべて床に転がった。
◆ーーーー◆
薄暗いモニター室の中。
無数の画面が並ぶ壁面の前で、黒いコートを着た男が静かに笑みを浮かべていた。
「素晴らしい。予想以上のデータだ」
男の背後で、数人のオペレーターがキーボードを叩き続けている。
画面の中央には、鉄パイプを振り回して人工魔獣を粉砕していく剣崎崇の姿が映し出されていた。
「対象が魔獣を破壊するたびに、周囲の空間魔力が劇的に安定化しています。彼の放つ魔力波長が、人工コアの暴走状態を完全に中和しているようです」
オペレーターの一人が、興奮した声で報告する。
男は満足げに頷き、手元のグラスを揺らした。
「あれほど不安定だった特級コアの試作品が、彼の周囲では嘘のように大人しくなる。やはり、我々の仮説は正しかった」
阿久津の遺した研究データ。
それを実用化するためには、暴走する魔力を制御するためのフィルターが必要だった。
そして今、そのフィルターとして最も適した存在が、自ら実験場へと足を踏み入れてくれたのだ。
「対象の戦闘能力は想定を遥かに超えていますが、問題ありません。彼が力を振るえば振るうほど、我々の計画は前進する」
男はモニターの中の剣崎を見つめ、目を細めた。
「第一段階はクリアだ。次のフェーズへ移行しろ。彼には、もっと多くの食材を提供してやらねばなるまい」
オペレーターたちが一斉に操作を開始する。
地下深くで眠っていた巨大な魔力回路が、新たな命令を受けて静かに脈動を始めた。
◆ーーーー◆
「ふう。これで全部か」
俺は鉄パイプの汚れを振り払い、肩を回した。
周囲には、人工魔獣の残骸が散乱している。
神崎はタブレットの画面を見つめながら、深くため息をついた。
「魔力反応、完全に沈静化しました。信じられません。あれほどの異常値が、一瞬で……」
「剣崎さん。あなたの剣技は、もはや芸術の域です。私もさらに精進しなければ」
氷室が真剣な表情で俺に頭を下げる。
俺は二人の反応を適当に流しつつ、足元に転がる獣の死骸にしゃがみ込んだ。
「さて、肉の解体にかかるか。硬い肉でも、叩いて筋を切ればなんとか食えるだろう」
リュックから解体用のナイフを取り出し、獣の腹に刃を当てようとした。
だが、ナイフの先が触れる直前。
獣の死骸が、唐突にドロドロと溶け始めた。
「なんだ?」
俺はナイフを引っ込め、眉をひそめた。
赤黒い肉塊が液状に変化し、床の石畳の隙間へと吸い込まれていく。
他の死骸も同様だ。まるで熱したフライパンに落としたラードのように、次々と形を崩し、地面へと消えていく。
「剣崎さん、床を見てください!」
神崎の鋭い声に、俺は視線を落とした。
死骸が溶け込んだ床の表面に、幾何学的な模様が浮かび上がっている。
淡い光を放つそれは、どう見ても自然に発生したものではない。人為的に描かれた魔法陣だ。
「魔獣の死骸を触媒にして、何かの仕掛けが起動した……?」
氷室が剣を構え直し、周囲を警戒する。
俺は溶けて消えてしまった肉の跡を見つめ、舌打ちをした。
「おいおい。せっかくの食材が台無しじゃないか」
腹の虫が小さく鳴る。
魔法陣の光は次第に強さを増し、通路の奥へと続く光の道標のように連なっていった。
この光の先には、俺の晩飯を奪ったふざけた仕掛けの主がいるのだろう。
「行くぞ。肉の恨みは高くつくってことを教えてやる」
俺は鉄パイプを握り直し、光の続く奥へと歩き出した。
神崎の胃痛を訴えるうめき声と、氷室の静かな足音が背後からついてくる。
仕掛けの全貌はまだ見えない。だが、鍋を空のまま持ち帰るつもりは毛頭なかった。




