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第17話

帰宅した俺は、特売肉のビーフシチューを堪能した。

翌朝。

俺はスマホを操作し、ネット掲示板を眺めていた。

「幻の霜降り魔牛、か」

怪しげな書き込みだが、新しい鍋の性能を試すには最高のターゲットだ。


◆ーーーー◆


薄暗い廃ビルの地下室。

ディスプレイの青白い光が、男の顔を不気味に照らし出す。

阿久津の遺産を継ぐ者たちは、着々と計画を進めていた。

ターゲットは、規格外の力を持つ元勇者。

奴の周囲で観測される異常な魔力干渉。あれを特級コアの制御に利用する。

「餌は撒いた。食欲に忠実な獣なら、必ず食いつくはずだ」

男はキーボードを叩き、特定の実験場ダンジョンへの誘導ルートを掲示板に固定した。

人工魔獣を放ち、魔力増幅の罠を張り巡らせた特設ステージ。

すべては、この街を混沌に沈めるための準備段階に過ぎない。


◆ーーーー◆


「だから、どうしてそんな出所不明の書き込みを信じるんですか」


玄関先で、神崎結衣が眉間を押さえていた。

きっちりとしたスーツ姿に、今日も疲労の色が濃く滲んでいる。手にはバインダーが握られており、定期面談のために訪れたのだろう。


「出所なんてどうでもいい。そこに美味い肉があるかもしれない。それだけで足を運ぶ理由は十分だ」


俺は新調したばかりの鋳鉄鍋をリュックに詰め込みながら答えた。

すぐ脇で、黒い毛玉のようなポチが尻尾を振っている。こいつも美味い飯の気配を察知しているらしい。


「十分じゃありません。あなたが向かおうとしているのは、最近魔力波形が不安定だと報告されている郊外の廃工場ダンジョンですよ。一般の探索者には立ち入りを控えるよう通達を出している場所です」


「なら、俺みたいな素人が様子を見に行ってやるのが一番安全だろう」


「そういう理屈は通りません。万が一、そこであなたが大暴れしてダンジョンを崩壊させでもしたら、私の管理責任が問われるんですからね」


神崎は深い溜息をついた。

真面目なお役所気質は相変わらずだ。書類の不備や規則違反を何より恐れる彼女にとって、俺の行動は胃痛の種でしかないらしい。


「安心しろ。ただの食材調達だ。面倒な騒ぎを起こすつもりはない」


「あなたの言う『ただの食材調達』が、これまでどれだけの被害をもたらしてきたか分かっていませんね……」


神崎はぶつぶつと文句を言いながらも、結局は俺の後をついてくることになった。

特例対象である俺の監視名目。彼女も公務員としての矜持があるのだろう。放っておけないというお人好しな性格が、余計に彼女の首を絞めている気がする。


電車を乗り継ぎ、目的の廃工場ダンジョンに到着した。

錆びついた鉄扉を押し開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

内部はコンクリートの壁が剥き出しになっており、自然発生したダンジョンというよりは、何者かが意図的に作り上げた迷宮のような印象を受ける。


「静かですね……モンスターの気配がまったくありません」


神崎が周囲を見渡し、警戒を強める。

確かに、通常の下位ダンジョンならゴブリンやスライムの類がうろついているはずだが、ここには不気味なほどの静寂が広がっていた。


「キュウ……」


ポチが俺の足首にすり寄り、小さく鳴いた。

普段なら真っ先に駆け出していくはずの非常食が、少しだけ怯えたように身を縮めている。


「どうした、腹でも痛いのか」


俺はポチの頭を撫でてやった。

神崎はタブレットを操作し、顔をしかめる。


「魔力測定器の数値がおかしいです。ノイズが酷くて、正確な地形データが読み取れません。剣崎さん、やはりここは一度引き返して、正式な調査隊を待つべきでは」


「何を言ってるんだ。ここまで来て手ぶらで帰れるか」


俺は鼻を鳴らし、空気の匂いを嗅いだ。

コンクリートの埃っぽさに混じって、微かに漂ってくる獣の臭い。

向こうでの長い日々の中で、何度も嗅いできた極上の食材の香りだ。


「間違いない。奥に極上の霜降り肉が待っている」


「匂いだけで判断しないでください! 明らかに罠の可能性が高いですよ!」


神崎の制止を背中で受け流し、俺はズンズンと深部へ向かって歩き出した。

罠だろうが何だろうが、俺の目的は一つだけだ。

新しく買った鍋で、最高の肉を煮込む。

そのための労力なら、いくらでも払ってやる。


通路を進むにつれて、周囲の空気が徐々に重みを増していく。

壁面には奇妙な幾何学模様が刻まれ、微弱な光を放っていた。人工的な魔力回路。誰かがこの空間全体を一つの巨大な装置として改造しているらしい。


「剣崎さん、止まってください。これ以上は危険です」


神崎の声が震えている。

彼女のタブレットから、けたたましい警告音が鳴り響いた。


すると、通路の奥から低い唸り声が響き渡った。

暗闇の中から姿を現したのは、全身を黒い装甲で覆われた巨大な獣だった。

牛のような骨格をしているが、その背中には無数の管が突き刺さり、青白い液体が脈打つように流れている。

自然界のモンスターではない。明らかに人の手が加えられた人工魔獣だ。


「な、なんですかあれは……報告にない変異種……いえ、キメラ……?」


神崎が後ずさり、バインダーを胸に抱え込む。


「ふむ」


俺は獣の姿を観察した。

装甲の隙間から覗く筋肉の付き具合。管から供給されている魔力の純度。

どれをとっても、申し分のない仕上がりだ。


「いい肉質だ。あれなら、じっくり煮込んでもパサつかないだろう」


「どう見ても食べられる生き物じゃありませんよ!」


神崎のツッコミを無視し、俺はリュックから鍋を取り出した。

獣が赤い目をぎらつかせ、前足を掻いて突進の構えを見せる。


その瞬間。

すぐ下で床が眩い光を放った。

壁面に刻まれた魔力回路が一斉に起動し、俺たちを包み込むように巨大な結界が展開される。


「きゃっ……!」


神崎が悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。

空間全体の魔力が急激に圧縮され、息苦しいほどの圧力がのしかかってくる。

ただの捕獲罠ではない。俺の魔力を強制的に引き出し、どこか別の場所へ転送しようとする巨大な吸引力。


阿久津の残党とやらが仕掛けた、特級コアを起動するための大掛かりな仕掛け。

普通の探索者なら、この圧力だけで意識を刈り取られているだろう。


だが、俺は鍋の取っ手を握り直し、小さく笑みをこぼした。


「なるほど。肉を炙るための下準備としては、悪くない火力だ」


未知の魔力反応が荒れ狂う中、俺は一歩だけ前に踏み出した。

極上の霜降り肉を手に入れるための、ささやかな調理の始まりだった。


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