第16話
ダンジョン庁の厳重なセキュリティゲートを抜けるのは、何度経験しても面倒な作業だった。
金属探知機を通り、身分証代わりのフリーパスを提示し、無機質な廊下を歩く。案内役として迎えに来た神崎は、歩きながらも手元のタブレットから目を離さない。
「急に呼び出して申し訳ありません。ですが、事態は一刻を争うのです」
彼女の目の下には、隠しきれない疲労の影が濃く落ちる。昨夜の騒動から一睡もせずに対応に追われたのだろう。
最上階にある分厚い防音扉を押し開けると、局長室は重苦しい空気に包まれた。
革張りのソファに腰を下ろした俺の正面で、御子柴が眉間を深く揉みほぐす。神崎は分厚いファイルの束を抱え、胃のあたりをさすりながら立ち尽くす。
「昨夜の訓練施設での一件。報告は受けたよ」
御子柴が重々しい口調で切り出した。
鬼瓦が回収した残骸の分析結果が出たらしい。それは自然発生したモンスターではなく、阿久津の残したデータに符合する人工的な試作品だった。
「生体組織と金属繊維が複雑に絡み合い、特級コアの技術を応用した痕跡が見られた。都心の地下で、未知のエネルギー波形が急速に拡大しつつある。おそらく次なる特級指定の気配だ。誰かが意図的に事態を動かそうと企む可能性が高い」
神崎がタブレットを操作し、空中にホログラムのグラフを表示させた。
赤い波形が不規則に脈打ち、危険な兆候を示唆する。
「あなたにも、本格的な警戒態勢をお願いします。いつどこで、あの人工魔獣の完成形が街に放たれるか分かりません。市民の安全を最優先に動いていただきたいのです」
真剣な眼差しを向ける二人の顔を、俺は交互に眺めた。
深刻な状況なのは伝わる。だが、俺の関心事はそこにはない。
「ふうん。で、その人工なんとかってやつの肉は美味いのか?」
静寂が室内に落ちた。
神崎が持参したファイルを床に取り落としそうになり、慌てて抱え直す。
「……は?」
「いや、昨日のやつは金属の部品ばかりで食えそうになかったからな。完成形とやらが美味い肉質なら、少しは狩る楽しみも増える。赤身が多いのか、それとも脂が乗るタイプか。異世界の魔牛みたいに、噛めば噛むほど味が出る肉なら大歓迎だ」
俺の素朴な疑問に、御子柴は深く息を吐き出した。
偉そうな上司の顔はどこかへ消え去り、ただ疲労困憊した中年の素顔がそこにある。
「……君に常識的な危機感を求めた私が馬鹿だったよ。神崎くん、あとは任せる」
「えっ、局長!? 私に丸投げですか!」
悲鳴を上げる神崎を背に、御子柴は早々に執務机へ逃げ込んだ。
組織の利益を第一に考える男も、俺の食欲の前では諦めを優先するらしい。
俺はソファから立ち上がり、軽く肩を回した。
特級の気配だろうが人工魔獣だろうが、俺の日常を脅かさない限りはどうでもいい。それよりも、昨夜の特売牛肉の硬さが問題だった。
分厚く切って焼いたのは良かったが、筋が多くて顎が疲れたのだ。
「それじゃ、俺は買い物に行くから」
「ちょっと、話はまだ終わって……痛っ、胃薬……」
神崎の制止を適当に流し、俺は局長室を後にした。
◆ーーーー◆
「硬い肉でも美味く煮込める鍋、ねえ」
定食屋の厨房で、絹代が顎に手を当てた。
昼前の仕込み中にお邪魔して相談を持ちかけると、彼女は少し考えてからポンと手を打つ。店内には、鰹出汁の優しい香りが漂う。
「それなら、合羽橋の道具街へ行くといいよ。プロ用の頑丈な鍋がいくらでも揃うからね。あんたの馬鹿力で扱っても壊れないような、分厚い鉄鍋が見つかるはずさ」
その助言に従い、俺は電車を乗り継いで合羽橋へとやってきた。
通り沿いには、大小さまざまな調理器具を扱う問屋がずらりと並ぶ。包丁、まな板、巨大な寸胴鍋。見渡す限りの道具の山に、俺は思わず目を輝かせた。
異世界での野営では、煤けた薄っぺらい鉄鍋一つで全てを済ませたものだ。
それに比べて、現代日本の道具のなんと豊かなことか。用途に合わせて細分化された器具の数々は、見つめるだけで胸が躍る。
「ほう、これは熱伝導率が良さそうだ」
店先に並んだ鋳鉄製の鍋を手に取り、重さと厚みを確認する。
ずっしりとした手応え。これなら熱を逃がさず、硬いスジ肉もトロトロに煮込めるはずだ。
「お兄さん、お目が高いね。それはうちの特注品だよ。手入れさえ怠らなければ、一生モノさ」
店主の威勢の良い声に、俺は迷わず頷いた。
「これをもらおう。今日の晩飯が楽しみだ」
新しい鍋を抱え、俺は満足げに通りを歩く。
周囲には、買い出しに訪れた料理人や観光客の姿が溢れる。誰もが平和な日常を享受し、夕餉の献立に思いを馳せる。
この穏やかな空気こそ、俺が守り抜きたいものだった。
◆ーーーー◆
合羽橋の雑踏を見下ろす、古びた雑居ビルの屋上。
錆びたフェンスの陰から、黒いコートの男が双眼鏡を下ろした。
「あれが、試作品を一撃で粉砕したイレギュラーか」
男の背後で、通信機からノイズ混じりの声が響く。
『いかにも隙だらけのガキに見えるが、阿久津様の遺したデータを狂わせる最大の要因だ。ここで始末するか?』
「馬鹿を言え。あの異常な魔力出力、まともにぶつかればこちらが消し飛ぶぞ」
男は舌打ちをし、再び双眼鏡を構えた。
レンズの先では、イレギュラーの少年が鍋を抱えて呑気に歩く。監視の視線に気づく素振りは一切ない。
「計画を変更する。奴を排除するのではなく、利用するんだ」
『利用だと?』
「ああ。都心の地下で眠る特級コア。あれを完全に活性化させるには、膨大な魔力波が必要だ。奴の規格外の力を誘導し、コアの起動キーとして使えばいい」
男の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
阿久津の遺産を継ぐ者として、この街を再び混沌の渦に叩き込む。そのための最高の起爆剤が、今まさに無防備な姿を晒す。
「せいぜい今のうちに、平和な日常を満喫しておくことだな」
男は通信機を切り、静かに屋上から姿を消した。
◆ーーーー◆
「よし、これで準備は完璧だ」
帰りの電車に揺られながら、俺は膝の上の鍋を撫でた。
窓の外では、夕日が街をオレンジ色に染め上げる。
特級ダンジョンの気配だの、人工魔獣だの。
神崎たちは色々と騒がしいが、そんなものは俺の知ったことではない。
今日の晩飯は、特売肉を使ったビーフシチューに決まりだ。
じっくりと時間をかけて煮込み、肉の旨味を余すところなく引き出す。想像するだけで腹の虫が鳴る。
「帰ったら、ポチにも少し分けてやるか」
俺は小さく笑みをこぼし、目を閉じた。
街の影で何が蠢こうとも、俺の平穏なスローライフは揺るがない。
温かい食卓への期待だけを胸に、俺は家路を急いだ。




