第15話
夕闇が迫る街の空に、一番星が瞬き始めていた。
俺の力が世界に何をもたらしているのか。神崎は深刻そうな顔で語っていたが、そんな大層なものを背負う気はない。
「じゃあな。あんたたちも早く帰って飯にしろよ」
俺は神崎と氷室に背を向け、手をひらひらと振った。氷室がまだ何かぶつぶつと呟きながらメモを取っていたが、気にしないことにする。彼女の探求心は底なしだが、俺の胃袋の限界はとっくに超えているのだ。
足元では、ポチが嬉しそうに短い尻尾を振っていた。
「行くぞ、ポチ。今日は少し遠回りして帰るか」
「ワフッ」
ポケットの中の通勤定期券を指先で弾く。これ一枚あれば、都心から郊外までどこへでも行ける。魔王討伐という終わりの見えない旅をしていた頃には考えられない、素晴らしい魔法のアイテムだ。
頭の中は、すでに今夜の晩飯のことでいっぱいだった。
スーパーの特売で買った牛肉のブロックがある。異世界でよく狩っていた魔牛の肉に少し似ているのだ。あの魔牛は無駄に硬くて筋張っていたが、噛み応えだけは一丁前だった。
飢えと寒さに震えながら、泥水と共に飲み込んだあの肉の味。もう二度とあんな極限状態には戻りたくない。現代の調味料でじっくり焼けば、あの頃よりずっと美味く食えるはずだ。
腹の虫が小さく鳴る。
平和なスローライフ。温かい食事と安全な寝床。それさえあれば、俺は何もいらない。
◆ーーーー◆
「下がれ! 盾の後ろから絶対に出るな!」
ダンジョン庁の訓練施設。その広大な屋内アリーナに、鬼瓦鉄平の怒号が響き渡った。
彼の背後には、腰を抜かした数名の訓練生が身を寄せ合っている。夜間の補習訓練中、突如として施設の壁を突き破り、異形のモンスターが侵入してきたのだ。
「グルルルル……」
それは、自然界のダンジョンでは決して見られない歪な姿をしていた。狼の四肢に、爬虫類の鱗、そして背中には昆虫のような甲殻。複数の魔獣を無秩序に繋ぎ合わせたような、悪趣味な合成獣だった。
鬼瓦は分厚い大盾を構え、じりじりと後退する。
探索者のマニュアルによれば、未知の脅威に遭遇した際は防御を固めて応援を待つのが鉄則だ。だが、先ほどから放っている魔力弾も、施設に備え付けられた防衛用の自動小銃も、奴の甲殻には傷一つつけられない。
「くそっ……装甲が硬すぎる。応援部隊はまだ到着しないのか!」
通信機からはノイズばかりが返ってくる。
合成獣が低い唸り声を上げ、後ろ足に力を溜めた。
来る。
鬼瓦は全身の筋肉を硬直させ、衝撃に備えた。教官として、未来ある若者たちを死なせるわけにはいかない。
合成獣が床を蹴り砕き、砲弾のような速度で突進してくる。
大盾に凄まじい衝撃が走った。
「ぐおおおっ!」
鬼瓦の巨体が宙を浮き、後方の壁際まで吹き飛ばされる。腕の骨が軋み、口の中に鉄の味が広がった。
「教官!」
訓練生たちが悲鳴を上げる。
合成獣は悠然と向き直り、無防備になった若者たちへと赤い瞳を向けた。
万事休すか。鬼瓦が絶望に歯を食いしばった、その時だった。
「おいおい。こんな時間まで残業か。ご苦労なこった」
間の抜けた、ひどく落ち着いた声がアリーナに響いた。
◆ーーーー◆
施設の裏手を歩いていると、ポチが鼻をひくつかせて唸り声を上げた。
直後、建物の中から激しい衝突音が聞こえてきた。
「なんだ? 騒がしいな」
開け放たれた搬入口から中を覗き込む。広いアリーナの端で、鬼瓦が巨大なバケモノに吹き飛ばされるところだった。
その奥には、怯えきった若者たちが固まっている。
俺は小さくため息をついた。
見過ごせば鬼瓦が死ぬ。そうなれば、明日の朝刊は嫌なニュースで埋まり、俺の朝食の味が落ちてしまう。
命のやり取りなんてものは、仕事ではなくただの作業としてさっさと終わらせるに限る。
俺は周囲を見渡し、壁際に立てかけられていた清掃用のモップを手に取った。柄はプラスチック製で少し頼りないが、贅沢は言っていられない。
「ちょっと待ってろよ、ポチ」
「ワゥ」
ポチはおとなしくその場にお座りをした。
俺は搬入口を抜け、アリーナへと足を踏み入れる。
「鬼瓦のあんた、随分と手こずってるじゃないか」
壁際でうずくまっていた鬼瓦が、弾かれたように顔を上げた。
「剣崎……! なぜ君がここに」
「散歩の途中だ。そいつ、ずいぶんと不格好だな」
俺の姿を認めた合成獣が、標的をこちらへと変えた。喉の奥で不快な音を鳴らし、殺気を膨れ上がらせる。
「剣崎、頼む! そいつは普通のモンスターじゃない!」
鬼瓦の叫びに、俺は軽く手を挙げて応えた。彼が俺の実力を疑わず、すぐに援護を求めてきたのは好都合だ。面倒な説明を省ける。
合成獣が地を蹴った。
先ほど鬼瓦を吹き飛ばしたのと同じ、一直線の突進。
俺はモップを両手で握り、だらりと下げた。現代の剣術セオリーから見れば、隙だらけの素人丸出しの構えだろう。
だが、これは四十年の実戦で極められた、究極の脱力と理合の型だ。
迫り来る巨大な質量。
俺は一歩だけ前に踏み込んだ。
合成獣の顎が俺の体を噛み砕く、その直前。
下段から跳ね上げるように、モップの柄を振り抜いた。
狙うのは、硬い甲殻の隙間。首の関節の、ほんのわずかな継ぎ目。
プラスチックの柄が限界までしなり、俺の腕から伝わる運動エネルギーを一点に集中させる。
パァンッ、と乾いた破裂音が響いた。
モップの先端が関節にめり込み、合成獣の巨体が不自然な角度で跳ね上がる。そのまま空中で回転し、コンクリートの壁に激突した。
ドゴォォォン、という轟音と共に壁に亀裂が走り、合成獣はピクピクと痙攣したのち、完全に動かなくなった。
「ふう。柄が折れなくてよかったぜ」
俺はモップを肩に担ぎ、軽く首を鳴らした。
アリーナに、静寂が降りていた。
訓練生たちは口を半開きにして固まり、鬼瓦は深く息を吐き出して壁に背を預けている。
「助かった……。相変わらず、君は規格外だな」
「残業は体に毒だぞ。早く帰って飯を食え」
俺がモップを元の場所に戻すと、鬼瓦は痛む体を引きずりながら、動かなくなった合成獣の残骸へと近づいていった。
その表情が、みるみるうちに険しくなっていく。
「どうした。まだ生きてるのか?」
「いや……違う。これは、自然発生したモンスターじゃない」
鬼瓦は残骸の断面を指差した。血肉に混じって、金属のケーブルや人工的な繊維が覗いている。
「阿久津の残したデータにあった、『人工魔獣』の試作品だ。なぜこんなものが、街中の訓練施設に……」
鬼瓦が残骸の奥から、鈍く光る部品を引きずり出した。
それは、特級ダンジョンのコアに酷似した、複雑な幾何学模様が刻まれた人工パーツだった。
「誰かが意図的に、これを街に放ったというのか……?」
鬼瓦の呟きに、俺は首を掻いた。
誰がこんな悪趣味なオモチャを作ったのかは知らない。
だが、もしそいつが俺の平穏なスローライフを脅かし、温かい食事の時間を邪魔するつもりなら。
「まあいい。俺は帰って晩飯にする。今日の肉は、分厚く切って焼くんだ」
俺はポケットの定期券を握り直し、待たせていたポチの元へと歩き出した。
特級のコアだろうが人工魔獣だろうが、俺の日常には勝てない。ただ、少しだけ血の匂いが漂い始めた夜風が、面倒事の予感を運んできていた。




