↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/30

第14話

地下水路の冷たい空気から一転、地上の生ぬるい夜風が頬を撫でた。


俺は保冷バッグの持ち手を握り直し、足早に駅へと向かう。背後からは、スマホを掲げたキララが小走りでついてきていた。


「ちょっと師匠、待ってってば! 今日の配信、同接ヤバいことになってるんだけど!」


「配信は好きにしろ。だが、俺は帰る。肉の鮮度が落ちるからな」


立ち止まらずに答えると、キララは頬を膨らませた。


「えー、せっかくバズったのに塩対応すぎっしょ。まあいいや、今日はここまでにしておくね。お疲れ様でしたー!」


画面に向かって手を振るキララを背に、俺は改札を抜けた。

都心行きの通勤定期券をタッチする音が、静かな駅構内に響く。四十年間、血と泥にまみれた戦場を駆け回っていた俺にとって、この小さなプラスチックのカードは、平和な日常へのパスポートのようなものだ。


帰りの電車に揺られながら、俺は保冷バッグの中身に思いを馳せた。

特級変異種から切り出したあの肉。赤身と脂のバランスが、異世界でよく狩っていた魔王軍幹部の魔牛にそっくりだったのだ。明日の昼飯が楽しみでならない。


◆ーーーー◆


翌朝。

雲一つない青空が広がる休日の午前。俺はアパートの玄関を開け、足元で跳ねるポチの頭を軽く撫でた。キノコを食べて以来、たまに青白く発光するようになった不思議な生き物だが、散歩の催促をする姿はただの犬と変わらない。


「よし、行くか」


そう声をかけた直後、目の前に純白の戦闘服が立ち塞がった。


「おはようございます、剣崎さん」


氷のように冷たい美貌に、銀色の長髪。若くしてSランクに登り詰めた探索者、氷室玲奈だった。彼女は背筋をピンと伸ばし、真剣な眼差しで俺を見つめている。


「……何の用だ。今日は休みだぞ」


「存じております。本日は、あなたの強さの根底を学ばせていただきたく、休日に完全密着するために参上しました」


氷室が深く頭を下げる。その背後から、重いため息が聞こえた。


「おはようございます、剣崎さん……」


きっちりとしたスーツ姿の神崎が、胃のあたりを押さえながら現れた。目の下にはうっすらと隈ができている。


「氷室さんがどうしても剣崎さんの休日に同行すると仰るので、担当窓口として監視……いえ、監督責任を果たすために参りました」


「あんたも暇だな。まあ、勝手についてくる分には構わないが、飯は奢らないぞ」


俺は短く返し、ポチを連れて歩き出した。


近所の公園は、休日の家族連れで賑わっていた。

俺は日当たりのいいベンチを見つけると、どっかりと腰を下ろした。ポチが足元で丸くなり、心地よい微睡みが誘ってくる。


「……剣崎さん。それは、どのような鍛錬なのですか?」


氷室がベンチの横に立ち、真剣な声で問いかけてきた。彼女の手には、なぜか分厚いメモ帳とペンが握られている。


「鍛錬? ただの昼寝だが」


「ご謙遜を。完全に脱力しているように見えて、いかなる方向からの奇襲にも即座に対応できる重心の置き方。以前、あなたが鉄パイプを握った際の、あの素人丸出しに見せかけた究極の理合と同じものを感じます」


氷室のペンが、紙の上を猛烈な勢いで滑っていく。


「呼吸のペースが、周囲の風の揺らぎと完全に同調している……。これが、自然と一体化するということ……!」


「氷室さん、あれはどう見てもただ爆睡しているだけですよ」


神崎が呆れたような声を上げた。


「完全に毒されてますね。剣崎さんは、マニュアルや常識なんてものを気にするような人じゃありませんから」


俺は二人のやり取りを適当に聞き流し、目を閉じた。

命のやり取りなんてものは、仕事ではなくただの作業だ。休日にまでそんなものを持ち込む気はない。太陽の温もりを感じながら、俺は深い眠りに落ちていった。


◆ーーーー◆


昼過ぎ。

俺たちは駅前の定食屋の暖簾をくぐった。

馴染みの女将に保冷バッグを渡し、調理を頼む。しばらくして運ばれてきたのは、熱々の鉄板に乗った厚切りの焼肉定食だった。


「おお、いい匂いだ」


俺は割り箸を割り、タレの絡んだ肉を口に運んだ。

噛み締めた瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。


「やっぱり美味いな。あの世界の魔牛を思い出す味だ」


異世界での四十年間、飢えと寒さを凌ぐために狩った魔牛。あれは魔王軍の幹部だったらしいが、肉質だけは最高だった。現代の安全な食卓で、温かい白米と一緒に食べられる日が来るとは感無量だ。


「この無駄のない箸の運び……。食材への感謝と、命をいただくという覚悟が伝わってきます」


向かいの席で、氷室がまたメモを取っている。彼女の頼んだ焼き魚定食は、まだ手つかずのままだ。


「冷める前に食え。食事の時間は絶対に邪魔させない主義なんだ」


俺が言うと、氷室はハッとして姿勢を正した。


「申し訳ありません。いただきます」


神崎は自分のうどんをすすりながら、疲れた目で俺たちを見ていた。


「剣崎さん、昨日の地下水路の件ですが……」


「仕事の話なら後にしてくれ。今は肉に集中している」


「……わかりました。ですが、少しだけ耳に入れておいてください。昨夜、あなたが立ち去った後のエリアで、未知のエネルギー波形が観測されました。都心の特級指定ダンジョンとの関連も疑われています」


神崎の言葉に、俺は箸を止めずに頷いた。

特級だろうが何だろうが、俺の平穏な生活を脅かさない限りはどうでもいい。もし面倒なことになれば、また通勤電車に乗って片付けに行くだけだ。


◆ーーーー◆


夕暮れ時。

俺たちは再び公園に戻り、ポチの散歩の続きをしていた。

夕日に照らされたベンチで、神崎が手元のタブレットと携帯型魔力測定器を交互に見比べている。彼女の眉間に、深い皺が刻まれていた。


「……おかしいですね」


神崎が独り言のように呟いた。


「どうした、あんた。また胃が痛むのか」


俺が尋ねると、神崎は測定器の画面をこちらに向けた。


「これを見てください。現代の空間には、ダンジョンから漏れ出す微小な魔力ノイズが常に漂っているはずなんです。ですが……」


神崎の指が、画面のグラフをなぞる。


「剣崎さんの周囲数メートルの範囲だけ、魔力濃度の数値が異常なほど安定しています。ノイズが完全に消え、空間が浄化されているような状態です」


「測定器の故障じゃないのか」


俺は適当に返したが、神崎の表情は真剣だった。


「いいえ。先ほどから何度か再起動しましたが、結果は同じです。まるで、剣崎さんがそこに存在しているだけで、周囲の魔力場が強制的に平定されているような……」


神崎は息を呑み、俺の顔をまじまじと見つめた。


俺自身には、魔力を意図的に制御している感覚など全くない。ただ呼吸をし、歩き、飯を食っているだけだ。

だが、四十年間、異世界の極限状態で魔王の瘴気を浴び続けた俺の肉体は、無意識のうちに周囲の環境を自分に都合よく作り変えるようになっているのかもしれない。


「……剣崎さん。あなたは無自覚なまま、この街のダンジョンの暴走を抑え込んでいる可能性があります」


神崎の声が、微かに震えていた。


「もしそうだとしたら、あなたの力は、ダンジョンの根源とどう結びついているのでしょうか……」


「さあな。難しいことは役人に任せるよ」


俺はあくびを一つして、伸びをした。

世界のバランスだの、ダンジョンの根源だの、そんな大層なものを背負う気はない。俺が望むのは、温かい食事と安全な寝床が保証された、この快適なスローライフだけだ。


「帰るぞ。腹が減った」


俺が歩き出すと、ポチが嬉しそうに吠えて後を追う。

氷室が「その歩法、やはり只者ではない……!」と呟きながらメモを取り、神崎が「待ってください、まだ話は終わってませんよ!」と慌ててタブレットをしまう音が聞こえた。


夕闇が迫る街の空に、一番星が瞬き始めていた。

俺の力が世界に何をもたらしているのか。その答えを知る日は、そう遠くないのかもしれない。

だが今はただ、今夜の晩飯のおかずのことだけを考えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。