第13話
「ちょっと、待ってくださいよ!」
背後で神崎の悲鳴のような声が響く。
保冷バッグの重みを感じながら、俺は今日の晩飯のメニューに思いを馳せていた。
上質な脂を落とすために、網焼きにするのが一番だろう。
胃の奥から、じんわりとした熱が湧き上がってくるのを感じながら、俺は帰路を急いだ。
地下水路の湿った空気が、頬を撫でていく。
足元に広がる浅い水たまりを避けながら、俺は入り組んだルートを迷いなく進んでいた。
コンクリートの壁には苔がむし、微かに発光するキノコが不気味な影を落としている。
「剣崎! だからあれは単なるツボじゃなくて、未知の培養槽の可能性が……」
神崎がヒールを鳴らし、息を切らせて追いすがってくる。
彼女のスーツはすっかり泥に汚れ、手元のタブレットを握りしめる指先は白くなっていた。
「網焼きには塩コショウだな。いや、醤油ベースのタレも捨てがたい」
「聞いてますか!?」
抗議の声がコンクリートの壁に反響する。
「もしあれが、過去に放棄された違法な研究施設だとしたら、一刻も早く封鎖しなければなりません。中に何が封印されているか分からないんですよ!」
神崎の焦燥は理解できるが、俺の関心は別のところにあった。
保冷バッグの中の肉の鮮度が最優先だ。寄り道している暇はない。
向こうでの長い時間、温かい食事は常に手の届かない贅沢だった。
泥水をすすり、魔物の硬い肉を噛みちぎって飢えをしのいだ記憶が、今も胃の奥にこびりついている。
だからこそ、現代日本で手に入れた極上の食材を、万全の状態で味わう権利が俺にはある。
「報告なら庁に戻ってからいくらでもできるだろう。今は帰るのが先だ」
「あなたがその肉を焼く数十分の間に、取り返しのつかない事態が起きたらどうするんですか!」
「起きないさ。もし起きたら、その時は食後の運動がてら片付けてやる」
「そういう問題じゃありません! 行政の手続きというものが……」
神崎の小言は、ダンジョンの環境音に紛れていく。
俺は保冷バッグの持ち手を握り直し、最適な火加減について思考を巡らせた。
炭火がベストだが、換気扇の下でフライパンという手軽さも捨てがたい。
◆ーーーー◆
その頃、俺たちの進む先にある開けた空間では、異様な光景が広がっていた。
本来なら暗闇に包まれているはずの広場に、強力な作業灯がいくつも焚かれている。
迷彩服を着た屈強な男たちが、何やら巨大なカプセルを台車に載せ、慌ただしく立ち回っていた。
「慎重に運べ。それは阿久津が残した最高傑作だ。傷一つでもつければ、お前たちの命で購ってもらうぞ」
男たちの奥から、見覚えのあるスーツ姿の男が指示を飛ばしている。
黒田景虎。以前、温泉ダンジョンで利権を独占しようとしていた企業幹部だ。
蛇のような冷たい目つきで、カプセルの搬出作業を見守っている。
その広場の隅で、息を潜めている人影があった。
派手なピンク色の髪をした少女、星野キララだ。
彼女はスマホを両手で構え、カメラのレンズを黒田たちに向けていた。
ディスプレイには、リアルタイムで流れるコメントが滝のように表示されている。
『マジで秘密工場あったじゃん』
『あのスーツの奴、どっかで見たことあるな』
『もしかして、あの悪徳企業の幹部じゃね?』
『ヤバい取引現場なんじゃないの? 逃げた方がよくね?』
キララは興奮気味に小声で囁く。
「みんな、見てる? 立ち入り禁止エリアの都市伝説、ガチで発見しちゃいました! ウチ、世紀のスクープ撮っちゃってるかも!」
しかし、その声は静まり返った地下空間に思いのほか響いてしまった。
黒田の耳がピクリと動き、冷酷な視線が広場の隅へと向けられる。
「……ネズミが紛れ込んだようですね」
黒田の合図とともに、迷彩服の男たちが一斉にキララを取り囲んだ。
彼らの手には、高圧電流が流れるスタンバトンや、鋭いナイフが握られている。
「あ、あの、ウチはただの配信者で……立ち入り禁止エリアの都市伝説を探してただけで……」
スマホを抱きしめ、後ずさるキララ。
「阿久津の残した遺産、ここで嗅ぎつけられるとは不愉快極まりない。カメラを壊し、彼女も処理しなさい」
黒田は虫でも払うかのように、冷淡に言い放った。
男たちが無言でスタンバトンを構え、キララに迫る。
ジリジリと放電する音が、地下空間に不気味に響く。
絶体絶命のピンチ。キララが強く目を閉じた、その瞬間。
「通路は広く使え」
俺は小さくため息をつき、歩みを止めずに明るい空間へ足を踏み入れた。
「あ、師匠!」
キララが俺の姿を認めて叫んだ。
黒田が振り返り、俺の顔を見るなり薄ら笑いを凍りつかせる。
「貴様……なぜここにいる!」
顔を真っ赤にし、慇懃無礼な態度はどこへやら、激昂して叫んだ。
「なぜって、帰り道だからな」
俺は保冷バッグを肩に担ぎ直した。
「おのれ、私の完璧なビジネスをまたしても邪魔する気か! 今回は阿久津の残党を雇い入れ、この人工施設から危険な魔力資源を密輸する完璧な計画だったというのに!」
黒田が何か喚いているが、よく分からない。
どうやら、俺が先ほど見つけた変なツボを運び出そうとしているらしい。
「やっちまえ! そいつはただのガキではない、殺せ!」
黒田の号令で、迷彩服の男たちが一斉にこちらへ向き直った。
肉の鮮度が落ちる。さっさと片付けよう。
床に転がっていた錆びた鉄パイプを拾い上げる。
少し軽いが、贅沢は言えない。
先頭の男が振り下ろしてきた警棒を、鉄パイプの先で軽く弾いた。
そのまま手首を返し、男の顎を正確に打ち抜く。
鈍い音が響き、男が白目を剥いて崩れ落ちた。
「なっ……!?」
黒田が驚愕の声を上げる。
「囲め! 一斉にやれ!」
残りの男たちが、前後左右から同時に襲いかかってくる。
俺は保冷バッグを揺らさないように注意しながら、男たちの間をすり抜けた。
右から迫るナイフを半歩のズレで躱し、すれ違いざまに鳩尾へ一撃。
左からのスタンバトンは、鉄パイプの腹で受け流し、そのまま相手の膝裏を払う。
鉄パイプが空を切り、次々と男たちが崩れ落ちていく。
向こうでの長い時間で培った感覚からすれば、彼らの動きは止まっているに等しい。
単なる後片付けだ。
「ひ、ひぃっ!」
残った男たちが恐怖に顔を引きつらせ、逃げ出そうとする。
俺は鉄パイプを投擲し、彼らが使っていた搬送用の機材を破壊した。
ガシャアン、という轟音とともに台車がひしゃげ、火花が散る。
「ああっ! 私の機材が!」
黒田が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「他人の配信の邪魔をするな。それと、通路は広く使え」
俺は黒田を見下ろして言った。
「師匠、マジパない! 助かったー!」
キララがスマホを構えながら駆け寄ってくる。
「剣崎! 今のは一体……って、黒田景虎!?」
遅れて追いついてきた神崎が、倒れている男たちを見て目を丸くした。
「どうやら、密輸の現行犯みたいですね。すぐに庁へ連絡を……」
神崎がスマホを取り出す。
俺は保冷バッグの冷たさを確認した。
「俺は帰るぞ。肉が傷む」
「えっ、ちょっと待ってよ師匠! ウチも行く!」
キララが俺の背中を追ってくる。
神崎の呆れたような声が背後から聞こえたが、俺の頭の中はすでに焼肉のことでいっぱいだった。
俺たちが去った後の地下水路。
気絶した黒田の傍らで、ひしゃげた台車から転げ落ちたカプセルの一つが、微かに明滅を始めていた。
表面のパネルに、赤い文字が浮かび上がる。
低い駆動音が、暗い空間に響き渡った。




