第3話 神猫ミコトとモンスター肉の味噌焼き
「まずい。だが、命は助かった」
白猫が、そう言った。
俺は納屋の土間で皿を持ったまま、しばらく動けなかった。
聞き間違いかと思った。
いや、でも、今のは確かに声だった。スマホの通知でも、外の鳥でもない。目の前で、毛並みをぼさぼさにした白猫が、金色の目で俺を見上げている。
「……喋った?」
「喋ったとも。見ればわかろう」
「いや、見てもわからないんだよ。猫は普通、喋らない」
「ふん。普通の猫と一緒にするでない」
白猫は鼻を鳴らした。
偉そうだった。
ただし、前足はまだぷるぷる震えていて、尻尾も力なく床に落ちている。偉そうなわりに、かなり弱っていた。
「我が名はミコト。かつては山ひとつ、国ひとつに祀られた神獣である」
「神獣……」
「疑うな。失礼な顔をするでない」
「いや、疑うというか」
俺は、異世界でいろいろ見てきた。
喋る獣も、神を名乗る存在も、空を裂く竜も、祈りだけで雨を降らせる精霊も。
だから目の前の白猫が神獣だと言われても、絶対にありえないとは言えない。
ただ。
「神獣にしては、ずいぶん痩せてるな」
「うるさい。力を失っておるのだ」
ミコトはむっとしたように髭をぴんと立てた。
「流れ流れて、この国に落ちた。社も供物もなく、腹は減り、魔も薄い。挙げ句の果てに、雨に打たれて死にかけた」
「それで、うちの納屋に?」
「うむ。暖かそうな匂いがした」
匂いで来たのか。
まあ、傷だらけの猫を見捨てる理由にはならない。
俺はため息をついて、さっきミコトに食べさせた皿を見た。小さく切った肉を湯で戻し、味噌を薄めて焼いただけのものだ。弱った体にはそれがいいと思ったのだが、神獣様には不評だったらしい。
「まずかったか」
「まずい。肉の力を殺しておる。湯に逃げた旨味が泣いておったぞ」
「助けてもらった相手に言うことか、それ」
「命の礼は言った。味の評価は別である」
妙に筋が通っていた。
俺は思わず笑ってしまった。
こんなふうに誰かと話すのは、久しぶりだった。人間相手ではなく、喋る猫相手だけど。
「じゃあ、どうすればいい」
「焼け」
ミコトは即答した。
「奥にまだ肉があるであろう。あれを焼け。甘辛く、香ばしく、飯に合うようにせよ」
「注文が具体的だな」
「神獣は供物にうるさいのだ」
俺は白猫をタオルごと抱え、台所へ戻った。
作業台の上に革袋を置く。中には、異世界から持ち帰った角兎の燻製肉がまだ少し残っていた。保存用だから硬い。だが、魔力を含んだ肉は、扱い方さえ間違えなければ味が深く出る。
包丁を握ると、少しだけ呼吸が楽になった。
切る。
筋の入り方を見て、包丁の角度を寝かせる。厚すぎると固くなる。薄すぎると肉汁が逃げる。噛んだ瞬間に歯が沈んで、次に味噌と脂がじゅわっと出るくらい。
味噌を小鉢に取る。
祖母の手前味噌は、少し粒が残っていて香りが濃い。そこに酒、みりん、砂糖をほんの少し。すりおろした生姜を足して、醤油を垂らす。にんにくは迷ったが、今のミコトの体には強すぎるかもしれない。代わりに、庭の隅に伸びていた青ねぎを一本だけ洗って刻んだ。
箸で練ると、味噌だれがつやを帯びる。
甘い匂いと、発酵した深い香りが台所に広がった。
「ほう」
ミコトが鼻をひくひくさせた。
「少しは心得があるようだな」
「少しだけな」
肉に味噌だれを絡める。
揉み込みすぎない。魔力の残る肉は、雑に扱うと繊維が反発する。昔、何度も失敗した。火の神の前で焦がして、風の神に笑われたこともある。
……いや。
今は思い出さなくていい。
俺はフライパンを火にかけた。
油を少しだけ引く。熱が回ったところで肉を並べると、じゅ、と音がした。
味噌が焼ける匂いは、反則だと思う。
焦げる寸前の香ばしさ。甘辛い湯気。肉からにじんだ脂が味噌だれと混ざって、フライパンの上で泡立つ。白いご飯が欲しくなる匂いだ。古い家の台所が、一気に夕飯の場所になる。
裏返す。
焼き目は薄い飴色。端の味噌が少しだけ濃く焦げている。そこがうまい。
「まだか」
「まだ」
「もうよい匂いがしておる」
「中まで火を通す」
「神獣を待たせるとは」
「病み上がりの猫に生焼けを食わせるわけにはいかない」
「猫ではない」
「はいはい」
「はいは一度でよい」
口は達者だ。
でも、ミコトの目はもう皿を追っている。耳も前を向きっぱなしだ。神獣というより、完全に腹を空かせた猫だった。
仕上げに火を少し強める。
味噌だれを絡め直し、最後に白ごまを散らす。小皿に肉を二切れ。焦げた味噌の香りが逃げないうちに、ミコトの前へ置いた。
「熱いから、ゆっくり食べろ」
「わかっておる」
ミコトはそう言って、すぐに肉へ顔を近づけた。
鼻先で匂いを確かめる。
舌を少し出して、味噌だれを舐める。
その瞬間、金色の目が丸くなった。
「……む」
「どうした」
「むむ」
ミコトは前足で皿を押さえ、今度は肉に小さく噛みついた。
はふ、と息を漏らす。
熱いのだろう。けれど離さない。小さな牙で肉を裂き、味噌の絡んだ脂を舌で受け止める。尻尾の先が、ぴこんと立った。
「うまい」
ぽつりと、ミコトが言った。
「これは、うまいぞ」
次の一口は早かった。
味噌焼きの焦げた端をかじり、また肉に戻る。神獣らしい威厳はどこかへ行った。皿に顔を突っ込む勢いで、しかし一口ごとに大事そうに噛んでいる。
「香ばしい。甘い。だが甘すぎぬ。肉の奥に残った力が、味噌でほどけておる。生姜の熱がよい。腹の底に落ちる」
ミコトの体から、淡い光が漏れた。
白い毛の先に、月明かりみたいな輝きが宿る。傷の赤みが引き、濡れて固まっていた毛がふわりと立ち上がった。痩せた体はそのままだが、目に力が戻っていく。
古い台所の空気が、少し澄んだ気がした。
「……本当に神獣なんだな」
「だから言ったであろう」
ミコトは口の周りに味噌をつけたまま、胸を張った。
全然締まらなかった。
俺は布巾を濡らして、そっと拭いてやる。
「動くな」
「む。無礼な」
「味噌ついてる」
「ならば仕方ない」
おとなしく拭かれているあたり、やっぱり猫だと思う。
ミコトは皿をきれいに舐め終えると、俺をじっと見た。
「悠真、と言ったな」
「ああ」
「おぬし、ただの料理人ではないな」
手が止まった。
「肉に残る力を見て切った。火の入り方も、魔のほどけ方も知っておる。こちらの国の者にしては、妙すぎる」
「……昔、そういう場所にいた」
「異界か」
俺は答えなかった。
答えなくても、ミコトにはわかったらしい。
「勇者か?」
「違う」
それだけは、すぐ否定できた。
勇者ではない。
剣を持って魔王を倒した英雄でもない。みんなの前で称えられる人間でもない。
俺はただ、神殿の奥で火を見ていた。
祈りの日に、神々へ食事を出すために。怪我をした仲間に、食べられるものを作るために。誰かが明日も立てるように、鍋をかき混ぜていただけだ。
「料理番だよ」
「ただの料理番が、神獣の力を戻す飯を作れるものか」
ミコトは小さく喉を鳴らした。
「よい。今は聞かぬ。供物を作る手に、悪いものは宿らぬ」
「……買いかぶりだ」
「我が決める」
勝手な猫だ。
でも、その勝手さが不思議と嫌ではなかった。
俺は皿を片付けながら、台所の隅に置いた財布を見た。
中身は、軽い。
田舎の家は残っているが、生活費はかかる。畑だけで全部まかなえるわけでもない。探索者ライセンスは停止中。都会に戻って働く気には、まだなれない。
人の多い場所も、誰かに名前を呼ばれることも、少し怖い。
けれど飯を作ることならできる。
それなら。
「料理動画でも、上げてみるか」
「どうが?」
「スマホで撮った映像を、ネットに投稿するんだ。うまくいけば、少しは金になるかもしれない」
「ほう。我への供物を民草にも見せるのか」
「供物じゃなくて料理な」
「同じであろう。うまいものは祈りである」
妙なことを言う。
けれど、その言葉は少しだけ胸に残った。
俺はスマホを取り出した。画面はひび割れているが、撮影くらいはできる。台所の棚に湯飲みを重ね、そこへ立てかける。映るのは、フライパンと皿、それから端にちょっとだけ白い尻尾。
「おぬし、我を映すでないぞ。神獣の姿は安くない」
「はいはい。じゃあ尻尾しまって」
「はいは一度でよい」
ミコトが尻尾を丸める。
俺は残った肉をもう少しだけ切った。今度は自分用だ。味噌だれを絡め、フライパンに並べる。録画ボタンを押したつもりで、手元を撮る。
じゅう、と音が入った。
味噌が焼ける。
湯気が上がる。
「ええと……今日は、モンスター肉の味噌焼きです。臭みがある肉でも、味噌と生姜を使えば食べやすくなります」
「もっと堂々と喋れ。供物番」
「うるさいな。声入るだろ」
「我の助言は高いぞ」
小声で言い合いながら、肉を返す。
画面の端で、ミコトの耳がぴこぴこ動いていた。かわいい。いや、神獣らしい威厳はないが、たぶん見た人は喜ぶ。
皿に盛り、湯気の上がるところをスマホに近づけた。
焦げた味噌の色。脂のつや。白ごま。刻みねぎ。
悪くない。
「こんな感じか」
俺はスマホに手を伸ばした。
そこで、画面下に見慣れない文字が流れていることに気づいた。
『え、なにこれライブ?』
『モンスター肉って言った?』
『今の猫しゃべった?』
『味噌焼きうまそうすぎる』
『手際よくない?』
『猫! 白猫映して!』
『ダンジョン食材ガチ勢?』
『待って視聴者増えてる』
「……は?」
録画ではなかった。
画面の上に、赤い表示が出ている。
LIVE。
同時接続者は三人。
だったはずなのに、十七人、五十二人、百三人と数字が跳ねていく。
『猫の声したよな?』
『この人だれ?』
『モンスター肉を普通に料理してて草』
『飯テロすぎる』
『白いの映った!』
『神猫?』
『神猫ミコト様?』
ミコトが俺の足元で、得意げに胸を張った。
「ふむ。民草も、我の尊さに気づいたようだな」
「いや、これ……どうやって止めるんだ?」
俺が焦って画面を叩く間にも、コメントは滝みたいに流れ続けていた。




