第2話 田舎の空き家と傷だらけの白猫
道端で見つけた白い猫は、俺が手を伸ばした瞬間、最後の力を振り絞るように草むらの奥へ潜った。
「待て。そっちは――」
追いかけようとしたが、夜の山道だ。スマホのライトだけで踏み込めば、俺のほうが斜面から落ちかねない。
草が揺れる音はすぐに遠ざかった。
血の跡も、足跡も、暗闇に紛れて見失う。
あの痩せた背中と、泥に汚れた白い毛だけが、ずっと目に残った。
祖母の家に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
古い平屋は、記憶の中よりも小さく見えた。瓦屋根はところどころ色が抜け、雨戸は閉まりきらず、庭の柿の木は枝を好き放題に伸ばしている。玄関先の石畳には苔が生え、雑草が膝のあたりまで茂っていた。
ここに来るのは、祖母の葬式以来だ。
「……ただいま」
誰も返事をしない家に、そう言って鍵を開けた。
湿った木の匂いと、畳の古い匂いがした。都会のマンションの無機質な空気とは違う。静かで、少し寂しくて、でも責めてこない匂いだった。
電気をつけると、裸電球が一拍遅れて部屋を照らした。
座敷、台所、仏間。家具には白い布がかけられ、柱の傷も、祖母が使っていた湯飲みも、そのまま残っている。
荷物を下ろしただけで、どっと疲れが出た。
俺は追放された。
その事実は、ローカル線に揺られている間も、山道を歩いている間も、胸の奥で冷たい石みたいに沈んでいた。
怒りがないわけじゃない。
でも、怒るには疲れすぎていた。誰かにわかってほしいと叫ぶ気力も、もう残っていなかった。
だから、ここへ来た。
祖母が生きていた頃、夏休みにだけ通った田舎。コンビニまで車で二十分、夜になると虫の声しか聞こえない村。若者はほとんどおらず、昼間にすれ違うのは畑へ向かう年寄りばかり。
誰も俺に配信の数字を聞かない。
誰も俺を便利な荷物持ちみたいに見ない。
誰も、俺を裏切り者だと決めつけない。
そのことに、少しだけ息ができた。
台所の水道をひねると、しばらく錆の匂いが混じった水が出た。窓を開け、埃を払い、最低限寝られる場所だけ整える。
布団を敷くと、畳の上に横になった。
眠れると思った。
けれど、目を閉じても眠れなかった。
脳裏に浮かぶのは、ギルドの冷たい視線と、かつて仲間だった連中の顔だ。弁明も聞かずに切り捨てた声。俺が積み上げてきたものが、嘘ひとつで崩れていく感覚。
胸がざらつく。
俺は寝返りを打った。
そのときだった。
――みゃあ。
小さな声がした。
最初は風かと思った。古い家はよく鳴る。天井裏のきしみ、戸袋の揺れ、遠くの竹林がこすれる音。
けれど、もう一度。
――みゃ、あ。
弱々しい鳴き声。
俺は体を起こした。
「……猫?」
音は家の中ではない。縁側の向こう、庭の奥。祖母が農具を置いていた納屋のほうからだった。
懐中電灯を持って外に出ると、夜の空気が肌に冷たく触れた。都会の夜とは違う。光が少ないぶん、星がやけに近い。草むらでは虫が鳴き、どこか遠くで沢の音がしていた。
納屋の戸は半分外れかけていた。
軋む戸を押し開けると、埃と乾いた藁の匂いがした。中には古い鍬や鎌、割れた植木鉢、使われなくなった米袋が積まれている。
懐中電灯の光を動かす。
隅の木箱の陰で、白いものが動いた。
「いた……」
道端で見た猫だ。
白い毛は泥で汚れ、ところどころ赤黒く固まっていた。右前脚をかばうように丸まり、呼吸が浅い。額には、汚れに紛れて薄い紋様が浮かんでいた。
ただの模様じゃない。
異世界で何度も見た、魔力の流れに似ていた。
「大丈夫だ。何もしない」
ゆっくり近づくと、猫はかすかに唸った。威嚇というより、最後の力を振り絞っている感じだった。
俺は膝をつき、手のひらを見せる。
「怖いよな。わかる。俺も、今は人間がちょっと怖い」
猫が答えるはずもない。
でも、そう言うと、自分の声が少しだけ落ち着いた。
傷を見る。前脚の裂傷、腹の打撲、背中に浅い切り傷。普通の獣にやられたにしては、傷の入り方が変だ。刃物ではない。魔力を帯びた何かで削られた痕に近い。
この世界にも、ダンジョンはある。
異世界から帰ってきてから、そこだけは嫌というほど知った。各地に出現したダンジョン、モンスター、配信者、攻略ギルド。俺がいた場所とは違うが、魔力というものは、やはり似た顔をしている。
「待ってろ。すぐ戻る」
俺は家へ駆け戻った。
救急箱を探し、清潔なタオルを取り、台所に残っていた古い鍋で湯を沸かす。さらに、自分の荷物の底から小さな革袋を取り出した。
異世界から持ち帰った、わずかな素材。
もう使うことはないと思っていた。使いたくもなかった。あっちの記憶は、俺にとって勝利の証ではなく、帰れなかった日々の重さだったから。
それでも、助けられるなら話は別だ。
納屋に戻り、湯で温めたタオルで傷口の汚れをそっと拭う。猫は何度か身をよじったが、逃げる力はないらしい。
「しみるぞ。少しだけ我慢してくれ」
指先に魔力を集める。
派手な治癒魔法じゃない。俺が異世界で覚えたのは、戦場の真ん中で仲間を立たせるための応急処置と、食材の毒を抜き、肉を柔らかくするための魔力操作だ。
傷口の熱を逃がし、血を止め、裂けた皮膚がこれ以上開かないように整える。
淡い光が猫の体を包んだ。
猫の呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
「よし……これで今夜は越せる」
俺は息を吐いた。
問題は体力だ。傷は塞げても、腹が減っていれば回復しない。
家にあった古い皿に水を入れ、猫の前に置く。少し匂いを嗅いだだけで、顔を背けられた。
戸棚から未開封のキャットフードを見つけた。祖母が近所の野良にやっていたものだろう。賞味期限は少し怪しかったが、まだ食べられなくはない。皿に出して差し出す。
猫は無反応だった。
「好き嫌いしてる場合じゃないぞ」
言いながら、俺は首をかしげた。
普通の猫なら、弱っていても匂いに反応くらいはする。だがこの猫は、まるで食べ物と認識していないみたいだった。
額の紋様が、かすかに光る。
俺は革袋を見た。
「……まさかな」
中から取り出したのは、拳ほどの干し肉だった。
低級モンスター、角兎の肉。異世界ではありふれた食材で、味は淡白だが、魔力を少し含んでいる。長期保存用に燻製にしてあったものを、なぜか捨てられずに持ち帰っていた。
猫の耳が、ぴくりと動いた。
「これなら食うのか」
俺は台所へ行き、小さなフライパンを火にかけた。
干し肉を薄く切り、水で軽く戻す。そこに、台所の隅に残っていた味噌を少し溶いた。祖母の手前味噌だ。表面は乾いていたが、中はまだ香りが生きている。
じゅう、と音がした。
肉の脂は少ない。けれど、熱が入ると燻製の香りがふわりと立ち、味噌の焦げる匂いが台所に広がった。香ばしくて、少し甘い。疲れ切った胃が、勝手に反応する。
「猫に味噌は濃いか……薄めるか」
湯を足し、焦がさないように弱火で焼く。魔力を流して繊維をほどき、噛まなくても食べられるくらい柔らかくする。異世界で、硬い魔獣肉をどうにか食えるようにしていた癖が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
皿に少しだけ盛って、冷ます。
納屋へ戻ると、猫はもう顔を上げていた。
皿を置いた瞬間、鼻先が動く。警戒しながらも、目は肉から離れない。
「熱くない。食べていい」
猫はそっと舌を出した。
一口。
それから、もう一口。
弱っているくせに、食べ方は妙に上品だった。がつがつはしない。確かめるように噛み、飲み込み、また皿へ顔を寄せる。
俺はその様子を、ただ座って見ていた。
誰かが飯を食べている。
それだけのことなのに、胸の奥の冷たい石が、少しだけ温かくなる気がした。
「うまいか?」
猫は答えない。
当たり前だ。
けれど、皿はすぐ空になった。
俺は追加を持ってきて、今度はほんの少しだけ自分の分も焼いた。味噌の香ばしさがついた角兎の肉を口に入れると、懐かしい味がした。異世界の野営地で食べた、硬くて、煙たくて、それでも生きるために必要だった味。
でも今は、戦うためじゃない。
誰かを責めるためでもない。
傷ついた猫と、古い家の納屋で、夜を越すための飯だ。
それで十分だった。
食べ終えた猫は、タオルの上に顎を乗せた。呼吸は先ほどより落ち着いている。額の薄い紋様も、月明かりの下で静かに光っていた。
「明日、ちゃんと病院を探す。ここからだと遠いけど、タクシーでも何でも呼ぶから」
俺は皿を片づけようと立ち上がった。
そのとき、背後で小さな声がした。
「……まずい」
俺は動きを止めた。
納屋には俺と猫しかいない。
ゆっくり振り返る。
白猫が、金色の目で俺を見上げていた。
そして、はっきりと人間の言葉で言った。
「まずい。だが、命は助かった」




