第29話 水守りの供物と白い前足
正式営業の前に、祠へ供物を届けることになった。
水源危機のあと、佐伯さんと村長と話し合い、月に一度の水守りの日を決めた。ダンジョン庁の記録上は「水脈安定化確認日」。村の人たちは、昔の呼び方に戻して「水守り」と呼んだ。
最初の水守りは、食堂の開店前日。
俺は夜明け前から米を炊いた。
炊き上がった釜の蓋を開けると、白い湯気が一気に立つ。米の甘い匂いが、まだ薄暗い納屋に広がった。
供物は、焼きおにぎり。
米、塩、味噌。
それから、沢の近くで摘んだ白い花。
前と同じだが、今日は黒水を引くためではない。水が澄んだことを忘れないための飯だ。
手のひらに米を乗せ、軽く握る。
強く握りすぎると固くなる。
弱すぎると崩れる。
ちょうどいい力で形を作り、粗塩を振り、村の味噌を薄く塗る。
炭火で炙ると、表面が乾き、やがて香ばしい焦げ目がついた。
じり、と味噌が焼ける音。
米の甘さと、味噌の塩気と、焦げの苦み。
祠へ持っていくには、これが一番いい気がした。
「悠真」
ミコトが作業台の上に座っている。
「我の分は」
「別にある」
「同じ形か」
「同じ形」
「大きさは」
「少し小さい」
「なぜ」
「猫だから」
「神猫である」
「じゃあ神猫用の適量」
ミコトは納得していない顔をしたが、焼きおにぎりの匂いには勝てないらしく、黙って尻尾を揺らした。
今回、祠へ行くのは少人数だ。
俺、ミコト、佐伯さん、村長。
莉子さんは食堂の開店準備と情報管理のため村に残る。蒼太は行きたがったが、危険区域なので今回は留守番だ。
「ミコトに渡して」
蒼太は小さな煮干しの袋を差し出した。
「供物じゃなくて?」
「ミコト用」
「にゃ」
ミコトが満足そうに鳴く。
佐伯さんはそのやり取りを端末に記録していた。
「伴侶個体への補助供物」
「煮干しです」
「記録上はそう書きます」
廃坑入口は、以前とは違っていた。
封鎖杭が整い、立入禁止の札が新しくなり、調査用の細い通路だけが残されている。黒水の匂いはほとんどない。かわりに、湿った岩と冷たい水の匂いがした。
中層の黒水池も、今は静かだった。
水は薄い青みを帯び、底の鉱石がかすかに光っている。
あの黒水鉱母は、池の奥で眠っているらしい。姿は見えない。ただ、時々水面に小さな波が立つ。
祠は、石段の先にあった。
古びた小さな祠。
黒水で汚れていた石は、調査班が丁寧に洗った。完全に新しくなったわけではない。欠けた角も、古い苔も残っている。
それでいいと思った。
過去を全部削り取る必要はない。
汚れを落とし、手を入れ、また使えるようにする。
鍋と同じだ。
俺は祠の前に焼きおにぎりを置いた。
白い花を添える。
村長が手を合わせた。
佐伯さんも少し迷ってから、端末を下ろし、軽く頭を下げた。
ミコトは祠の前へ進む。
いつもの猫の足取りではなかった。
音がしない。
白い毛並みの奥から、うっすら金色の光が滲む。
小さな体の背後に、古い鳥居の影が見えた。
「ミコト」
俺が呼ぶと、ミコトは振り返らずに言った。
「名は多くあった」
声が、坑道に静かに響く。
「水の御子。飯の守り。白い供物取り。人の家に居つく厄介な猫」
「最後のは悪口では」
「事実である」
ミコトは祠を見上げた。
「長く忘れられた。忘れた者を責めても水は澄まぬ。だから、また始めればよい」
祠の奥で、鈴の音がした。
小さく、澄んだ音。
黒水鉱母が眠る池の方から、淡い波が寄せてきた。
焼きおにぎりの湯気が、その波に触れる。
湯気は消えず、細く上へ伸びた。
水面に、琥珀色の目が一瞬だけ映る。
怒りはない。
ただ、静かにこちらを見ていた。
ミコトが前足を上げる。
白い前足が、祠の石に軽く触れた。
金色の光が、石の表面を一筋走る。
それだけだった。
大きな奇跡は起きない。
山が鳴ることも、光が溢れることもない。
ただ、坑道の奥を流れる水音が、少しだけ澄んだ。
村長が、深く頭を下げた。
「また来ます」
その一言に、俺も続いた。
「また飯を持ってきます」
ミコトが振り返る。
「我の分も忘れるな」
「忘れない」
「大きさも」
「神猫用の適量で」
「むう」
佐伯さんが小さく咳払いをした。
笑いをこらえているように見えた。
帰り道、佐伯さんが俺に言った。
「神代氏。ミコトの記録についてですが」
「はい」
「本庁は、より詳細な調査を希望しています」
ミコトの耳がぴくりと動く。
「ただし、現時点では移送や隔離の必要なし、と私から報告します」
「いいんですか」
「ミコトは土地と食事と人の生活に結びついている個体です。切り離す方が危険です」
佐伯さんは真面目な顔で続けた。
「それに、本人が拒否するでしょう」
「当然である」
ミコトは胸を張った。
「我の席がある」
「そういう理由も報告に含めますか」
「含めなくていいです」
「補足には入るかもしれません」
佐伯さんなら本当に書きそうだった。
村へ戻ると、納屋食堂の前に人が集まっていた。
莉子さんが開店前の最終確認をしている。
予約台帳。
来店時の注意。
撮影禁止区域。
村の住所を拡散しないお願い。
祠供物の日は営業を短縮すること。
そして、ミコト様席に触らないこと。
「最後、目立ちすぎませんか」
俺が言うと、莉子さんは首を振った。
「触る人が出ます」
「出るか」
「出ます」
断言だった。
台所では、明日の仕込みが始まっている。
根菜汁の出汁。
牙猪すじ煮の下茹で。
氷結トラウトの塩締め。
焼きおにぎり用の味噌。
祠から戻った俺は、すぐに手を洗い、出汁の鍋を見た。
湯気に、山の冷たい匂いが少し混ざっている。
水守りの帰り道についた匂いだ。
それは不快ではなかった。
この食堂が、ただの店ではなくなるのだと感じた。
飯を出す。
村の人を迎える。
外から来る人に、村の水と食材を味わってもらう。
祠へ供物を持っていく。
ミコトの席を守る。
全部、つながっている。
夕方、莉子さんが最終告知を投稿した。
『田舎のモンスター食堂、明日から予約制で正式営業を始めます。村の生活と水源保全を最優先に、少しずつ開けていきます』
写真は看板。
その下に、白い前足が少しだけ写っている。
コメント欄には、たくさんの祝福が流れた。
俺はそれを少しだけ見て、スマホを置いた。
明日は開店だ。
画面を見るより、米を研がなければならない。
ミコトが作業台から言う。
「悠真」
「何だ」
「明日は、我の席に水も置け」
「はいはい」
「あと魚」
「はいはい」
「あと、焼きおにぎり」
「食べすぎだ」
「開店祝いである」
俺は笑いながら、釜に米を入れた。
水を注ぐ。
透明な水が、米の間を満たしていく。
その音が、やけに心地よかった。




