第30話 田舎のモンスター食堂、本日開店
開店の日、俺は夜明け前に目を覚ました。
まだ村は暗い。
山の端だけが薄く白み始めていて、納屋の外には冷たい空気が残っている。井戸の水で手を洗うと、指先が少ししびれた。
その冷たさが、気持ちよかった。
水がある。
米がある。
火を起こせる。
それだけで、朝は始められる。
かまどに火を入れる。
細い薪がぱち、と鳴り、やがて炭に火が移った。釜の中では、研いだ米が水を吸って白く膨らんでいる。
今日の献立は、決めていた。
沢水の根菜汁。
氷結トラウトの炭火焼き。
牙猪すじの味噌煮込み。
焼きおにぎり。
それから、ミコト用の湯豆腐と干し魚。
特別すぎない。
でも、この村の今を全部入れた献立だ。
釜の蓋の隙間から、白い湯気が上がる。
米の甘い匂いが、納屋の中に広がった。
「悠真」
ミコトが窓際の座布団から顔を上げる。
昨日、自分の席を確認すると言って、そのまま寝たらしい。
「朝である」
「見ればわかる」
「飯である」
「それもわかる」
「我の干し魚は」
「あとで焼く」
ミコトは満足げに目を細めた。
外から足音が近づく。
莉子さんだった。
開店前なのに、もうノートパソコンとカメラと予約台帳を抱えている。表情は少し緊張していたが、目は眠そうではない。
「おはようございます」
「早いですね」
「悠真さんが何かを映しちゃう前に来ました」
「信用がない」
「積み重ねです」
反論できなかった。
莉子さんは入口の札を確認する。
『本日予約のみ』
『村内撮影禁止区域あり』
『ミコト様席には触らない』
最後の札だけ、字が少し大きい。
「やっぱり目立ちますね」
「重要なので」
そこへ蒼太が走ってきた。
手には、小さな花瓶を持っている。沢の近くに咲いていた白い花だ。
「悠真兄ちゃん、これ、ミコトの席に」
「いいな」
「水守りの花だから」
蒼太は少し得意げだった。
ミコトは座布団の上で胸を張る。
「よい心がけである」
「ミコト、今日もしゃべった」
「にゃ」
「遅いよ」
蒼太が笑う。
その笑い声が、納屋の朝に混ざった。
開店前の短い配信は、料理の手元だけにした。
莉子さんが画角を決め、俺は言われた通りに動く。
釜の蓋を開ける。
白い湯気。
炊き立ての米。
根菜汁の鍋。
炭火の上で焼ける氷結トラウト。
顔は映さない。
村の景色も映さない。
ただ、飯の音と湯気だけ。
コメント欄は、少し遅れて流れ始めた。
『開店おめでとう』
『湯気だけで泣ける』
『村に行きたいけどルール守る』
『予約制ありがとう』
『ミコト様席、触らない、覚えた』
『追放からここまで来たのか』
最後のコメントを見て、俺は少しだけ手を止めた。
追放。
その言葉は、まだ消えたわけではない。
でも、今の俺の手元には、炊き立ての米がある。
鍋がある。
魚がある。
隣には莉子さんがいて、窓際にはミコトがいて、外では村の人たちが開店を待っている。
その全部の方が、もうずっと大きかった。
「悠真さん、魚」
莉子さんが小声で言う。
「あ」
氷結トラウトの皮が、ちょうど焼けていた。
俺は慌てて返す。
ぱり、といい音がした。
コメント欄が一気に飯の話へ戻る。
『今の音やばい』
『皮!』
『米炊く』
『追放とかいいから魚見せて』
その流れに、少し笑った。
そうだ。
飯が焦げる。
過去に浸るのは、あとでいい。
配信を終えると、正式開店の時間になった。
最初の客は、村の人たちだった。
村長、蒼太と母親、畑の柴田さん夫婦、診療所の先生。
それから、カフェ・こもれびを午前だけ閉めて来てくれた莉子さんの常連たち。
次に、佐伯さんと調査班。
佐伯さんは今日も入口近くの席を選び、避難動線を確認している。
「今日は客です」
「客でも確認します」
「食べる前に仕事しないでください」
「では食べながら」
真面目だった。
少し遅れて、白鳥玲奈が来た。
今日は一人だった。
彼女は入口で深く頭を下げ、予約名を莉子さんに伝え、決められた席へ座った。周囲の村人たちは、まだ少し距離を置いている。
それでいい。
急に全部が柔らかくなる必要はない。
玲奈は出された根菜汁を両手で包み、静かに湯気を吸った。
その顔は、泣きそうではあったが、前よりもまっすぐだった。
黒瀬蓮は来なかった。
代わりに、開店前に一通の短い連絡が佐伯さん経由で届いた。
『村への直接訪問は控えます。処分期間中、再研修と地域支援作業に従事します。神代に伝える必要はありません』
佐伯さんは、それを俺に見せるか迷ったらしい。
結局、要点だけ伝えてくれた。
俺は「そうですか」と答えた。
それ以上の言葉は、今はなかった。
黒瀬がどう生き直すかは、黒瀬の仕事だ。
俺が鍋を止めて見張ることではない。
その頃、都内の研修施設の食堂で、黒瀬は端末を伏せていた。
画面には、さっきまでこの店の配信が映っていた。
湯気の向こうで飯をよそう神代悠真は、もう追放された男の顔をしていなかった。誰かに勝った顔でもない。ただ、次の椀へ何を入れるかを見ている顔だった。
黒瀬はコメント欄を開き、何かを書こうとして、やめた。
厨房の呼び出しベルが鳴る。
今日の研修で彼に割り当てられた仕事は、食器の返却口だった。
黒瀬は端末をしまい、立ち上がった。
料理を出す。
まず根菜汁。
戻った水の味がする、薄い味噌汁。
次に氷結トラウト。
皮はぱりぱりで、身はふっくらしている。箸で割ると、白い湯気と澄んだ脂が立った。
牙猪すじ煮は、白い飯に乗せる。
味噌の甘辛さが米に染みる。
焼きおにぎりは、最後に出す。
外側は香ばしく、中はふっくら。歯を立てると、焦げた味噌の香りが鼻に抜ける。
店の中から、いくつもの小さな声が上がった。
「うまい」
「この汁、昨日の水で?」
「水がいいと、味噌が違うな」
「魚、皮がすごい」
「ご飯足りる?」
足りる。
そのつもりで炊いた。
ミコトは窓際の座布団で、干し魚を前足で押さえている。
客の視線を集めるたび、少し偉そうに胸を張る。
ただし、干し魚を食べる時だけは普通の猫だった。
がじがじと真剣に噛んでいる。
「ミコト様、かわいい」
誰かが小声で言った。
「威厳である」
「しゃべった」
「にゃ」
店内が笑いに包まれた。
昼過ぎ、最後の予約客が帰ったあと、俺はようやく椅子に座った。
足が重い。
手も少し震えている。
でも、嫌な疲れではなかった。
莉子さんが売上と予約台帳を確認している。
「初日としては、回りました」
「問題は」
「ミコト様席を触ろうとした人が一名。村長さんが止めました」
「本当に出た」
「だから言ったでしょう」
佐伯さんは、食後の茶を飲みながら端末を閉じた。
「営業体制、暫定的に良好。食材処理、問題なし。供物管理との接続も、現状では妥当」
「報告書ですか」
「半分は」
「残り半分は」
「客としての感想です。おいしかったです」
その一言は、記録より少しだけ柔らかかった。
玲奈は帰り際、俺に短く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
「また、予約してもいいですか」
俺は少し考えた。
店としてなら、答えは決まっている。
「はい。ルールを守ってもらえれば」
玲奈の目が少し潤んだ。
でも、彼女は泣かなかった。
「守ります」
そう言って、店を出ていった。
夕方、莉子さんが開店報告の配信をした。
やはり、料理だけ。
空になった鍋。
洗われた椀。
窓際のミコト席。
看板。
コメント欄には、祝福が流れ続けた。
『開店おめでとう』
『ずっと見てきてよかった』
『飯で救われる話だった』
『黒瀬の処分より、この店が開いたことの方が大事』
『ミコト様席、守られてる』
『いつか予約取る。村に迷惑かけない』
莉子さんは、荒れそうなコメントを静かに消していく。
俺はその横で、明日の仕込み表を書いていた。
根菜の残り。
牙猪すじの追加。
祠用の米。
ミコト用の干し魚。
「悠真さん」
莉子さんが言った。
「一言だけ、配信で話しますか」
俺は少し迷った。
顔は映さない。
でも、声だけなら。
莉子さんがマイクを向ける。
コメント欄の流れが少しゆっくりになった。
俺は、鍋の前に立った。
「今日は、ありがとうございました」
声が少し硬い。
ミコトが足元で尻尾を揺らしている。
「この店は、俺一人で作ったものではありません。村の人たちと、莉子さんと、佐伯さんたちと、見守ってくれた人たちと、ミコトがいて、ようやく開けられました」
そこで一度、息を吸う。
味噌と炭と米の匂いがした。
「俺は、昔のことを全部忘れたわけではありません。でも、今はここで飯を作っています。誰かが腹を空かせて来たら、温かいものを出せるようにしておきます」
コメント欄が流れる。
読めないくらい速い。
俺は最後に言った。
「田舎のモンスター食堂を、よろしくお願いします」
莉子さんが配信を締めた。
店内に、静かな余韻が残る。
ミコトが作業台へ飛び乗った。
「よい挨拶であった」
「それはどうも」
「ただし、我への感謝が少ない」
「入れただろ」
「もっと」
「次回な」
「約束である」
俺は笑った。
夜になり、客のいない食堂で、最後の片づけをする。
椀を洗い、鍋を拭き、かまどの灰を整える。
窓の外では、村の灯りがぽつぽつと点いていた。
山の方から、水の音がする。
澄んだ音だった。
俺は、ふと一話目の日を思い出した。
ギルド支部の会議室。
冷たい机。
追放通知。
雨の中、祖母の家へたどり着いたこと。
納屋で見つけた、傷ついた白い猫。
あの日の俺は、もう誰にも必要とされていないと思っていた。
でも、今は違う。
俺を必要としてくれる人がいる、というだけではない。
俺にも、守りたい場所がある。
明日も火を起こす理由がある。
ミコトが窓際の座布団で丸くなっている。
「悠真」
「何だ」
「明日の朝飯は」
「もう考えてる」
「よい」
ミコトは満足そうに目を閉じた。
俺はかまどの火を落とし、店の看板を見た。
『田舎のモンスター食堂』
追放された男の話は、たぶんここで終わりだ。
ここから先は、この村で飯を作る男の話になる。
水は澄み、鍋は空になり、明日の米はもう研いである。
それだけで、十分だった。




