第26話 食堂準備と神猫記録
水が戻った翌朝、村は静かに忙しかった。
共同水槽の前には、ダンジョン庁の検査員が二人立っている。透明な瓶に水を取り、測定器へ通し、数値を記録する。その横で村長が腕を組み、険しい顔で結果を待っていた。
畑の用水路では、村の人たちが灰袋を引き上げている。
重くなった袋は、黒い膜を吸って湿っていた。昨日までなら、その匂いだけで胃が重くなるところだが、今日は少し違う。苦みは残っている。でも、沢の水そのものからは、冷たい石と草の匂いが戻り始めていた。
「飲用は、まだ慎重に」
佐伯さんが言った。
「数値は基準内に戻りつつありますが、継続検査が必要です。井戸と用水路も、最低七日は毎日測定します」
「わかりました」
村長が頷く。
その声には疲れがあった。
でも、昨日のような絶望はない。
俺は集会所の台所で、朝の味噌汁を作っていた。
具は、豆腐と葱。
いつもよりずっと普通の味噌汁だ。魔素抜きでも、黒水対策でも、避難者用の粥でもない。戻ってきた水で、戻ってきた朝に作る味噌汁。
鍋から白い湯気が上がる。
味噌の香りが、台所にゆっくり広がった。
「普通の匂いだ」
村のおばあさんが呟いた。
その一言で、胸の奥が少し詰まった。
普通。
それを守るために、昨日は村中が動いた。
普通の味噌汁が、今日は少し特別だった。
「悠真」
作業台の上で、ミコトが椀を見ている。
「我の豆腐が少ない」
「味噌汁は猫に塩が強い」
「神猫である」
「神猫でも腎臓は大事だ」
「むう」
ミコトは不満そうに尻尾を揺らす。
昨日あれだけ力を使ったのに、食べ物への文句は戻っていた。
それだけで、少し安心した。
ミコト用には、味噌を入れる前の湯豆腐を小皿に取ってある。鰹節を少しだけ乗せると、ミコトの耳がぴくりと動いた。
「そちらでよい」
「よい、じゃなくてありがとうだろ」
「礼は食後に考える」
考えるだけで終わりそうだった。
朝食が終わる頃、佐伯さんが集会所へ戻ってきた。
手には端末と、薄い紙の資料。
「神代氏。少し時間を」
「はい」
台所の片づけを莉子さんに任せ、俺は集会所の端の長机へ向かった。
佐伯さんは、まず村の水源管理計画を広げた。
「旧廃坑は、正式に管理対象ダンジョンとして封鎖されます。ただし、完全封鎖だけでは不十分です。水守りの祠、黒水鉱母、村の水脈が連動しているため、定期的な供物と測定が必要になります」
「供物」
「記録上は、魔素安定化用の伝統的維持処理です」
「また便利な言い方ですね」
「必要です」
佐伯さんは真面目に言った。
「祠への供物は、村の管理行為として認めます。ただし、危険区域に入るため、当面はダンジョン庁職員または認定協力者の同行が必要です」
「認定協力者」
嫌な予感がした。
佐伯さんは資料を一枚差し出す。
「神代悠真氏に、地域ダンジョン災害対応協力者としての登録を打診します。あなたの技能は、現行分類では料理人でも探索者でも解体士でも不足です。暫定的に、素材処理・魔素浄化・食事支援の複合技能者として扱います」
「長いですね」
「長いです」
「料理人では」
「不正確です」
「もう定型文ですね」
佐伯さんは眼鏡を押し上げた。
「登録すれば、村の食堂を運営する上で必要な許可を取りやすくなります。モンスター食材の処理、供物作成、災害時の炊き出し、配信時の安全情報。すべて制度の外で行うより、内側に置いた方が守れます」
守れる。
その言葉で、俺は資料を見直した。
俺が制度に入ることは、正直あまり気が進まない。
ギルドの会議室で、書類と証言に潰されかけた記憶がある。
だが、制度が全部敵というわけではない。
佐伯さんのような人もいる。
莉子さんが言ったように、守るための枠もある。
「考えます」
「はい。即答は不要です」
「珍しいですね」
「昨日の今日で即答された方が困ります」
もっともだった。
その時、ミコトが机の上に飛び乗った。
小皿の湯豆腐を食べ終え、口元を前足で拭いている。
佐伯さんの端末が、ミコトの接近を感知して画面を点けた。
そこには、昨夜の照合結果が残っていた。
『神獣記録照合:該当あり』
ミコトが画面を見る。
そして、すぐに目をそらした。
「ミコト」
「知らぬ」
「まだ何も聞いてない」
「知らぬものは知らぬ」
明らかに知っている反応だった。
佐伯さんは、端末をこちらへ向ける。
「古い神獣記録です。山間部の水守り、祠、供物、白い猫型の伴侶個体。名称は地域により異なりますが、共通する記述があります」
「どんな」
「水と食事を結び、供物を通じて土地の澱みを鎮める。人の家に居着き、よく食べる」
「最後だけ普通の猫では」
「記録にも、食欲に関する記述が多いです」
ミコトが尻尾を膨らませた。
「古い者どもは余計なことを書きすぎである」
佐伯さんの目が光る。
「つまり、該当する自覚が」
「にゃ」
「今さら鳴いても遅いです」
莉子さんが台所からこちらを見て、吹き出しそうな顔をした。
俺はミコトを見た。
怪我をした白猫だと思って拾った。
しゃべるようになり、結界を張り、村の水を守った。
普通の猫でないことは、とっくにわかっている。
でも、俺の中ではミコトはミコトだった。
大きな名前がついても、古い記録に載っていても、台所で豆腐の量に文句を言う白い猫だ。
「ミコト」
「何だ」
「祠の供物、これからも見るのか」
ミコトは少しだけ黙った。
金色の目が、窓の向こうの山を見る。
「忘れぬなら、荒れぬ。飯を出し、水を見て、手を合わせる。それだけでよい」
「それだけ、か」
「それだけを、人はよく忘れる」
その言葉は、妙に重かった。
食べること。
水を飲むこと。
誰かが腹を空かせていないか見ること。
危ないものをそのままにしないこと。
俺がやってきたことも、たぶんその延長だ。
昼前、納屋へ戻ると、村の人たちが集まっていた。
祖母の家の裏手にある納屋。
今まで俺が勝手に使っていた台所。
そこを、正式な食堂にしようという話が、もう村の中で走り始めていた。
「掃除は任せろ」
「客が来るなら駐車場も考えないとな」
「ミコト様の席は窓際かね」
「にゃ」
ミコトが当然のように鳴く。
莉子さんはノートを開き、必要なことを書き出している。
「営業日、予約制、村の場所をむやみに出さない導線、配信ルール、食材の許可、祠供物の日程。あと、ミコト様席」
「最後、必要ですか」
「揉める前に決めます」
真剣だった。
俺は納屋の戸を開けた。
中には、使い込んだ作業台と、直したばかりのかまど。
炭の匂い、味噌の匂い、干した山菜の匂い。
ここから始まった。
追放されて、誰にも会いたくなくて、ただ静かに飯を作ろうと思った場所。
それが今、村の人たちの手で少しずつ食堂になろうとしている。
「悠真さん」
莉子さんが聞く。
「店名、どうします?」
「田舎のモンスター食堂、でいいんじゃないですか」
「そのまま?」
「そのまま」
画面の向こうで誰かが呼び始めた名前。
でも今は、俺たちの場所の名前にしてもいい気がした。
ミコトが作業台に飛び乗る。
「我の名も入れよ」
「長くなる」
「では看板に我を描け」
「それはいいかも」
莉子さんが即答した。
ミコトは満足げに胸を張る。
午後の光が、納屋の床に差し込んでいた。
まだ片づけることは山ほどある。
許可も、検査も、祠の管理も、黒瀬たちの処分も、何も終わっていない。
それでも、納屋の中に新しい木の匂いが混ざり始めた。
食堂の準備が、始まったのだ。




