第25話 村ぜんぶで灰汁を抜く
地上に戻った俺は、最初に水を飲んだ。
莉子さんに見張られながら。
「一口じゃなくて、ちゃんと」
「飲んでます」
「椀を置かない」
「はい」
集会所の台所で、俺は白湯を飲み、残っていた雑炊を食べた。
味はほとんど覚えていない。
ただ、米のとろみが喉を通り、胃に落ちるたびに、自分の体がまだこちら側に戻ってくるのがわかった。
ミコトは俺の膝の上で丸くなっている。
いつもなら台所を巡回して食べ物を要求するのに、今は動かない。白い毛並みの奥に、うっすら金色の光が残っていた。
「ミコト様、煮干し食べますか」
蒼太がそっと差し出す。
ミコトは片目だけ開けた。
「あとで食べる」
「しゃべった」
「にゃ」
ごまかす気力も少ないらしい。
蒼太は泣きそうな顔で笑い、煮干しの袋をミコトのそばに置いた。
佐伯さんは、地図と測定値を広げていた。
俺は椀を置き、説明する。
「黒水鉱母を倒すと、水脈に黒水が流れます。祠の前で吐かせることはできました。でも深層だけでは受けきれない」
「受け皿が必要」
「はい。中層の黒水池、浅層の分岐、村側の用水路。この三か所に灰と炭と塩の受けを作ります。祠前の供物で黒水を引き、流れを三段階で受ける」
佐伯さんがすぐに図を描く。
「段階処理」
「料理で言うなら、灰汁を一度で取らず、煮立つ場所ごとにすくう感じです」
「村全体を鍋と見立てる」
「変な言い方ですが、そうです」
莉子さんが口元を押さえた。
「変だけど、悠真さんらしい」
「必要な物資は」
佐伯さんが聞く。
「炭、灰、粗塩、米、味噌、白い花。あと、布袋と人手」
村長が立ち上がった。
「炭なら炭焼き小屋にある。灰は各家の竈と風呂釜から集められる。米と味噌は、村の倉にある」
「村の備蓄を使うことになります」
「水が死んだら、備蓄どころではない」
村長の声は静かだった。
「使え」
その一言で、村の人たちが動き始めた。
誰かが炭焼き小屋へ走る。
誰かが各家へ灰を集めに行く。
おばあさんたちは布袋を縫い始めた。古い手ぬぐい、米袋、さらし。何でも使えるものを出す。
莉子さんは役割表を作り、村人の名前を書き込んでいく。
「炭班、灰班、炊飯班、避難所班、用水路班。外部連絡は私と佐伯さん。コメント欄は引き続き閉じます」
「配信は」
誰かが聞いた。
莉子さんは首を振った。
「しません。今は見せる時間じゃない」
その判断がありがたかった。
画面の向こうに応援してくれる人がいるのは知っている。
だが今、村は見世物ではない。
黒瀬は、集会所の入口で立っていた。
佐伯さんが彼を見る。
「黒瀬氏。炭の運搬をお願いします。重いものが多い」
「……わかりました」
今度は、ほとんど間がなかった。
玲奈は治癒の手を止めずに言った。
「私も行きます」
「白鳥氏は避難所で体調管理を継続。魔力消耗者が増えています」
「はい」
玲奈はすぐに引き下がった。
やるべきことを、選ばない。
それだけで十分だった。
準備は、昼前まで続いた。
集会所の外に、大きな釜が三つ並ぶ。
米を炊く釜。
味噌湯を作る釜。
灰袋を温め、魔素の通りをよくする釜。
炊き立ての米の匂いが村に広がった。
普段なら、それだけで腹が鳴る匂いだ。
今日は少し違う。
祈りに近かった。
米を握り、塩を振り、味噌を塗る。
大量の焼きおにぎりを作る。
それらは食べるためではなく、黒水を引くための供物兼受け皿になる。もちろん、すべて黒水に使うわけではない。処理班が食べる分も別に作る。
ミコトは作業台の上で、うとうとしていた。
だが、焼きおにぎりの匂いがすると目を開ける。
「それは我のではないか」
「こっちがミコトの分」
蒼太が、小さな焼きおにぎりを差し出した。
塩だけの、薄い味。
ミコトはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「よい大きさである」
「ほんと?」
「うむ」
ミコトは小さくかじった。
その光景を見たおばあさんが、そっと目元を拭いた。
午後。
三段処理が始まった。
第一段は、村側の用水路。
村人たちが灰袋を沈め、黒水を受ける。俺がいなくても動けるよう、午前中に流れの見方を伝えた。水面に黒い膜が集まる場所。泡が割れない場所。土が苦い匂いを出す場所。
村長が先頭に立つ。
「完全に止めるな。神代くんが言った通り、灰袋へ流せ」
第二段は、浅層の分岐。
調査班と佐伯さんが担当する。
封鎖杭を調整し、灰袋と炭を入れ替える。黒水が一気に来ても、圧で破れないようロープを二重にする。
第三段は、中層の黒水池。
俺とミコトが行く。
佐伯さんは最後まで反対した。
「神代氏を深層近くへ再投入するリスクは高い」
「俺が流れを見ないと、供物の位置が決まりません」
「わかっています」
「なら」
「だから反対したいんです」
佐伯さんは、初めて少しだけ苦い顔をした。
それでも、彼女は許可を出した。
「監査官としてではなく、現地責任者として正式協力を要請します。必ず戻ること」
「はい」
ミコトが肩に乗る。
「戻らねば、我の夕飯がない」
「重要だな」
「最重要である」
中層へ着くと、黒水池は波立っていた。
深層の黒水鉱母が、こちらの準備に反応している。
俺は焼きおにぎりを祠へ向かう石段の途中に並べた。
炭と灰袋をその周りに置く。
味噌湯を少しずつ垂らす。
香ばしい匂いが、黒水の苦みの中へ広がった。
通信機から、佐伯さんの声が入る。
『浅層準備完了』
続いて、莉子さん。
『用水路班、準備完了。村長さんが「いつでも来い」と言ってます』
俺は息を吸った。
肺に黒水の匂いが入る。
薬湯をひと口飲む。
苦みで舌が戻る。
「始めます」
俺は祠の方へ向き、焼きおにぎりの一つを割った。
米の湯気が立つ。
味噌の焦げた香りが強くなる。
その瞬間、深層から黒水がうねった。
石段の奥で、黒水鉱母が身を起こす。
腹から伸びる黒い筋が、供物へ向かう。
昨日より多い。
太い。
ミコトが結界を張る。
金色の光が、俺と供物の周囲を囲んだ。
「悠真、今」
「ああ」
俺は灰袋の口を開く。
黒い筋が供物へ触れた瞬間、米が黒く染まった。
だが、今度は受け皿が一つではない。
中層の灰袋が吸う。
吸いきれない分が浅層へ流れる。
浅層の灰袋が受ける。
さらに薄まった黒水が用水路側へ向かい、村人たちが待つ灰袋へ落ちる。
三段の灰汁抜き。
村全体が、一つの鍋になった。
黒水鉱母が暴れる。
背中の鉱石が割れ、黒水が噴き出す。
結界が軋む。
ミコトの足元が滑った。
「ミコト!」
「見ておれ!」
ミコトが尾を立てる。
金色の光が強くなり、その背後に古い鳥居の影が浮かんだ。
鈴の音。
祠の奥から、同じ音が返る。
忘れられていた水守りの鈴。
黒水鉱母の目が、大きく開いた。
琥珀色の奥に、澄んだ色が戻り始める。
俺は流れを読む。
腹の黒水が、まだ残っている。
無理に引けば、体ごと壊れる。
ゆっくり。
灰汁をすくう時と同じ。
煮立たせすぎず、冷ましすぎず。
出てきた分だけ受ける。
「米、追加」
通信機に言う。
『用水路側、追加入ります』
莉子さんの声。
『浅層、灰袋交換』
佐伯さんの声。
『炭、まだあるぞ!』
村長の声。
さらに、少し遅れて黒瀬の声が入った。
『炭を運ぶ。どこへ置く』
俺は一瞬だけ驚いた。
だが、すぐ答える。
「用水路の下流側へ。水を完全に止めず、斜めに置いてください」
『わかった』
短い返事。
それで十分だった。
玲奈の声も入る。
『体調不良者、悪化なし。汗が出てます。粥、効いてます』
「よかった」
村が動いている。
誰か一人の英雄ではない。
鍋を見ている人。
灰袋を替える人。
水を運ぶ人。
粥を食べさせる人。
コメント欄を閉じて村を守る人。
結界を張る猫。
全部がつながって、黒水を受け止めている。
黒水鉱母が、最後に大きく身を震わせた。
腹の黒い筋が、一気に薄くなる。
池の水面が荒れ、祠の鈴が高く鳴った。
ミコトの結界に亀裂が入る。
俺は最後の焼きおにぎりを割り、そこへ粗塩を振った。
「これで終わりだ」
黒水が、最後の筋となって供物へ吸われる。
米が真っ黒に染まり、灰袋が重く沈んだ。
同時に、黒水鉱母の体から力が抜ける。
巨大な体が池へ沈む。
だが、死んではいない。
黒かった水が、少しずつ透明へ戻っていく。
鉱石の甲羅に、薄い青い光が走った。
琥珀色の目が、こちらを見た。
怒りはもうなかった。
腹を空かせた獣ではなく、古い水守りの生き物の目だった。
ミコトが一歩前へ出る。
「眠れ。次は忘れさせぬ」
黒水鉱母は、ゆっくり目を閉じた。
祠の鈴が、最後に一度だけ鳴った。
通信機から、次々に声が入る。
『浅層、黒水濃度低下』
『用水路、澄んできたぞ!』
『共同水槽側、基準値内へ戻りつつあります』
『避難所、症状悪化なし』
俺はその場に座り込んだ。
足に力が入らなかった。
ミコトも俺の隣に座る。
「腹が減った」
「俺も」
「帰るぞ」
「ああ」
集会所へ戻ると、夕方になっていた。
村はまだ完全には落ち着いていない。
水の検査は続く。
畑の土も見なければならない。
廃坑の封鎖と祠の管理も、これから決めることが山ほどある。
それでも、黒水の匂いは薄れていた。
集会所の台所では、村のおばあさんたちが味噌汁を温めていた。
具は大根と白菜だけ。
肉も魚も入っていない。
でも、白い湯気が上がると、避難していた人たちの顔がゆるんだ。
「悠真くん、座れ」
村長に言われ、俺は畳の上に座った。
莉子さんが椀を持ってくる。
「今度こそ、見張ります」
「はい」
味噌汁をひと口飲む。
薄い。
けれど、うまい。
水が戻った味がした。
ミコトには、蒼太が焼きおにぎりを差し出した。
ミコトはそれを受け取り、ゆっくり食べた。
誰も急かさない。
黒瀬は集会所の外で、泥だらけの軍手を見つめていた。
玲奈が隣に立つ。
「蓮さん」
「俺は、何をしていたんだろうな」
玲奈は答えなかった。
答えは、本人がこれから見つけるしかない。
佐伯さんは端末に報告を打ち込んでいる。
「旧廃坑ダンジョン、暫定安定。水源汚染、拡大停止。神代悠真氏および地域住民の協力により、被害拡大を防止」
彼女はそこで一度手を止め、俺を見る。
「神代氏」
「はい」
「正式な報告書には、あなたの技能分類を新たに記載する必要があります」
「料理人でいいです」
「不正確です」
「またですか」
「はい」
佐伯さんは真面目に頷いた。
莉子さんが少し笑い、村の人たちもつられて笑った。
その夜、莉子さんは短い報告だけを投稿した。
『村の水源危機は、ひとまず拡大を止められました。現地への来訪は引き続きお控えください。たくさんのご心配をありがとうございます』
写真は一枚だけ。
湯気の上がる味噌汁の椀。
その横で、小さな焼きおにぎりを押さえる白い前足。
コメント欄は、しばらく閉じたままだった。
静かな夜が必要だったからだ。
俺は集会所の縁側に座り、山を見た。
廃坑の奥にいた黒水鉱母は、眠っている。
でも、祠をどう守るか、水源をどう管理するか、村に人が来るようになったあとどうするか。
問題は残っている。
ミコトが隣に来て、体を丸めた。
「悠真」
「何だ」
「食堂を作れ」
「急だな」
「人が集まる。水を守る。飯を出す。祠にも供える。全部、別々にするから忘れる」
ミコトは山を見た。
「ならば、忘れぬ場所を作ればよい」
俺はしばらく黙った。
祖母の納屋。
カフェ・こもれび。
集会所の大鍋。
村の水。
それらが、一本の線につながる。
「食堂か」
「うむ。もちろん、我の席も必要である」
「そこが本題だろ」
「重要である」
俺は笑った。
久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
山の方から、冷たい風が吹いた。
けれど、もう黒水の匂いはしなかった。
代わりに、味噌汁の湯気と、焼きおにぎりの焦げた香りが残っていた。
この村の明日は、まだ続く。
なら、その明日に出す飯を考えなければならない。
同じ頃、集会所の隅で、佐伯さんの端末が二度震えた。
一つは、《暁の剣》と黒瀬蓮に関する正式処分審査開始の通知。
もう一つは、ミコトに関する古い神獣記録の照合結果だった。
佐伯さんは画面に表示された短い文字を見て、眼鏡の奥の目を細める。
『該当あり』
白い猫は、俺の隣で焼きおにぎりの欠片を前足で押さえたまま、何も知らない顔で丸くなっていた。




