第24話 深層の主は、倒すだけでは終わらない
深層入口へ向かう前に、俺は供物を作った。
大げさなものではない。
炊いた米を小さく丸め、粗塩を振る。
村の味噌を薄く塗り、炭火で軽く炙る。
表面に焦げ目がつくと、香ばしい匂いが立った。米の甘さ、味噌の塩気、焦げの苦み。山仕事の前に食べる焼きおにぎりに近い。
そこへ、沢の近くで摘んだ白い花を一輪添えた。
中層の黒水池に浮いていた花と同じ種類だ。村のおばあさんが「昔は水神様に供えた」と教えてくれた。
忘れられていた供物。
腹を空かせたもの。
それがどこまで本当かはわからない。
だが、ダンジョンの核が祠とつながっているなら、戦う前に通すべき筋がある。
「料理というより儀式ですね」
佐伯さんが言った。
「俺にも境目がわかりません」
「記録上は、魔素安定化を目的とした伝統的供物処理として扱います」
「便利な言い方ですね」
「必要です」
ミコトは焼きおにぎりを見つめていた。
「それは我の分か」
「供物だ」
「我は神猫である」
「水守り用」
「むう」
不満そうだったので、別に小さな焼きおにぎりを作ってやった。
ミコトはそれを見て、ようやく尻尾を落ち着かせる。
深層確認隊は最小人数になった。
佐伯さん、調査班長、俺、ミコト。
戦闘班は入口と中層で待機。玲奈は避難所。黒瀬は外周。
奥へ進むほど、人数が多い方が危ない。黒水の根は、人の熱や魔力に反応する。
中層の黒水池まで来ると、昨日より水位が上がっていた。
祠へ続く石段の下半分が、黒い水に沈んでいる。
池の中心にいたものは、もう隠れていなかった。
巨大な山椒魚のような体。
背中には鉱石の甲羅。
腹側は白く、そこに黒い筋が幾重にも走っている。
目は琥珀色。
怒っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。
「黒水鉱母」
調査班長が低く言った。
「記録上は、鉱脈系ダンジョンの深部で稀に確認される核生物です。ただ、この規模で水脈に接続している例は」
「少ない?」
「少なくとも、私は見たことがありません」
黒水鉱母が、口を開いた。
声はない。
代わりに、黒い水が波になって押し寄せた。
ミコトが前へ出る。
金色の結界が、半円を描く。
黒水の波はそれに当たり、じゅう、と音を立てて左右へ分かれた。
「長くはもたぬ」
ミコトの声が低い。
いつものふてぶてしさはある。
だが、尻尾の先が震えていた。
「倒せますか」
佐伯さんが俺に聞いた。
調査班長ではなく、俺に。
「倒すだけなら、たぶん」
黒水鉱母の動きは鈍い。
魔核の位置も読める。
ミコトが結界で黒水を止め、俺が近づいて核を断てば、仕留めることはできるかもしれない。
だが。
「倒したら、腹の中の黒水が全部流れます」
俺は黒水鉱母の腹を見た。
白い皮膚の下で、黒い筋が脈打っている。
あれは、ただの体液ではない。
廃坑の奥に溜まった魔素と、鉱石の毒と、水守りの結界の残骸が混ざったものだ。
鍋で言うなら、灰汁と毒と旨味が分かれないまま煮詰まった状態。
「核を壊せば、水脈へ流れ込む。沢も畑も、たぶん持ちません」
佐伯さんは数秒で判断した。
「討伐不可。封印は」
「今のミコトだけでは厳しい」
「む」
ミコトが不満そうに鳴く。
だが、否定はしなかった。
「祠が生きていれば別である。しかし、今は腹が空きすぎておる」
「腹が空く、か」
俺は持ってきた供物を見る。
焼きおにぎり。
味噌。
白い花。
これで黒水鉱母が満足してくれるなら楽だが、そんな単純な話ではないだろう。
腹が空いているというのは、たぶん比喩だ。
長い間、祠に供えられるはずだった清い水、米、塩、祈り。
そういうものが途絶えた場所へ、廃坑ダンジョンの魔素だけが流れ込んだ。
空腹の器に、毒だけが注がれた。
だから、黒水鉱母は毒を抱えている。
「吐かせます」
俺が言うと、佐伯さんがこちらを見た。
「何を」
「黒水です。体内の黒水を、こっちで受けられる形で吐かせる。全部ではなく、少しずつ」
「方法は」
「灰汁抜きに近いです」
俺は布包みを開けた。
炭、灰、粗塩、味噌、米。
そして、昨日から黒水を吸わせた灰袋。
「あいつの腹に溜まった黒水は、魔素の流れに沿って水脈へ出ようとしている。こちらに別の出口を作ります。塩と味噌で引き、米で受け、炭と灰で吸う。祠の前に供物の形で置けば、黒水鉱母はたぶん反応する」
調査班長が困惑している。
「つまり、毒を誘引する罠を、供物として置く?」
「はい」
「料理の発想ですね」
「料理でも、毒抜きでもあります」
佐伯さんは端末を見た。
数値は悪化している。
時間はない。
「危険性は」
「黒水鉱母が暴れたら、俺が近い位置で被ります」
「却下したいところです」
「でも、他に方法がない」
佐伯さんは黙った。
表情は変わらない。
だが、迷っているのはわかった。
彼女は監査官で、俺を危険区域に入れる責任がある。
村を守る責任もある。
どちらかだけではない。
ミコトが俺の足元へ来た。
「我が守る」
「無理はするな」
「無理はする。無茶はせぬ」
どこかで聞いたような言い回しだった。
俺は少し笑った。
「莉子さんみたいだな」
「あの娘は賢い」
「そうだな」
通信機が鳴った。
莉子さんからだった。
『悠真さん、聞こえますか』
「聞こえます」
『村側の用水路、また黒水が増えました。避難所は持ってます。でも、長くは無理です』
「わかりました」
『何か無茶なことをしようとしてますよね』
俺は答えに詰まった。
佐伯さんが代わりに言う。
「危険を伴う処理案を検討中です。現時点では実行許可前」
『佐伯さん、止められるなら止めてください』
「止めたいです」
『止められないんですね』
「はい」
短い沈黙。
それから、莉子さんの声が少し低くなった。
『悠真さん』
「はい」
『帰ってきたら、ちゃんと食べてください。今度は私が見張ります』
「わかりました」
『ミコト様も、無茶しないでください』
「にゃ」
ミコトが鳴いた。
その声は、通信機越しでも少しだけ誇らしげだった。
俺は供物を持ち、黒水鉱母へ一歩近づいた。
池の水が揺れる。
琥珀色の目が、こちらを見る。
怒り。
飢え。
痛み。
それらが混ざった視線だった。
「食わせるんじゃない」
俺は小さく呟く。
「吐き出してもらう」
料理は、何でも受け入れることではない。
毒を抜く。
臭みを取る。
食べられるものと、食べてはいけないものを分ける。
今やることも、それと同じだ。
黒水鉱母が、ゆっくりと身を起こした。
背中の鉱石がこすれ、低い音を立てる。
池の黒水が、壁の根を伝って村の方へ流れようとする。
ミコトが結界を張った。
金色の光が、黒い水を一瞬だけ押しとどめる。
「悠真、早く」
「ああ」
俺は祠の前へ走った。
足元の黒水が跳ねる。
靴底が焼けるように冷たい。
祠の前に供物を置く。
焼きおにぎりの焦げた味噌の匂いが、黒水の腐った苦みの中で、奇妙なほどはっきり立ち上がった。
黒水鉱母の目が、その匂いを追う。
一瞬、動きが止まった。
今だ。
俺は灰袋を裂き、供物の周りに円を描くように広げた。
炭を置き、粗塩を撒く。
黒水鉱母の腹から、黒い筋がひとつ、供物へ向かって伸びた。
釣れた。
そう思った瞬間、黒水の池が爆ぜた。
予想よりずっと多い。
黒水が、波になって俺へ向かってくる。
ミコトの結界が間に合う。
金色の膜が俺の前に立つ。
だが、その膜に黒水が叩きつけられた瞬間、ミコトが小さくうめいた。
「ミコト!」
「止まるな!」
初めて聞くほど強い声だった。
俺は歯を食いしばり、供物の前に膝をつく。
黒水鉱母の腹から伸びた黒い筋を、ナイフで切らず、指で流れを変える。
灰へ。
炭へ。
米へ。
毒を、食わせてはいけないものへ分ける。
焼きおにぎりの表面が、みるみる黒く染まっていく。
米が黒水を吸い、崩れる。
味噌の香りが焦げつき、灰に変わる。
黒水鉱母が、声にならない叫びを上げた。
坑道全体が震える。
祠の奥で、小さな鈴の音が鳴った。
ミコトの鈴ではない。
古い祠に残っていた、水守りの音。
その音を聞いた瞬間、黒水鉱母の琥珀色の目から、ほんの少し濁りが引いた。
だが、同時に背中の鉱石が割れた。
中から、さらに濃い黒水が滲む。
佐伯さんの声が飛ぶ。
「神代氏、限界です。一度撤退を」
俺もわかっていた。
今の処理だけでは足りない。
毒を抜く出口は作れた。
だが、受け皿が小さすぎる。
村の水源全体へ流れ込む黒水を受けるには、もっと大きな灰と炭と米がいる。
もっと大きな鍋がいる。
「戻ります」
俺は供物の残骸を封じ、立ち上がった。
足が震える。
ミコトが肩に飛び乗ろうとして、少し失敗した。
俺は慌てて抱き上げる。
「大丈夫か」
「腹が減った」
「それは大丈夫な時の言い方だ」
「うむ」
黒水鉱母は追ってこなかった。
祠の前で、こちらを見ている。
その目はまだ濁っている。
でも、さっきより少しだけ、苦しみの色が見えた。
坑道を戻りながら、俺は考える。
倒すのではない。
封じるだけでもない。
吐かせて、受けて、澄ませる。
村の水を守るには、深層だけでは足りない。
避難所、村の灰、炭、米、味噌、祠。
全部をつなぐ必要がある。
地上へ戻る頃には、策は形になっていた。
必要なのは、討伐隊ではない。
村全体を使った、大きな毒抜きだ。




