第23話 避難所の鍋と黒い用水路
中層から戻った直後、村側で警報が鳴った。
共同水槽ではない。
畑へ流れる細い用水路だった。
古い石組みの下を通る枝流れに、黒水が回り込んでいたのだ。
「山側の三軒、頭痛と吐き気。用水路の近くで作業していた人です」
莉子さんが走ってきた。
息が上がっている。
手には名簿。避難者、体調不良者、飲用水の配布状況が細かく書き込まれている。
「カフェ側は満員。集会所も年寄りが増えてます。水は黒瀬さんたちが運んでますけど、足りません」
「鍋を増やします」
「悠真さん、休んでない」
「休むためにも、先に食べ物を回します」
莉子さんは何か言いたそうにしたが、結局うなずいた。
「わかりました。じゃあ、私は人を割ります。洗い物、配膳、記録。悠真さんは鍋」
「助かります」
集会所の奥では、避難してきた子供が泣き出していた。
泣き声につられて、別の子供も母親の膝に顔を押しつける。大人たちは「大丈夫」と言うが、その声にも疲れが滲んでいた。
水を飲むな。
外へ出るな。
畑へ近づくな。
生活の当たり前を一つずつ止められると、人は思った以上に落ち着かなくなる。
だから、鍋を増やす。
椀を渡す。
熱いものを両手で持たせる。
それだけで解決するわけではない。でも、次の指示を聞けるくらいには、呼吸が戻る。
集会所の台所に戻ると、村のおばあさんたちがすでに野菜を洗っていた。
大根。
人参。
白菜。
里芋。
どれも、村の畑で採れたものだ。
水源が危ないと聞いて、みんな少しだけ手が止まっていた。
畑は村の暮らしそのものだ。
用水路が死ねば、今日の飲み水だけの話では終わらない。
「悠真くん、何を作る」
「雑炊と、味噌汁を分けます。症状がある人は雑炊。元気な人は味噌汁と握り飯。鍋を分けた方がいい」
「はいよ」
返事は早かった。
不安でも、手は動く。
それが、この村の強さなのだと思う。
俺は黒水の影響がある人向けに、また焦がし味噌を使った。
ただし、昨日よりやわらかく。
症状が軽い人には苦みを強くしすぎない。里芋のとろみを使って、喉を通しやすくする。白菜は細く切り、米と一緒に煮る。生姜はすりおろし、最後に入れる。
鍋の中で米がほどけ、湯気が白く立った。
味噌の香りに、里芋の土っぽい甘さが混ざる。
ミコトが台所の入口で座っている。
今日は鍋に近づきすぎない。
黒水の匂いが嫌なのだろう。
「ミコト、大丈夫か」
「我は大丈夫である。だが、水が泣いておる」
村のおばあさんたちが、手を止めた。
ミコトは窓の外を見ている。
用水路の方角だ。
「早く泣き止ませないとな」
「うむ」
処置場所では、玲奈が診療所の先生と並んで動いていた。
彼女はもう、謝るような顔をしていなかった。
もちろん、後悔は消えていないだろう。
でも、今は目の前の人間を見る顔になっている。
「次の方、こちらへ。手足のしびれはありますか。水はどこで飲みましたか」
問いかける声は柔らかい。
治癒魔法は必要なところだけ。
胃を動かし、呼吸を整え、体が粥を受け入れる状態へ持っていく。
以前の玲奈なら、魔力で一気に治そうとしていたかもしれない。
今は違う。
「神代さん、粥を」
「はい」
俺は椀を渡す。
玲奈はそれを患者の手に添える。
「少しずつで大丈夫です。熱かったら待ちましょう」
患者は震える手で椀を口へ運び、湯気を吸った。
「……味噌の匂いがする」
「はい」
「水が変な匂いで、怖くて」
「今はこれを飲んでください。神代さんが黒水用に作っています」
その言い方に、俺は少し困った。
黒水用。
料理名としては最悪だ。
莉子さんなら絶対に採用しない。
けれど、患者は小さく笑い、粥をすすった。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
外では、黒瀬が水の箱を運んでいた。
朝から何往復目かわからない。
戦闘職の体力は本物で、重い箱を二つまとめて持っても足取りは崩れない。だが、顔には疲労が浮いている。
村の若者が声をかけた。
「黒瀬さん、そっちじゃなくてカフェへ三箱」
「ああ」
「あと戻りに毛布も」
「わかった」
命令口調ではない。
ただ、必要なことを伝えているだけだ。
黒瀬はそれに従った。
剣を振るより、称賛は少ない。
誰も彼を英雄とは呼ばない。
でも、カフェに水が届くと、避難していた老人が「助かる」と言った。
黒瀬はその言葉に、どう返せばいいかわからない顔をした。
結局、短く頭を下げただけだった。
昼前、用水路の封鎖作業が始まった。
調査班と村の人が、黒水の回った枝流れを土嚢で止める。俺は灰袋と炭を持って同行した。
畑の横を流れる水は、昨日より黒い。
土の匂いに、苦い鉄の匂いが混ざっている。
畑の葉が少ししおれていた。
村長がそれを見て、何も言わずに帽子を握った。
「まだ戻せます」
俺は言った。
「本当かね」
「完全に枯れたわけじゃない。水を止めて、黒水を抜いて、土を休ませれば」
「食えるようになるか」
「時間はかかります。でも、食える土に戻します」
村長は目を閉じ、深く息を吐いた。
「頼む」
その一言は重かった。
俺は用水路の黒水を少しすくい、匂いを見る。
中層で嗅いだものより薄い。
だが、放っておけば土に入る。
灰袋を置き、炭を沈める。
水の流れを一時的に横へ逃がし、黒い膜を吸わせる。
調査班が土嚢を積む。
村の人たちがスコップで泥を寄せる。
黒瀬もいた。
誰に言われるでもなく、土嚢を運んでいる。
汗で髪が額に張りついていた。
俺と目が合う。
彼は何か言いたげだった。
だが、俺は先に言った。
「その土嚢、こっちへ」
一瞬、黒瀬の表情が固まる。
けれど、すぐに土嚢を置いた。
「ここでいいのか」
「はい。少し斜めに。水を完全に止めず、灰袋へ流します」
「……わかった」
黒瀬は言われた通りにした。
その手つきは不器用ではない。
ただ、誰かの指示で地味な作業をすることに慣れていないだけだ。
水の流れが変わる。
黒い膜が灰袋へ吸われ、用水路の先の水が少しだけ澄んだ。
周囲から、小さく息が漏れた。
「よし」
俺はそう言い、膝をつきそうになるのをこらえた。
中層から戻ったばかりで、黒水処理を続けている。
さすがに体が重い。
ミコトが足元に来て、前足で俺の足を叩いた。
「休め」
「あと少し」
「あと少しは、倒れる者の言葉である」
強い口調だった。
村長も聞いていたらしく、すぐに言った。
「悠真くん、休め。ここはわしらで見ておく」
「でも」
「食える土に戻すんだろう。なら、君が倒れたら困る」
反論できなかった。
俺は集会所へ戻り、台所の隅で椅子に座った。
莉子さんが、何も言わずに椀を出す。
俺が作った雑炊だった。
里芋と米が溶け、味噌の香りが立っている。
「食べてください」
「俺の分、ありましたか」
「残しました」
短い言葉だった。
俺は椀を受け取り、ひと口食べた。
自分で作った味なのに、妙に沁みた。
ミコトが膝に飛び乗る。
「我にも」
「黒水用だぞ」
「悠真が食べるなら我も食べる」
俺は少し笑い、味の薄いところを小皿に取った。
ミコトは不満そうに匂いを嗅ぎ、それでもぺろりと舐めた。
そのとき、佐伯さんの端末が鳴った。
「中層奥の反応が増大。黒水量、再上昇」
休める時間は、長くない。
佐伯さんは地図を広げ、祠の位置を指した。
「次で深層入口まで行きます。原因個体を確認し、処理方針を決める必要があります」
俺は椀を置いた。
まだ半分残っている。
莉子さんが、それを手で押さえた。
「食べ切ってからです」
佐伯さんも言った。
「同意します。神代氏の活動継続には摂食が必要です」
ミコトが胸を張る。
「ほれ見よ」
俺は降参して、残りの雑炊を食べた。
外では、黒い用水路に灰袋が沈んでいる。
山の奥では、さらに大きな何かが動いている。
それでも今は、椀を空にする。
次へ行くために。




