第22話 黒水中層と神猫の鈴
朝は、白い霧の中から来た。
山の斜面に薄い靄がかかり、廃坑のある方角だけが妙に暗い。夜明けの光が差しても、そこだけは水を含んだ墨のような色をしていた。
集会所では、誰かが一晩中火を見ていた。
鍋の中には、薬湯がある。
山菜、生姜、焼いた葱、少しの味噌。
そこへ、昨日処理した鉱牙狼の骨をほんの少しだけ加えた。安全な部分を炙り、灰汁を取りきって、出汁というより薬の土台にする。
匂いは強い。
苦い。
でも、湯気を吸うだけで喉が開く。
「飲みやすくはないです」
俺が言うと、調査班の人たちは全員うなずいた。
「飲みやすさより効く方で」
「昨日の黒水よりは何でもいいです」
「それはそうですね」
佐伯さんも小さな湯飲みを受け取った。
匂いを確認し、測定器を近づけ、それから一口飲む。
表情は変わらない。
ただ、ほんの少しだけ眉間に力が入った。
「苦い」
「はい」
「必要な苦味です」
「そうです」
ミコトは湯飲みを前にして、明らかに嫌そうな顔をしていた。
「我は神猫である」
「飲まない理由になってない」
「猫は苦いものを飲まぬ」
「昨日、精神力を使うって言ってたろ」
ミコトはしばらく湯飲みを睨み、最後に鼻先だけ近づけた。
「匂いでよい」
「一口」
「半口」
「猫の半口ってなんだ」
結局、ミコトは舌先で一度だけ舐め、ものすごく嫌そうに目を細めた。
それを見て、調査班の緊張が少しだけ緩む。
薬湯を飲んだ調査班の頬には、しばらくして薄く赤みが戻った。
夜通しの対応で指先が冷えていた人も、湯飲みを両手で包むうちに呼吸が深くなる。苦みで顔をしかめながらも、誰も残さなかった。
「腹の底が温まる感じがします」
「黒水の冷えに引っ張られにくくなります。気持ち悪くなったら、すぐ言ってください」
「了解です」
佐伯さんは、飲み終えた湯飲みを置いて端末に記録した。
「出発前処置として有効性を観察します」
「食前の一杯みたいに言われると変ですね」
「実際、出発前の一杯です」
中層確認隊は、前回より人数が多かった。
佐伯さん、調査班四人、俺、ミコト。
村側には玲奈が残り、避難所の体調管理を続ける。黒瀬は外周警備と物資運搬。莉子さんは情報発信と連絡網。
全員が、自分の場所にいる。
俺は布包みを背負った。
握り飯、薬湯の濃縮分、灰袋、炭、粗塩、味噌、包丁。
武器より、台所道具に近い。
だが、今の廃坑ではそれが要る。
浅層の分岐までは、昨日の処理が効いていた。
黒水は完全には止まっていないが、灰袋へ流れている。水面の黒い膜も少し薄い。
「保持しています」
佐伯さんが測定器を確認した。
「ただし、奥の反応は増大」
俺は分岐の奥を見た。
旧道は、人がかがんで通れるほどの細い穴になっている。木札に書かれていた『水守りの祠』の文字が、泥の上でかすかに光っているように見えた。
中へ入る。
空気が変わった。
廃坑の冷たさではない。
水蔵の中に入ったような湿り気。
壁からは黒い根のようなものが伸びていた。木の根ではない。鉱石と血管が混ざったような、硬くてぬめる筋。そこを黒水が通っている。
「鉱石化した根」
調査班の一人が呟く。
「ダンジョンの自己拡張組織かもしれません」
「切ると出ます」
俺が言うと、全員が足を止めた。
「黒水が」
「はい。雑に切れば、壁の中の黒水が吹きます」
俺は根の表面に手を近づけた。
触れない。
温度を見る。
流れを読む。
料理で言えば、煮えていない筋を無理に噛み切ろうとするようなものだ。刃を入れる場所を間違えれば、固さも臭みも広がる。
「ここは切らずに、流れを弱めます」
灰袋を壁際に置き、粗塩を筋の分岐に少し。
味噌を水で溶いたものを布に染み込ませ、根の表面へ巻く。
調査班が驚いた顔をした。
「味噌、使うんですか」
「塩と麹の気配に寄るんです。魔素の一部が」
「科学的には」
「あとで佐伯さんに怒られます」
佐伯さんは記録しながら言った。
「怒りません。説明は求めます」
「それが怒るより怖いです」
布に黒い染みが広がっていく。
根の脈動が、わずかに弱まった。
その隙に進む。
中層は広かった。
昔の坑道が、ダンジョン化で押し広げられている。天井は高く、黒い水が細い滝になって壁を流れ落ちていた。床には鉱石の突起が並び、踏むと薄い黒霧が上がる。
その奥で、鉱牙狼の群れが待っていた。
十体。
いや、影の奥にもいる。
目が黒水で濁り、背中の鉱石が濡れて光っている。
調査班が銃型の魔力器具を構える。
佐伯さんが短く言った。
「交戦回避不能。撤退路確保を優先」
俺は前に出ない。
まず、足元を見る。
群れは俺たちを囲もうとしている。だが、黒水の流れに沿って動いている。自由意志というより、奥の何かに引っ張られている動きだ。
「右の水筋を止めます。左へ寄せてください」
「了解」
調査班が閃光弾を投げる。
鉱牙狼の動きが一瞬乱れる。
ミコトが飛んだ。
白い影が、黒い床の上を走る。
小さな前足が床を叩いた瞬間、澄んだ鈴のような音が響いた。
金色の輪が広がる。
鉱牙狼たちが、その輪の外で足を止めた。
「にゃあ」
鳴き声はいつもと同じ。
けれど、その背後に鳥居の影が見えた。
調査班の一人が思わず膝をつきかける。
「拝まないでください、今は」
俺が言うと、本人は慌てて立ち直った。
俺は右の水筋へ走る。
黒水が床の溝を流れている。ここから群れに魔素が供給されている。
灰袋を置く。
炭を割る。
味噌布を押し込む。
指先で流れを掴む。
熱い。
いや、冷たい。
どちらでもない。
体の中の血が一瞬、逆に流れたような気持ち悪さが来た。
「悠真!」
ミコトの声。
俺は歯を食いしばり、流れを灰袋へ落とした。
黒い水が袋に吸われる。
鉱牙狼たちの動きが、目に見えて鈍った。
「今です」
調査班が非殺傷の拘束弾を撃つ。
鉱牙狼が床へ倒れ、金属音を立てて身をよじる。
倒すのではなく、止める。
汚染を広げないために。
数分後、群れは動けなくなった。
俺は息を吐いた。
腕が重い。
黒水の流れを掴むたび、体の内側に苦みが残る。
調査班の一人が壁に手をつき、深く息を吐いた。
「薬湯、飲んでなかったら吐いてました」
声は冗談めかしていたが、顔色は本気だった。
黒霧を吸った喉はまだ荒れているはずなのに、呼吸は乱れきっていない。腹に入れた熱が、体を内側から支えている。
佐伯さんも短く頷いた。
「隊の集中維持に寄与。記録します」
「まずいけど効く、でお願いします」
「主観表現は補足に留めます」
ミコトが俺の足元へ来た。
「飲め」
差し出されたのは、薬湯の小瓶だった。
「お前が持ってたのか」
「監督者である」
俺は小瓶を受け取り、ひと口飲んだ。
苦い。
舌がしびれる。
けれど、胃に落ちると体が戻った。
「まずい」
「効いておる」
「そうだな」
中層の奥には、古い石段があった。
崩れかけ、黒い根に覆われている。
石段の先に、小さな鳥居の影が見えた。
水守りの祠。
その前で、黒水が池のように溜まっていた。
池の中心に、何かが沈んでいる。
大きな丸い背。
鉱石の甲羅。
ゆっくり開く、琥珀色の目。
ミコトの毛が逆立つ。
「まだ近づくな」
佐伯さんが即座に言った。
「反応が大きすぎます。中層確認はここまで」
俺も頷いた。
だが、匂いは覚えた。
黒水の奥にある、主の匂い。
腐敗ではない。
飢えと、古い供物と、長いあいだ忘れられていた水の匂い。
石段の奥で、巨大なものがわずかに身じろぎした。
黒水の池が、こちらへ波を寄せる。
その波の先に、小さな白い花が一輪、浮いていた。
祠に供えられていた花なのか。
それとも、まだ水が死にきっていない証なのか。
俺は、その花を見つめたまま、撤退の合図を聞いた。




