第20話 廃坑浅層、黒水の匂い
出発前、俺は握り飯を作った。
避難所の台所で炊いた米は、少し柔らかめだった。汁粥に使うつもりで炊いたからだ。それでも塩を強めに振り、手早く握れば、山へ入るには十分な飯になる。
具は、焦がし味噌を絡めた牙猪の細切れ。
生姜を効かせ、脂を落としすぎず、冷めても米に旨味が移るようにした。
もう一種類は、山菜の味噌和え。
苦みがある。
だが、黒水の魔素を吸ったあとには、その苦みが舌を起こす。甘いものより、こういう味の方が体が戻ることがある。
「悠真さん、人数分確認しました」
莉子さんが包みを並べる。
俺、佐伯さん、調査班の二人、村の山道に詳しい若い男性が一人。
そしてミコト。
「ミコト様の分、これです」
莉子さんが小さな包みを別に置く。
「小さい」
ミコトが即座に言った。
「ミコトは歩かないだろ」
「精神力を使う」
「帰ってから追加で」
「約束である」
ミコトは不満そうにしながらも、小さな包みを前足で押さえた。
黒瀬は、麓から水と簡易トイレ、発電機の燃料を運んで戻ってきたところだった。
額に汗をかいている。
高価な戦闘服の上に、村の人から借りた軍手をしていた。似合ってはいないが、荷物はきちんと運んだらしい。
彼は俺たちの装備を見て、口を開きかけた。
だが、何も言わなかった。
佐伯さんが先に告げる。
「黒瀬氏は集会所待機です。物資整理と外周警備を継続してください」
「俺は戦えます」
「知っています。しかし、今回の確認隊に必要なのは、戦闘力の最大値ではなく、指示系統の安定です」
黒瀬の顔が強張る。
反論はしなかった。
玲奈は、処置場所からこちらを見ていた。
「神代さん」
「はい」
「戻ったら、負傷者の状態を引き継ぎます」
「お願いします」
それだけだった。
でも、玲奈は深く頷いた。
廃坑入口は、昼とは別の場所のように見えた。
投光器が立ち、封鎖杭が打ち込まれ、調査班が張った魔力ロープが入口を囲っている。それでも奥から漏れる風は冷たく、黒水の苦い匂いを含んでいた。
入口近くには、鉱牙狼の爪痕がいくつも残っている。
さっきまで群れがいたのだろう。
調査班が追い払ったと言っていたが、完全に離れたかはわからない。
「目的を確認します」
佐伯さんが端末を掲げる。
「旧坑道浅層の水脈分岐を確認。黒水の流出経路を特定。祠へ続く旧道の有無を確認。深部戦闘は回避。危険度が上がれば即時撤退」
「了解」
俺は頷く。
ミコトは俺の肩に乗った。
「重い」
「神の重みである」
「煮干し二つ分だな」
「三つである」
調査班の一人が、緊張を紛らわすように少し笑った。
坑道へ入る。
足元の砂利が、靴の下で乾いた音を立てる。
壁には古い支柱。
ところどころに、鉱石のような黒い筋が走っている。以前見た時より増えている気がした。
魔素の流れが、壁の奥で脈打っている。
「右の分岐、昨日は崩落跡でした」
俺が言うと、佐伯さんが地図を確認した。
「現在の測定では、右奥に空間反応」
「崩れた先が開いたか、別の階層につながったか」
右の分岐へ進む。
鉱牙狼の死骸が一体、壁際に倒れていた。
調査班が応戦した個体だろう。
傷は浅くない。
だが、問題は傷ではなく、口元から流れている黒い液体だった。
「触らないで」
俺は膝をつき、匂いを確かめる。
黒水と同じ苦さ。
でも、魔獣の体内を通った分、獣臭と鉱石臭が強い。
「この個体、黒水を飲んで変質しています」
「通常の鉱牙狼ではない?」
佐伯さんが聞く。
「鉱牙狼ではあります。でも、胃と魔核が黒水に侵されている。放置すると、死骸からも汚染が広がる」
「処理できますか」
「ここでやります」
俺は解体ナイフを出した。
戦うためではない。
汚染源を増やさないためだ。
首元の毛を分け、魔核につながる筋を探る。黒水はそこに絡んでいた。力任せに切れば、周囲へ飛び散る。
まず、周囲に灰を撒く。
次に、炭を置く。
ナイフを浅く入れ、流れを逃がす。
黒い液体がじわりと滲み、灰に吸われた。
じゅ、と小さな音がする。
焦げた味噌にも似た、苦い匂いが立った。
調査班の一人が息をのむ。
「戦闘後の死骸処理まで、現場で」
「放っておくと食えないどころか水が死にます」
「食えるかどうかが基準に入るんですね」
「入ります」
ミコトが肩の上で頷いた。
「食えぬものを食えるようにし、食ってはならぬものを食わせぬ。それが悠真の仕事である」
佐伯さんの端末が記録音を立てた。
「今の発言は重要です」
「鳴き声で」
「無理です」
短いやり取りの間にも、処理は進む。
魔核を封じ、黒水を灰に吸わせ、死骸を安全な状態にする。素材として使える部分はあるが、今は回収しない。印をつけ、あとで専門処理だ。
さらに奥へ進むと、壁の音が変わった。
水の音。
坑道の奥で、細い流れが響いている。
崩落跡だった場所には、いつの間にか人ひとりが通れる隙間ができていた。岩が押し広げられたというより、内側から溶かされたように縁が丸い。
その向こうから、黒い水が少しずつ滲んでいる。
「ここが分岐か」
俺は壁に手を当てた。
冷たい。
ただの水の冷たさではない。奥から、ゆっくり脈が伝わってくる。
山の血管に手を触れているような感覚。
嫌な比喩だが、それが一番近い。
佐伯さんが測定器を向ける。
「濃度、入口の三倍」
「水脈が直接つながっています」
調査班が封鎖用の杭を準備する。
「ここで塞ぎますか」
「完全に塞ぐと、水が別の弱い場所から出ます」
俺は黒水の流れを見る。
煮物で灰汁をすくう時と同じだ。
表面に出てきた悪いものを、ただ蓋で押さえつければ、鍋全体が濁る。
逃がす道と、受け止める場所がいる。
「一時的に脇へ逃がして、炭と灰で受ける。ここを完全閉鎖するのは、奥の原因を見てからです」
佐伯さんが調査班へ指示を出す。
杭は斜めに。
ロープは水面より少し上。
灰袋を三つ並べる。
俺は魔素の流れを指で探り、黒水を灰袋へ誘導した。
じわじわと、黒い筋が袋に吸われていく。
そのとき、ミコトが肩から飛び降りた。
「こちら」
坑道の隅。
古い木札が、泥に半分埋もれていた。
調査班がライトを当てる。
文字はほとんど読めない。
だが、かすかに残っていた。
『水守りの祠』
その下に、さらに小さな文字。
『供物を絶やすべからず』
もう一行、削れかけた文字があった。
『水を濁すもの、供物にて鎮める』
村の古い言い伝え。
鉱山の水を守る神様。
ミコトの尾が、静かに揺れる。
「忘れられた腹は、拗ねる」
「祠が原因か」
「祠そのものではない。祠が押さえていたものが、腹を空かせている」
坑道の奥から、低い音が響いた。
獣の唸りではない。
水の底で、大きなものが身じろぎしたような音。
佐伯さんが即座に判断する。
「本隊はここまで。目的達成。撤退します」
「了解」
その瞬間、奥の隙間から鉱牙狼が三体、飛び出した。
黒水で目が濁っている。
速い。
だが、俺は前へ出なかった。
「ミコト」
「うむ」
金色の線が、足元に走る。
鉱牙狼の爪が、その線の前で弾かれた。
調査班が封鎖杭を打つ。
佐伯さんが退路を指示する。
俺は灰袋を蹴って、黒水の流れをもう一度ずらした。
戦うより、流れを止める。
今はそれが優先だった。
撤退の途中、背後から鉱牙狼の吠え声が追ってきた。
けれど、ミコトの結界線を越えられない。
坑道を出る直前、俺は振り返った。
奥の闇に、薄く光るものがある。
水面に映る、巨大な目のような光。
そして、かすかな匂い。
腐った水ではない。
腹を空かせた鍋底の、焦げつきの匂いだった。




