第19話 治癒魔法だけでは腹は満ちない
調査班が戻ってきたのは、夜が深くなる前だった。
廃坑入口側から、ライトの光が揺れて下りてくる。先頭の調査員は自力で歩いていたが、後ろの二人は肩を貸されていた。
顔色が悪い。
唇に血の気がなく、首筋には黒い汗のようなものが浮いている。
「集会所へ」
佐伯さんの指示で、村の男衆が担架を出した。
俺は沢の仮処理を終え、ミコトを抱えて集会所へ戻る。指先にはまだ黒水のぬめりが残っていた。洗っても落ちきらない、苦い匂い。
台所では、汁粥がまだ温かかった。
莉子さんが鍋を見ながら、避難者に椀を配っている。
白鳥玲奈は、集会所の隅に作られた簡易の処置場所で、診療所の先生を手伝っていた。
俺が入ると、彼女はこちらを見た。
何か言いたそうにする。
けれど、すぐに負傷者へ向き直った。
それでいい。
今は謝罪の続きをする時間ではない。
「症状は」
俺が聞くと、診療所の先生が答えた。
「高熱ではない。脈は速い。手足のしびれ、吐き気、強い寒気。水を少し飲んだ者がいる」
「黒水ですか」
「たぶん、入口付近の湧き水だ。普段なら使える場所だったらしい」
調査員の一人が、苦しそうに言った。
「すみません……浄水フィルター通したから、大丈夫だと」
「責めません。今は出す方が先です」
俺は台所へ戻り、汁粥の鍋を見た。
避難者用には優しい味で作ってある。
だが、黒水を吸った体には、もう少し強いものがいる。
生姜。
葱。
味噌。
それから、廃坑周辺の魔素に対して使える山菜。
俺は籠の中から、苦みの強い葉を取り出した。村のおばあさんが「昔、鉱山の男たちが胸焼けした時に煎じていた」と持ってきてくれたものだ。
そのままでは苦すぎる。
少し炙る。
香ばしさが出るまで。
鉄臭さを抑えるため、味噌を鍋肌で焦がす。
じゅ、と音がした。
焦げた味噌の香りが立ち、台所の空気を変える。そこへ生姜を加えると、鼻の奥に刺さるような辛みが広がった。
汁粥を小鍋に取り分け、焦がし味噌を溶く。
山菜の苦みを少し。
牙猪の脂を一滴だけ。
温度は熱すぎないように。
飲み込める温かさにする。
「神代さん」
玲奈が台所の入口に立っていた。
「治癒魔法をかけました。でも、魔素が体に残っていて、すぐ戻ります」
「水で入ったものは、体の中から動かさないと抜けにくい」
「私にできることは」
「食べられる状態にしてください。胃が止まっていると、この粥も入らない」
玲奈は一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。
「はい」
彼女の手が、負傷者の腹部に淡い光を当てる。
派手な治癒ではない。
胃のこわばりを緩め、吐き気を少し抑える。昔、俺が苦いスープを飲ませる前に、玲奈が無意識にやっていた補助に近い。
「そのくらいでいい」
「はい」
玲奈は返事をしながら、次の負傷者へ移った。
俺は小さな椀を持っていく。
「少しずつ。飲み込めなければ無理しないで」
調査員は震える手で椀を受け取り、ひと口すすった。
焦がし味噌の苦み。
生姜の熱。
米のとろみ。
喉を通ると、体が小さく震えた。
「……あったかい」
「汗が出たら拭いてください。黒い汗が混じるかもしれない」
調査員は、椀を胸の前で抱えたまま、何度も小さく息を吐いた。
さっきまで歯が鳴るほど震えていた肩が、湯気を吸うたびに少しずつ下がっていく。焦がし味噌の香りが鼻へ抜けたのか、強張っていた眉間がゆるんだ。
隣で見ていた若い調査員が、喉を鳴らす。
「食べ物で、こんなに変わるんですね」
「食べ物だけじゃない。玲奈が胃を動かしたから入った。診療所の先生が見てくれてるから危ない変化を拾える。莉子さんが名簿を作ってるから、誰が水を飲んだかわかる」
俺は椀の底に残った粥を見た。
「鍋は、最後に体へ入る形にしてるだけです」
数分後、調査員の額に汗が浮いた。
最初は黒っぽい。
やがて、普通の汗に変わっていく。
佐伯さんが測定器を当てる。
「体表魔素、低下傾向」
その声に、周囲の空気が少しだけ緩んだ。
だが、完全に安心はできない。
黒水は、まだ沢を下っている。
共同水槽への流入は止めたが、畑の用水路には細い枝流れがある。夜のうちに全て確認するのは難しい。
避難者の中にも、頭痛を訴える人が出始めていた。
「莉子さん、水を飲んだ人の確認を」
「もう始めてます。名簿作ります」
「村長、山側の家には飲用禁止の札を。水道じゃなく井戸の人も念のため」
「わかった」
指示が飛ぶ。
動ける人間が動く。
その中で、黒瀬蓮は集会所の壁際に立っていた。
剣は持っている。
強い戦闘者だ。
だが、今この場で必要なのは、剣で斬ることではなかった。
椀を配ること。
水を運ぶこと。
毛布を敷くこと。
子供を落ち着かせること。
黒瀬は、それを見ていた。
何をすればいいかわからない顔だった。
佐伯さんが彼に近づく。
「黒瀬氏」
「なんですか」
「物資搬入車が麓に到着します。村道の途中から先は大型車が入れません。運搬をお願いします。村の方二名と同行。単独行動は禁止」
黒瀬の眉が動いた。
「俺に荷物運びをしろと」
「はい」
短い返答だった。
黒瀬は何か言いかけ、口を閉じた。
集会所の中では、玲奈が負傷者に手を当て、莉子さんが名簿を作り、村の人たちが椀を洗っている。
彼だけが、役割を選り好みできる空気ではなかった。
「……わかりました」
黒瀬は低く答えた。
その背中を見て、玲奈が少しだけ顔を上げる。
何も言わない。
でも、その沈黙は以前のものとは違っていた。
黒瀬が出ていくと、ミコトが俺の足元に来た。
「悠真」
「どうした」
「あの黒い水、腹の底に主がいる」
「わかるのか」
「匂いがする」
「猫も匂いで読むのか」
「神猫である」
ミコトは当然のように言った。
俺は苦笑しかけたが、すぐに表情を戻す。
佐伯さんが地図を広げていた。
廃坑、沢、水源、古い鉱山道。
その奥に、小さな印がある。
「これは?」
「古い祠です」
村長が答えた。
「鉱山が動いていた頃、山の水を守る神様を祀っていたと聞いている。今は誰も行かん。廃坑の奥へ続く道が崩れてからは、場所も曖昧だ」
ミコトの耳が動いた。
「祠」
佐伯さんが地図へ印を足す。
「調査班の反応があった大型熱源の位置と近い」
集会所の空気が重くなる。
水を守る祠。
廃坑の奥の巨大反応。
黒い沢。
ばらばらだったものが、一本の線につながり始めた。
「根本を止めるには、そこを見る必要があります」
俺が言うと、佐伯さんはすぐには頷かなかった。
「夜間の深部進入は危険です」
「はい」
「ただ、朝まで待つと水源側の汚染が広がる可能性があります」
「はい」
彼女は端末を見た。
数字が並んでいる。
それから、こちらを見る。
「二時間後、浅層までの確認隊を出します。目的は戦闘ではなく、水脈の分岐と祠への旧道確認。神代氏、同行を要請します」
「受けます」
「ミコト」
佐伯さんが珍しく、敬称なしで呼んだ。
ミコトは胸を張る。
「我も行く」
俺は鍋を見た。
まだ粥は残っている。
避難所の人たちは、それを少しずつ食べている。
出る前に、もう一鍋仕込まなければならない。
戻ってくる人間のために。
戻ってこられるように。
俺は米袋を開けた。
夜の台所に、さらさらと米の音が落ちた。




