第18話 黒い沢と汁粥の夜
集会所の台所は、すぐに避難所の厨房になった。
大鍋の中で、けんちん汁が汁粥へ変わっていく。残っていた根菜を小さく刻み、米を足し、水を増やす。味噌は薄めにして、疲れた年寄りや子供でも食べやすいようにした。
湯気が、低い天井の下に溜まる。
大根の甘い匂い。
ごぼうの土っぽい香り。
味噌と米が混ざった、腹の奥を落ち着かせる匂い。
「悠真さん、カフェ側は開けました。毛布と水、非常灯も出してます」
莉子さんがスマホを片手に戻ってきた。
顔は白いが、声はぶれていない。
「配信はしません。でも、チャンネルのコミュニティには注意喚起を出しました。村への来訪禁止。場所詮索禁止。公式発表を待つこと。コメント欄は制限します」
「助かります」
「外から来られたら、村が持ちませんから」
その通りだった。
村の人たちは、静かに集会所へ集まり始めている。足腰の悪い老人、子供連れの母親、山側の家に住む人たち。誰も大声で騒がないが、目だけは山の方を気にしていた。
畳の上には、すでに毛布が何枚も敷かれている。いつもは祭りの寄り合いで使う座卓が壁際に寄せられ、代わりに水のペットボトルと紙コップが並んでいた。
ばあちゃんたちは、持ってきた薬や眼鏡の入った巾着を膝に抱えている。子供たちは眠そうな顔で母親の袖を握り、誰かが戸を開けるたびに肩を跳ねさせた。
鍋の湯気がなければ、もっと息苦しかったと思う。
味噌と米の匂いが、山から来る冷たい不安を、少しずつ押し返していた。
蒼太も母親に手を引かれて来た。
俺を見ると、少しだけ肩を縮める。
「悠真兄ちゃん、また山行くの」
「まだ決めてない。まずは沢を見る」
「危ない?」
「危ないかもしれない。だから、ここでお母さんと待ってろ」
蒼太は唇を結んだ。
その視線が、足元のミコトへ落ちる。
「ミコトも行く?」
「にゃ」
ミコトは当然のように鳴いた。
蒼太は小さな袋を差し出す。煮干しだった。
「これ、持ってって」
「蒼太」
母親が止めようとしたが、ミコトは袋に鼻先を寄せ、ひとつだけくわえた。
そして、残りを前足で蒼太の方へ押し戻す。
「にゃ」
「残りは待ってる間に食べろ、だそうです」
俺が訳すと、蒼太は泣きそうな顔で笑った。
「うん」
ミコトが見上げてくる。
「悠真、粥」
「ミコト用か」
「違う。行く者が食べる分」
正論だった。
俺は小さな椀に汁粥をよそい、立ったまま食べた。
米のとろみが舌に乗る。味噌は薄いが、根菜から出た甘みがある。牙猪の脂が少しだけ浮いていて、喉を通ると体が温まった。
外へ出る前の飯。
危ない場所へ行く人間の腹に、まず火を入れる。
昔の鉱山村がやっていたことを、今ここで俺もしている。
「神代氏」
佐伯さんが台所の入口に立っていた。
上着を脱ぎ、動きやすい服装に変えている。手には測定器と記録端末。
「沢の確認に同行します。調査班が廃坑入口側を封鎖中。こちらは村側の水源確認です」
「了解です」
「同行者は私、神代氏、ミコト。村長には集会所待機をお願いします」
「黒瀬さんと玲奈は?」
莉子さんが低く聞いた。
集会所の端で、黒瀬と玲奈は距離を置いて座っている。
黒瀬は黙って床を見ていた。玲奈は蒼太の母親に声をかけ、怪我人がいないか確認している。
「白鳥氏には避難者の体調確認を依頼します。治癒魔法の使用は私の許可下で。黒瀬氏は、監査対象のため単独行動禁止。必要があれば物資運搬を依頼します」
佐伯さんの判断は早い。
黒瀬が一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。
反論する立場ではないと、本人もわかっているのだろう。
俺は汁粥の火を弱め、莉子さんに鍋を任せた。
「味が濃くなったら湯を足してください。子供用はこの小鍋。ミコトの分は」
「食べさせすぎない、ですね」
「はい」
「にゃ」
ミコトが不服そうに鳴く。
その鳴き声で、台所の空気が少しだけ緩んだ。
沢は、村の北側を流れている。
山の斜面から湧いた水が、細い流れになって畑の横を抜け、共同水槽へ入る。普段なら透明で、手を浸すと骨まで冷えるような水だ。
今夜の沢は、暗かった。
月明かりのせいではない。
水そのものに、黒い膜のようなものが混ざっている。
石の間を流れるたび、ぬるりとした光が揺れた。
「数値、上がっています」
佐伯さんが測定器を見る。
「飲用基準を超過。共同水槽への流入は」
「まだ途中で止められます」
俺は沢の匂いを嗅いだ。
鉄。
湿った岩。
それから、焦げた穀物のような苦い匂い。
水に指をつける。
「神代氏」
「舐めません」
「当然です」
指先にまとわりついた黒い膜を、月明かりにかざす。
魔素が濃い。
ただの汚染ではない。水脈を通って、廃坑の奥から何かが流れ出している。鉱石の粉と魔物の体液と、古い結界が腐ったような匂い。
「味で言うなら、灰汁が回りすぎた煮汁です」
「比喩ですか」
「半分は」
ミコトが沢の縁に立ち、毛を逆立てた。
「これは水ではない。山の腹に溜まった澱みである」
佐伯さんの端末が、また記録音を立てる。
「ミコト、今のは鳴き声で通すのは無理だぞ」
「構わぬ。急ぎである」
ミコトの金色の目が、沢の上流を向く。
廃坑の方角だ。
俺は布袋から炭と粗塩を取り出した。集会所を出る前に持ってきたものだ。山仕事の水を一時的に澄ませる時、昔の人が使っていた方法に、俺の魔力処理を少し足す。
沢の途中に小さな石組みを作り、炭を置く。粗塩を少し撒き、魔素の流れを指先で引く。
黒い膜が、炭の表面にゆっくり絡んだ。
水の色が、わずかに薄くなる。
「一時的なものです」
「どの程度持ちますか」
「流量次第です。根本を止めないと、炭が負けます」
佐伯さんは頷き、すぐに連絡を飛ばした。
「共同水槽への流入を閉鎖。飲用禁止を徹底。代替水の搬入を要請」
その声を聞きながら、俺は上流を見た。
沢の奥。
木々の隙間で、黒い水が一瞬だけ脈打った。
水面に、丸い泡が浮く。
泡は割れず、ゆっくり形を変えた。
目のように。
ミコトが低く唸った。
「悠真」
「ああ」
ただ水が汚れているだけではない。
向こう側から、こちらを見ているものがいる。
俺たちが沢を守ろうとしていることに、気づいたものが。
その瞬間、上流から獣の遠吠えが響いた。
鉱牙狼の声。
それも、一体ではない。
佐伯さんが端末を握り直す。
「調査班から追加報告。廃坑入口側に鉱牙狼の群れが接近中」
夜の山が、ざわりと揺れた。
俺は炭で黒くなった指を拭き、集会所の方を振り返る。
あそこには、粥を待つ人たちがいる。
守るものの匂いが、まだ服に残っていた。




