第13話 白鳥玲奈は味を思い出す
白鳥玲奈は、冷めたコンビニ弁当を前にしていた。
探索者用宿舎の小さなテーブル。
蛍光灯の光は白く、窓の外には夜のビル群が並んでいる。味噌汁代わりに買ったカップスープは、湯を入れてから時間が経ちすぎて、表面に薄い膜が張っていた。
箸を持つ。
けれど、口に運べない。
スマホの画面では、神代悠真の救助動画が何度も再生されていた。
蒼太という少年を背負い、坑道から出てくる悠真。
その足元で、白い猫が淡い光をまとっている。
村人たちは泣き、頭を下げ、誰かが「ありがとう」と言う。
悠真は、困ったように頷くだけだった。
玲奈は画面を止めた。
悠真の横顔。
見覚えのある顔だった。
違う。
見覚えがあるどころではない。
かつて同じパーティにいた。
同じ焚き火のそばで、同じ鍋を囲んだ。
同じダンジョンで、同じ煙を吸った。
「……どうして」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
黒瀬蓮が公開した暴露動画は、再生数だけなら伸びている。
だが、コメント欄は蓮の思い通りにはなっていなかった。
『告発するなら原本出して』
『昨日の救助動画見たあとだとタイミング悪すぎ』
『神代が置き去りにしたって本当? 映像切れてる部分が一番大事じゃない?』
『料理しかできない無能、という表現がもう無理ある』
『暁の剣、最近攻略失敗続きなのはなぜ?』
玲奈は、最後のコメントで指を止めた。
攻略失敗続き。
その言葉は、チーム内で禁句に近い。
悠真が抜けてから、《暁の剣》の成績は確かに落ちている。
最初は偶然だと思っていた。
ダンジョンの相性が悪かった。
依頼の難度が上がった。
装備の更新時期が重なった。
言い訳はいくらでもあった。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
玲奈は、カップスープをひと口飲んだ。
ぬるい。
塩気だけが舌に残る。
その瞬間、別の味を思い出した。
悠真が作っていた、夜明け前のスープ。
ダンジョンから戻ったあとの体は、いつも鉛みたいに重かった。魔素を浴び、汗と血と薬草の匂いが混ざり、治癒魔法を使った後の玲奈の指先は冷えきっていた。
そんなとき、悠真は何も言わずに小鍋を火にかけていた。
干し肉を細かく裂き、乾燥野菜を戻し、少しだけ酸味のある葉を浮かべる。
派手な料理ではない。
けれど、一口飲むと喉の奥から温まり、次の呼吸が少し楽になった。
「玲奈は魔力を使いすぎた。先に飲め」
「蓮さんたちは?」
「あっちは肉を焼いてる。お前はこっち」
そう言って、悠真は玲奈の椀にだけ、苦い薬草を一枚沈めていた。
あの苦さが嫌いだった。
でも、飲むと翌朝の頭痛が軽かった。
悠真がいなくなってから、その頭痛は戻った。
玲奈は箸を置いた。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
彼がしていたのは、本当に雑務だったのか。
玲奈は立ち上がり、部屋の隅の収納ケースを開けた。
古い探索記録。
予備の記録水晶。
折れた杖の部品。
もう必要ないと思っていたものを、ひとつずつ引っ張り出す。
目的の記録は、すぐには見つからなかった。
あの日。
B級ダンジョン中層。
突然変異のモンスター。
崩落しかけた通路。
煙。
蓮の声。
悠真が逃げた、と言われた日。
玲奈は、自分の記憶を信じきれなかった。
煙が濃くて、音が反響して、どこから誰の声がしたのかわからなかった。だから会議室で、玲奈は「ちゃんとは見えていない」と言った。
蓮が、悠真が先に離れたと言った。
蓮が、悠真が物資を持っていたと言った。
蓮が、悠真の判断ミスで後衛が危険になったと言った。
なら、そうなのかもしれないと思った。
思ってしまった。
「違ったら?」
声に出した瞬間、胃が縮んだ。
収納ケースの底で、小さな水晶が転がった。
玲奈はそれを拾い上げる。
自分の杖につけていた補助記録水晶。
本来は治癒魔法のログを残すためのものだ。映像は荒い。音声も途切れやすい。公式記録には使えない補助データ。
だから、誰にも提出しなかった。
玲奈自身も、忘れていた。
端末に接続すると、古いファイルが開いた。
画面は暗い。
煙でほとんど何も見えない。
耳障りな轟音。
誰かの荒い息。
そして。
『玲奈、左に走れ!』
悠真の声だった。
玲奈の手が止まる。
映像は揺れ、壁に叩きつけられるような衝撃が入った。
『蓮、後衛を出せ! ここは俺が止める!』
『うるさい! お前が遅れたからこうなったんだろ!』
蓮の声。
怒鳴り声。
その直後、画面の隅に悠真の背中が映った。
煙の中で、悠真は玲奈たちの進路とは逆へ向かっていた。
逃げていない。
戻っている。
崩れかけた通路の方へ。
玲奈は呼吸を忘れた。
映像はそこで途切れた。
公式記録より短い。
決定的な全体像ではない。
けれど、玲奈の胸に刺さっていた違和感には、形を与えるだけの力があった。
そのとき、部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「玲奈、いるか」
蓮の声だった。
玲奈は慌てて端末を閉じる。
扉を開けると、黒瀬蓮が立っていた。髪は整えているが、目の下に薄い影がある。スマホを握る手に力が入りすぎて、指先が白い。
「動画、見たか」
「見ました」
「コメント欄が荒れてる。くだらない連中が騒いでるだけだが、玲奈からも一言出せ」
「一言?」
「あの時、悠真に置いていかれたのはお前だ。お前が言えば、黙る」
玲奈の喉が詰まった。
以前なら、頷いていたかもしれない。
自分は被害者なのだと。
蓮が守ってくれたのだと。
そう思い込む方が楽だったから。
「蓮さん」
「なんだ」
「監査部から原本提出の要請が来たんですよね」
蓮の表情が硬くなった。
「ああ」
「どうして拒否したんですか」
「手続き上の問題だ。いきなり原本を出せと言われて、はいそうですかと渡す馬鹿がいるか」
「でも、出せばはっきりします」
「はっきりしているだろ」
蓮の声が低くなる。
「あいつはチームを乱した。自分の仕事もまともにできず、最後には俺たちの足を引っ張った。今さら田舎で猫と飯を使って善人ぶっているだけだ」
「本当に、そうですか」
言った瞬間、部屋の空気が変わった。
蓮の目が細くなる。
「何が言いたい」
「悠真さんが抜けてから、私たちの状態管理が悪くなりました。遠征後の魔素酔いも増えています。回復薬の消費も倍近い。食料の破棄も多い」
「だからなんだ。雑用が一人減れば、多少手間は増える」
「多少、ですか」
「玲奈」
蓮は一歩近づいた。
「お前まで、あいつに騙されるのか」
騙される。
その言葉に、玲奈は胸の奥が冷えるのを感じた。
騙されていたのは、誰なのだろう。
悠真に。
それとも、蓮に。
あるいは、自分自身に。
「すみません。今日は、疲れているので」
玲奈は扉に手をかけた。
蓮はしばらく彼女を睨んでいたが、やがて舌打ちをして背を向けた。
「明日の攻略配信には出ろ。俺たちが本物だと見せる」
「攻略配信?」
「ああ。田舎の料理人と猫に話題を持っていかれるなんて、冗談じゃない」
蓮はそう言い捨て、廊下を去っていった。
扉が閉まる。
玲奈はその場に座り込んだ。
手が震えている。
怖い。
蓮に逆らうことも。
自分が間違っていたと認めることも。
会議室でうつむいたまま、悠真の目を見なかった自分を思い出すことも。
全部、怖かった。
けれど、端末の中には声が残っている。
『玲奈、左に走れ!』
あの時、自分を逃がした声。
鍋を差し出してくれた手。
苦い薬草を、少しだけ沈めたスープ。
玲奈は立ち上がり、端末を開いた。
監査部の連絡先は、ギルド通知に記載されている。
佐伯真尋。
担当監査官。
玲奈は何度も文章を書き直した。
謝罪の言葉を入れようとして、消した。
言い訳を書こうとして、消した。
最後に残ったのは、短い文だけだった。
『白鳥玲奈です。当時の補助記録水晶を所持しています。正式な証拠になるかわかりませんが、確認していただきたいことがあります』
送信ボタンに指を置く。
一度、深く息を吸った。
そして、押した。
返信は、思ったより早かった。
『明日、確認します。記録媒体を保全してください。誰にも渡さないでください』
玲奈は端末を胸に抱えた。
冷めた弁当は、もう食べられなかった。
代わりに、どうしようもなく、温かいスープの味を思い出していた。




