第10話 迷子救出と神猫の本気
廃坑の入口は、山肌に黒く口を開けていた。
立入禁止のロープは、片側が外れかけている。子供ならくぐれてしまう隙間があった。
「蒼太!」
返事はない。
代わりに、奥から湿った風が吹いた。
鉄と土と、魔素の匂い。
そして、かすかに。
「……泣き声」
俺は迷わず中へ入った。
胸ポケットのスマホが、暗闇の中で小さく光る。さっきまでの配信は、まだ切れていない。
『え、ほんとに廃坑?』
『暗い』
『ちょっと待って、子供の名前呼んでる?』
『これガチ?』
『危なくない?』
『誰か通報した方がよくない?』
足音が坑道に響く。
昨日までに確認していた範囲の地形を頭の中でなぞる。入口から三十メートルほど進むと分岐。右は崩落跡で行き止まり。左は氷結トラウトが出た水脈へ続く。
だが、子供の泣き声は、右奥から聞こえた。
崩落跡。
嫌な予感がした。
「蒼太! 聞こえたら返事しろ!」
「……っ、う、うわあああん!」
返ってきた。
細く、震えた声。
同時に、獣の唸り声が坑道を揺らした。
『今の何?』
『子供の声した』
『演出じゃないだろこれ』
『やばいやばいやばい』
『悠真さん早く!』
『音が本物すぎる』
俺は速度を上げた。
右の分岐を曲がる。
崩落した岩の手前、わずかに開いた横穴。その奥で、蒼太が尻もちをついていた。
頬は泥で汚れ、膝から血が滲んでいる。手には、ミコトにあげるつもりだったのか、小さな煮干しの袋を握りしめていた。
そして、その前にいた。
狼に似た体躯。だが背中には鉱石のような突起が並び、口の端から黒い涎を垂らしている。
鉱牙狼。
廃坑型ダンジョンで、魔素を吸った獣が変質した個体だ。
普通の猟師では手に負えない。
まして、子供が逃げ切れる相手ではない。
「蒼太、動くな」
「ゆ、悠真兄ちゃん……!」
鉱牙狼がこちらを見た。
俺と蒼太の間には、まだ距離がある。
魔獣の方が近い。
鉱牙狼が身を沈めた。
飛ぶ。
そう判断した瞬間、肩の上のミコトが消えた。
「にゃあ」
その声は、いつもの間延びした鳴き声だった。
けれど、坑道の空気が変わった。
蒼太の前に、白い小さな影が降り立つ。
ふわり、と尾が揺れた。
次の瞬間、金色の光が円を描いた。
それは薄い膜のように蒼太を包み込む。古い神社の鈴を鳴らした時のような、澄んだ音が坑道に響いた。
鉱牙狼の爪が、その光に叩きつけられる。
ぎいん、と金属を裂くような音。
だが、光は揺らいだだけで破れない。
「にゃ」
ミコトが振り返り、蒼太の鼻先を前足でちょんと押した。
泣いていた蒼太が、しゃくり上げながらも固まる。
『猫!?』
『今の何!?』
『結界?』
『猫が守った?』
『ミコト様!?』
『これCGじゃないよな?』
『子供、無事!?』
「よくやった、ミコト」
俺は腰を落とし、鉱牙狼の動きを見る。
魔獣は一度弾かれたことで、標的を変えた。
俺に向かってくる。
速い。
牙猪より軽く、角兎より鋭い。鉱石化した牙は、骨ごと肉を噛み砕く硬度がある。
だが、遅い。
異世界の深層で相手をした魔獣に比べれば、あまりにも直線的だった。
俺は一歩、前に出た。
鉱牙狼の爪が頬の横を掠める。
その瞬間、俺は左手で前脚の関節を取った。
流す。
崩す。
右手の解体ナイフを、首元の魔核につながる筋に差し込む。
料理の時と同じだ。
余計に傷つけない。
必要な場所だけを断つ。
「終わりだ」
一閃。
鉱牙狼の巨体が、勢いのまま俺の横を抜け、地面に叩きつけられた。
坑道が揺れる。
魔獣は一度だけ痙攣し、それきり動かなくなった。
血の匂いが広がる前に、俺はナイフを振って払った。
呼吸は乱れていない。
手も震えていない。
ただ、心臓の奥だけが冷たかった。
間に合わなかったかもしれない、という想像が、今さら背中を撫でたからだ。
『一撃……?』
『今、何した?』
『速すぎて見えなかった』
『本物だ』
『子供助かった!?』
『悠真さん、蒼太くん見て!』
『すごいとか言ってる場合じゃない、早く外へ!』
「蒼太」
俺は魔獣から目を離さないまま、結界の中の子供へ声をかけた。
「痛いところは?」
「ひ、膝……あと、こわい……」
「よし。怖いのは正常だ。ちゃんと生きてる証拠だ」
ミコトの結界が、すっと薄くなる。
蒼太は泣きながらミコトに抱きつこうとしたが、ミコトはひらりと避けた。
「にゃ」
その代わり、前足で蒼太の手元を叩く。
煮干しの袋。
蒼太はぐしゃぐしゃの顔で、それを差し出した。
「ご、ごめん、ミコト……あげようと思って……勝手に山、入って……」
「にゃあ」
ミコトは袋の匂いを嗅ぎ、ひとつだけ器用に取り出して食べた。
そして、蒼太の膝に額をこすりつける。
金色の光が、ほんの少しだけ滲んだ。
血は止まらない。傷が完全に塞がったわけでもない。
けれど、蒼太の顔から痛みの色が薄くなった。
「……あれ、ちょっと痛くない」
「ミコト、無理するな」
「にゃ」
返事はいつも通りだったが、金色の目には、少しだけ得意げな色があった。
神猫。
俺はこれまで、半分冗談のようにそう呼んでいた。
だが今、坑道の薄闇の中で、ミコトの白い毛は淡く光をまとっていた。小さな体なのに、背後に大きな鳥居が立っているような錯覚を覚える。
かわいい。
それは間違いない。
だが、それだけではない。
この猫は、本当に何かを守る側の存在なのだ。
『ミコト様……』
『猫じゃない』
『いや猫だけど猫じゃない』
『泣いた』
『蒼太くん無事でよかった』
『悠真さん冷静すぎる』
『誰か村の人来た?』
『配信切らなくてよかった。証拠残ってる』
「蒼太、立てるか?」
「う、うん……」
「背負う。首に腕を回して」
俺は蒼太を背負った。
子供の体は軽かった。けれど、背中にしがみつく手は震えている。
「悠真兄ちゃん……怒る?」
「怒る。外に出て、お母さんに会って、怪我を見てもらってからな」
「……うん」
「でも、今は助かったことだけ考えろ」
蒼太が小さく頷いた。
ミコトは先頭を歩く。
足元に小さな金色の光が灯り、暗い坑道を照らしていた。
入口が見える頃には、外からいくつもの声が聞こえてきた。
「悠真くん!」
「蒼太!」
「中にいるのか!」
「入らないでください! 今出ます!」
俺がそう叫ぶと、入口の向こうがざわめいた。
外へ出た瞬間、蒼太の母親が崩れるように駆け寄ってきた。
「蒼太!」
「お母さあああん!」
背中から降ろした蒼太が、母親に抱きしめられる。
母親は泣きながら、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「膝を怪我してます。応急処置を。魔獣に直接やられてはいません」
村の診療所の先生が、すぐに蒼太を抱えるようにして傷を見始めた。
周りに集まった村人たちは、誰も軽い言葉を口にしなかった。
ただ、俺とミコトを見ていた。
それから、一人の老人が深く頭を下げた。
「神代悠真くん」
「はい」
「この村の子を助けてくれて、本当にありがとう」
その言葉を合図にしたように、周囲の大人たちが次々と頭を下げた。
「ありがとう」
「悠真くんがいてくれてよかった」
「ミコトちゃんも、ありがとうねえ」
「にゃ」
ミコトは当然のように胸を張った。
その姿を見て、泣いていた蒼太まで少し笑った。
「ミコト、かっこよかった」
「にゃあ」
ミコトはもう一度、蒼太の近くに寄った。
そして、今度は逃げずに、蒼太の手の甲へ鼻先をつけた。
蒼太はまた泣きそうになりながら、そっとミコトの頭を撫でた。
俺はその光景を見て、ようやく息を吐いた。
助かった。
それだけでいい。
配信がどうなっているかなんて、今は本当にどうでもよかった。
だが、胸ポケットのスマホでは、コメントが滝のように流れていた。
『神代悠真、マジで何者?』
『追放したギルド見る目なさすぎだろ』
『救助優先で配信忘れてるの本物』
『ミコト様の結界、完全に神獣』
『村の人たちの反応で泣いた』
『これ拡散しろ』
『切り抜きもう上がってる』
『黒瀬蓮の暴露動画とかどうでもよくなった』
『白鳥玲奈、これ見てる?』
『本物の英雄ってこういうことだろ』
「悠真さん」
いつの間にか来ていた莉子さんが、スマホを持って立っていた。
顔色は悪い。でも、目は強かった。
「配信、まだ生きてます」
「……ああ」
「同接、見たことない数字になってる。切り抜きも、もう止められないくらい回ってる」
「そうか」
俺は短く答えた。
莉子さんは少しだけ眉を下げる。
「悠真さん、たぶんこれから大変になる」
「だろうな」
「でも」
莉子さんは、蒼太を抱きしめる母親と、村人たちと、ミコトを見た。
「今日のこれは、誰にも悪いようには言わせない」
その声には、元動画編集者としての冷静さと、この村の人間としての怒りが混ざっていた。
俺は頷いた。
「頼む」
「任せて」
莉子さんが配信に向かって、落ち着いた声で説明を始める。
俺はその隣で、廃坑の入口を振り返った。
奥から漂う魔素は、さっきよりも濃くなっている。
鉱牙狼が一体だけとは限らない。
ダンジョン化は、俺たちが思っているより進んでいるのかもしれない。
足元で、ミコトが小さく鳴いた。
「にゃ」
「分かってる。今日は終わりじゃないな」
俺がそう呟くと、ミコトは尻尾をぴんと立てた。
その頃。
都内のダンジョン庁、監査部。
一人の女性が、拡散され続ける救助動画を無言で見ていた。
黒髪を後ろで束ね、細い銀縁眼鏡をかけた監査官。
佐伯真尋。
彼女は、鉱牙狼を一撃で仕留める神代悠真の動きと、金色の結界を張る白猫を何度も巻き戻した。
「……未登録の高位帰還者。加えて、神獣級の伴侶個体の可能性」
佐伯は端末に調査申請を打ち込む。
対象者名。
神代悠真。
所在地。
山間部、旧廃坑ダンジョン周辺。
「これは、直接確認が必要ですね」
送信ボタンが押される。
画面には、正式監査開始の文字が静かに表示された。




