35 ひなぎくタイマー
息つく暇もないゲームは虹子が予想もしなかった形で、あっさりと決着した。残り1分半で紅組の黄宮ひなぎくの動きが停止したのだ。
楕円形のような眉毛が完全に下がり、ぼーっと立ち尽くすひなぎくをよそに、事実上の3対2になった状況で、形成は一気に白組に傾いた。蝶野さくらのパスから橙山華が抜け出して追い付くと、今度は荻野目蒼のパスから華が囮になり、さくらが抜け出して赤組がわのエンドを越えた。
終了間際に白組が勝ち越し。それから間も無くタイムアップの笛が鳴り響いた。白組の3人が輪になって喜ぶ横で「まあ仕方ないわね」と紺野巴が言って、銀谷静とゆっくりグラウンドを周回する。その場に大の字で仰向けになったひなぎくは「どつかれた〜」と空に向かって叫んでいた。
虹子「どつかれた?白組、ひなぎくになんかしましたっけ」
梨恵「とても疲れたってこと」
虹子「ああ、なるほど」
恵子さんが倒れているひなぎくのもとに駆け寄り、上着のポケットからバナナを取り出して、ひなぎくの口に突っ込む。
「これで我慢してね。今日のお昼は特別にプリンを二個つけるから」と恵子さんが言うと、がばっと起き上がり「しょんないやあ」と叫ぶと、ガバッと起き上がり、いきなり猛スピードで巴と静を追いかけた。
虹子「何なんだ、あれ」
梨恵「ひなぎくはいつもあんな感じよ」
虹子「え、試合でも?」
梨恵「そうね。抜きどころを知らないから、だいたい途中でへなるわね」
虹子「それって、かなりまずいんじゃ・・・」
梨恵「ひなぎくタイマーと呼んでいて、疲労が出ると眉毛が下がってくるの。それで下がり切ったらアウト。さっきも、止まる少し前には下がっていたわ」
虹子「そのタイミングで交代?」
梨恵「流れ次第ね。試合中の飲水で多少は回復するから。バナナドリンクで」
虹子「そんな魔法のアイテムが」
残りの時間は自主練となった。何をしようか考えていた虹子に、華が「虹ちゃん、一緒に蹴ろう」と声をかけてきた。「おうっ!」と答えた虹子は心の中で歓喜のガッツポーズをしていた。
短い距離からパス交換を始めて、少しずつ距離を伸ばす。40メートルぐらいになったところで固定して右足、左足と順番に蹴る。
虹子のボールは真っ直ぐに華に届かず、手前でバウンドしてしまったり、左右にズレたりした。一方の華からのボールはほとんど誤差無く、虹子の正面から少し横の位置、つまり左右どちらの足でトラップしやすいように、順回転のボールが来た。
こうした基本的なところでも、しばらくサッカーから離れていた虹子との差は明らかだ。そこから華は少し曲がる横回転のボールを蹴ったり、縦に落ちるボールを蹴ったりしたが、虹子は左右の足で順回転のボールを蹴り続けた。
虹子のキック精度も少し上がってきたところで、太腿のあたりに重さを感じる。それを察したのか、華がドリブルで虹子に近付いて来た。
華「虹ちゃん、1対1やろ。軽めにね」
虹子「おうっ」
華は虹子と向き合いながら、トリッキーなボールタッチで揺さぶりにきた。虹子がボールを奪いに行く。華がターンでかわす。
うまい・・・
30秒ぐらい、ボールが奪えないまま何度もかわされた。「はい、次は虹ちゃんの番」と言って華がボールを渡してくれた。
「屈辱・・・」
虹子は凌駕との1on1を思い出しながら、左右の足で交互にボールをコントロールして、華が足を出してくる瞬間にスパイクのソールで引く。その瞬間、華が唐突に加速してボールを虹子の足と地面から解放した。そして少し離れた場所で、虹子をからかうようにリフティングを開始する。
華「虹ちゃん、こっちたよ〜」
虹子「まて、華っ!」
結局、ボールを一度も華から奪えないまま自主練の時間が終わった。
「やっぽ、うまいな華は」
虹子が素直に認めると、華が「虹ちゃんこそ、サッカー再開して、ひと月しか経ってないんでしょ。末恐ろしいわ」とすかさずフォローを入れられてしまった。
弁天島では華との再開をベストタイミングなんて言ってしまったが、虹子は自分の中にある焦りを認めざるを得なかった。




