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五十嵐記念病院21

深夜は、夜の病院を怖がっていた。


用があったとしても、黙って一人で部屋を出るとは考えにくい。


「ハルエちゃん」


目を開けたハルエちゃんが、空いた隣へ顔を向ける。


「深夜が出ていったの、気づいた?」


「……知らない」


ハルエちゃんはめくれた掛け布団へ手を置いた。


「少し探してくる。ハルエちゃんは、ここで待っていて」


ハルエちゃんが小さく頷くのを確かめ、部屋を出た。


早朝の廊下には誰もいない。

薄暗さの中に、消毒液の臭いだけが長く残っていた。


階段を上がり、病棟を回り始めると、何人かの信者とすれ違った。


昨夜の奇跡について、声を潜めて話している。

深夜を見なかったか尋ねると、それぞれ足を止めた。


「深夜様ですか? 見ていませんね」


「お手洗いでは?」


「お会いできたら探されていたことをお伝えします」


礼を告げ、次の場所へ向かう。


洗面所やトイレ、多目的ホールまで順に確かめたが、深夜の姿はなかった。


「おーい、依代!」


背後から、よく通る声が飛んできた。


振り返ると、伊豆子さんが片手を振りながら廊下を歩いてくる。


三歩ほど手前で止まり、周囲を気にするように声を落とした。


「昨日はびっくりしたで。深夜もエゴ使えたんやな」


口元には、いつもの軽い笑みが浮かんでいる。


「まあ、警戒するんは分かるし、しゃあないけどな」


「……その深夜がいなくなりました」


伊豆子さんの笑みが消えた。


「……は?」


「ベッドからいなくなっています。病院内を探しましたが、見つかりません」


「昨日の夜は?」


伊豆子さんが一歩、距離を詰める。


「寝るところまではおったんやろ?」


「はい。目を覚ました時には、いなくなっていました」


「見た人は?」


「いまのところは……」


伊豆子さんが白衣の胸元を掴むと、布が小さく鳴った。


「そんな……どこに……」


「一緒に探してくれますか」


伊豆子さんは強く頷いた。


二人で病棟を回り、廊下の左右に分かれて病室を覗いていく。


廊下の角を曲がると、前髪を撫でつけながら歩いてくる枚方さんと鉢合わせた。


枚方さんは僕たちの一歩手前で立ち止まり、ジャケットの前を指で払った。


「……ふん。昨夜は、なかなか派手な演出でしたね」


「どういう意味ですか」


「新しい使徒、でしたか」


口元だけが薄く持ち上がる。


「あの少年も、注目を浴びて満足したでしょう」


「?」


「使徒を気取る小細工など、長くは続きませんよ」


鼻から短く息を抜く。


「偽物だと知れれば、大変なことになるでしょうね」


「……その深夜がいなくなりました」


枚方さんの眉が、わずかに上がった。


「何か知っていますか」


「知りませんね」


首を傾ける仕草だけは丁寧だった。


「おおかた逃げ出したのでしょう」


枚方さんは肩をすくめる。


「友人が炎へ落ちるところを、自分を売り込む好機に変えたまではよかった」


口元だけが薄く持ち上がった。


「けれど、使徒を演じ続ける度胸まではなかったようですね」


ゴッ、と鈍い音が鳴った。

枚方さんの顔が横へ弾け、身体が壁へぶつかる。


拳へ、骨を直接打った感触が残っていた。


鼻を押さえた指の隙間から血が滲み、僕の指にも生温かい湿りが付いている。


「な、何を……っ!」


枚方さんが目を見開いた。

怒りより先に、殴られた事実を理解できていない顔だった。


「貴様……自分の立場が分かっているのか!?」


鼻を押さえたまま声を荒らげる。


「配給を止めてやる! 今日の食料も、水も……お前には一切渡さん!」


僕は拳を下ろさず、枚方さんを見た。


枚方さんの口が開く。

けれど、声は続かなかった。


自分から一歩後ろへ下がる。


「か、勘違いするなよ!」


視線を逸らしたまま吐き捨てる。


「お前なんか、ただの……」


最後まで言い切らず、踵を返した。

前髪を直すこともなく、灰色の背中が廊下の角へ消えていく。


短い沈黙のあと、隣から低い声が漏れた。


「もうちょいはよ殴れば100点やったな」


伊豆子さんは、枚方さんが消えた方を睨んでいる。


「暴力は嫌いなんですよ」


「ダウト」


口の端を僅かに上げたあと、すぐに表情を引き締めた。


「二人で同じ場所探しとっても、埒が明かんな。うちは南棟を見てくる。あんたは?」


「西棟の倉庫周辺を確認します」


「分かった。何か見つけたら呼びにいくわ」


頷き、それぞれ反対方向へ歩き出すと、廊下の奥で足音が二つに分かれていった。


その姿を。


階段脇の暗がりから、じっと見つめている影があった。



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