吉祥寺
階下にいたゾンビを一体始末し、その血を染み込ませた布切れの端を屋上の柵へ引っかける。
もう一方の端を、太い黒色の被覆線へ投げた。
濡れた布が引っかかり、ぶらぶらと風に揺れる。
弾ける音も、焦げた臭いもしない。
しばらく待っても、変化はなかった。
……試せることは試した。
「ここまできて感電死は勘弁してほしいな……」
腰に巻いたロープを結び直す。
反対側の先についた金具を電線へ通し、手で掴んだ。
意を決して電線へ飛び移る。
足元が大きく揺れ、反射的にロープを握り締めた。
身体に異変はない。
……幸いなことに、僕の冒険がここで終わることはなさそうだ。
金具を手で滑らせながら、慎重に進む。
一歩進むたび、靴底が黒い被覆へキュッと沈んだ。
地上では、僕に気づいていないゾンビたちがふらふらと歩き回っている。
腕を失ったものや、顔の半分を削られたもの。
腹から垂れたものを引きずりながら、それでも何かを探すように首を揺らしているものもいた。
視線を下へ向けるたび、足の裏がむず痒くなる。
肩に力が入り、背中を汗がゆっくりと伝った。
一度だけ、学校の方角を見る。
校内のゾンビをある程度引きつけたとはいえ、まだ相当な数が残っているはずだ。
指輪の中には、まだ大量の聖水がある。
だからといって、先ほどのように瓶ごと投げ続ければすぐに底をつく。
教頭の動きは気になるけど、無月たちがすぐに崩れるとは思えない。
準備と対策が必要だ。
学校とは反対側の市街地へ進む。
足元と、その先の電線だけを見続け、首が痛くなってきた頃に顔を上げた。
まだ背の高い建物が多い。
ガラス張りの商業ビルの横を通り過ぎながら、中の様子を窺う。
非常電源が残っているのか、一部の階にはまだ薄い明かりが灯っていた。
緑色の非常口が暗いフロアに浮かび、その前を人影が横切る。
ショーウィンドウの中では、人の形をした何かがガラスへ額を押しつけ、外へ出ようと爪を立てていた。
指先が擦れるたび、ガラスの向こうから微かな音が届く。
商品と一緒に、狂気まで展示されているようだった。
「……三日で、ここまでか」
スマートフォンの電池は、とうに切れていた。
ニュースも地図も見られない。
けれど、初日に目にした断片だけは頭に残っている。
人が人に噛みつき、血を流しながら押し倒される短い映像。
その下には、噛まれたら終わり、釣り、やらせ、グロ注意という見慣れた言葉が並んでいた。
地獄の映像の上に、日常の言葉が貼りつく。
世界の終わり自体には、さして興味を持てない。
それでも、ふと両親の顔が浮かんだ。
あの人たちなら、こんな時どうしていただろう。
大通りを三鷹方面へ進み続ける。
高い建物が少なくなり、ようやく視界が開けてきた頃には、足の裏が痺れ始めていた。
電線を支える金具まで進み、ロープを一度巻きつける。
身体を預け、その場へ腰を下ろした。
首をゆっくりと回すと、首筋がぱきぱきと音を立てる。
見上げた空は、腹が立つほど青い。
白い雲が、何事もなかったようにゆっくりと流れていた。
「そろそろ、本格的に休める場所を探さないとな」
住宅街の奥へ目を向ける。
戸建ては多い。
だが、一階の窓が割られ、玄関が開いたままの家ばかりだった。
逃げ出す際に閉める余裕がなかったのか。
あるいは、後から誰かが押し入ったのか。
玄関の戸が外れ、敷地の中へ倒れている家。
こじ開けられた郵便受けから、雨に濡れたチラシが溢れている家。
窓枠の鍵がある部分だけを、狙ったように割られている家。
ゾンビの仕業ではない。
生き残った人間がやったのだろう。
理解できないことではない。
食料がなければ、他人の家から奪うしかない。
それでも、割れた窓や抉られた鍵穴に残る人間の悪意は、ゾンビより妙に生々しい。
「一軒家は危ないな」
窓も勝手口も多い。
休んでいる間に、すべての侵入口を見張ることはできない。
そう考えて辺りを探していると、住宅街の奥に白い建物が見えた。
五階建てのマンション。
白い外壁に大きな損傷はなく、窓ガラスも残っている。
エントランスのガラス扉も閉じたままだった。
少なくとも、外から荒らされた様子はない。
「……あれかな。今夜のホテルは」




