後悔
脱いだ靴下に小銭を詰め、口をねじって固く縛る。
中の硬貨を掌で一箇所へ寄せ、重みを確かめた。
窓ガラスの角へ狙いを定め、即席の道具を振り下ろす。
パリンッ。
ガラスへ蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
もう一度叩く。
砕けた破片が室内へ落ち、床の上で細かく跳ねる。
こんな知識が実際に役立つ日が来るとは思わなかった。
割れたからといって、すぐには中へ入らない。
壁際へ身体を寄せ、呼吸を殺して耳を澄ませる。
十秒。
二十秒。
窓へ近づいてくる足音はない。
呻き声も、何かが床を擦る音も聞こえなかった。
窓枠に残った破片を布で払い、隙間から慎重に腕を差し込む。
指先で内鍵を探り当て、ゆっくりと外した。
カラカラと軽い音を立て、窓が横へ滑る。
靴下から小銭を抜いてポケットへ戻し、靴下と靴を履き直す。
もう一度、室内の奥を確認してから身体を滑り込ませた。
着地した靴底の下で、小さなガラス片が鳴る。
そこはリビングだった。
白と黒を基調にした家具が整然と並び、床に物が散らばった様子もない。
外から見た通り、誰かに荒らされた形跡はなかった。
ただ、空気が淀んでいる。
鼻を突く生ゴミの酸っぱい臭い。
その奥に、錆びた鉄を舐めたような死臭が薄く混じっていた。
死臭の方は、もう珍しくもない。
それより、生ゴミの腐敗臭の方がこれからの食料事情を予想させ、気分を沈ませた。
キッチンへ移動し、冷蔵庫を開ける。
「うっ……」
密閉されていた臭気が、まともに顔へ吹きつけた。
ドアポケットでは卵が割れ、黄身と白身が茶色く濁っている。
倒れた牛乳パックから漏れた液体が棚の下で固まり、表面に薄い膜を作っていた。
鼻の奥へ残った臭いを堪えながら、流し台の下を探った。
即席麺。
レトルト食品。
乾燥野菜。
量は多くないが、食べられるものは残っている。
指輪の中には保存食もあるが、食べられるものは多い方がいい。
見つけた食料を指輪へ収めている途中、ふとコンロへ目が向いた。
フライパンが置かれたままになっている。
底には、卵焼きらしきものが黒く貼りついていた。
リビングの奥にあるドアへ進み、取っ手に手を掛ける。
ここから先は、外から確認できなかった場所だ。
窓が割られていなくても、中に変貌した住人が残っている可能性はある。
指輪から聖水の瓶を取り出し、片手に構える。
ドアをわずかに開け、隙間から廊下を覗いた。
物音はない。
廊下には左右と正面に、合わせて三つの扉があった。
左の扉はトイレだった。
便座の蓋は閉じられ、床にも異常はない。
右の扉の先は、六畳ほどの寝室だった。
壁際にベッドが一つ。
枕元には目覚まし時計と、半分ほど残った水のペットボトルが置かれている。
室内を一通り確認し、右奥のクローゼットへ目を向ける。
扉へ手を掛け、わずかに開く。
中を確認して、そのまま静かに閉めた。
取っ手から指を離すまでに、少し時間がかかった。
聖水を持ち直し、廊下へ戻る。
最後に残ったのは、廊下正面の部屋だった。
向こう側からは何も聞こえない。
ドアノブへ手を掛け、ゆっくりと回す。
隙間から中を確認しようとした、その瞬間。
「夜明!」
叫び声と同時に、押し開けた扉が何かへぶつかり、こちらへ跳ね返ってきた。
「なっ……?」
咄嗟に身を引き、聖水の瓶を持ち上げた。
しかし、扉の向こうには誰の姿もない。
入口を覆うように、かすかな青白い光だけが揺れていた。
壁としての輪郭は見えない。
確かに声は聞こえた。
扉の陰へ隠れた? あの一瞬で?
重心を低くし、慎重に左手を伸ばす。
指先が、何もない空間で止まった。
「えっ?」
目の前には何も見えない。
けれど、触れた場所を中心に青白い光がかすかに揺れ、確かな感触が返ってくる。
透明な壁。
掌を当てる。
硬さはコンクリートに近い。
上下左右へ滑らせてみると、透明な壁は部屋の入口を隙間なく塞いでいた。
熟練のパントマイムみたいな動きで表面を確かめていると、部屋の奥から再び声が飛んでくる。
「出ていけ! 入ってくるな!!」
視線を向けると、部屋の奥に小学生くらいの男の子が立っていた。
長い前髪が顔の大半を覆っている。
細い肩を強張らせ、両手をこちらへ向けていた。
掠れた声が震えている。
足元には、飲みかけのペットボトルと、丸められたレトルト食品の空袋が散らばっていた。
閉め切られたカーテンの端は、洗濯ばさみで留められている。
「……怪しい者じゃないよ?」
言った瞬間、自分でも思った。
怪しすぎる、と。




