屋上・サバイバル・デッド12
正直、教頭が調達へ同行すると言い出した時は驚いた。
ああいう人は、安全な場所から指示だけを出すものだと思っていたからだ。
踊り場から、階下の様子を覗き込む。
階段の下へ撒いた聖水を避けるように、ゾンビたちは廊下の両側へ離れていた。
「どうだね?」
背後からかけられた声に振り返らず、淡々と答える。
「問題なさそうです」
「そうかね。ふむ、聖水とやらの効果は見事なものじゃないか」
「過信は禁物です。注意を引けば、簡単に突破されますから」
足音を極力抑えながら、一段ずつ階段を下りていく。
教頭は引率と言っていたが、僕の背中から一歩も前へ出ようとはしない。
ある意味、期待どおりだった。
本音を言えば、一人で来た方が遥かに楽だ。
けれど教頭は、子供一人を危険な場所へ行かせるわけにはいかない、それに詳細な位置も君には分からないだろう、と目的地を明かそうとせず、同行を拒むこともできなかった。
一階へ到達し、壁際からそっと廊下を覗き込む。
「前回と状況は変わっていません。ゾンビは教室に隔離できています」
「よろしい。では廊下を突き当たりまで進み、職員室の方へ行きたまえ。その先に宿直室がある」
ようやく進む方向が示された。
「職員室付近は、まだゾンビの隔離が終わっていません。数が多ければ、別の場所へ引きつけてから進みます」
「ふむ。その判断は君に任せよう。私は引率という立場にすぎないからね」
引率の意味を分かっているのだろうか。
教頭の存在をいったん頭から切り離し、廊下を進む。
開け放された食堂の前を抜けたところで、背後から微かな音がした。
教頭の革靴が、床に転がっていた空き瓶を掠める。
瓶が揺れ、ゆっくりと床へ傾いた。
倒れる寸前につま先を差し込み、音を立てずに止める。
「何をしている。早く進みたまえ」
謝罪も気にしてもないらしい。
瓶を壁際へ寝かせ、再び先へ進む。
職員室の前では、数体のゾンビが廊下をうろついていた。
開いた扉の向こうにも、机の間を蠢く影が見える。
床に転がっていたボールペンを拾い、職員室の奥にある金属製の書庫へ放り込んだ。
乾いた金属音が甲高く響く。
いくつもの濁った声が重なった。
廊下にいたゾンビたちが扉へ殺到し、職員室の奥へ吸い込まれていく。
最後の一体が机の陰へ消えるまで待つ。
「……終わったかね?」
背後から顔を覗かせた教頭が、不快そうに鼻を摘まんだ。
腐った肉と排泄物が混じった臭いが、職員室の奥から流れてくる。
確かに酷い臭いだ。
ただ、元同僚へ向ける態度としてはどうなのだろう。
「先へ進みます」
保健室の前を通りかかる。
半開きになった扉を通り過ぎようとして、足が止まった。
隙間の奥へ、視線だけを向ける。
床一面に、黒ずみ始めた血が広がっていた。
乾きかけた鉄臭さが、廊下まで滲み出している。
ゾンビの姿はない。
一度だけ深く息を吸い、視線を前へ戻した。
宿直室の前には、壁へ頭をぶつけ続けているゾンビが一体。
額の皮膚は擦れて剥がれ、黒く乾いた肉片が壁へこびりついていた。
頭が壁へ当たる音に歩調を重ね、背後へ入る。
「一激」
顎と後頭部へ手を添え、一息に首を捻る。
糸が切れたように崩れた身体を受け止め、音を立てないよう床へ横たえた。
「上手いものじゃないか」
教頭が声をかけてくるが、まったく嬉しくない。
「先に中を確認します」
宿直室のドアノブを静かに回す。
わずかに開いた隙間から室内を確認し、音を立てないよう中へ入った。
畳敷きの八畳間。
左手に流し台と冷蔵庫。
右手には敷かれたままの布団と、枕元へ置かれた目覚まし時計。
中央の小さな座卓の奥に、頑丈そうな扉があった。
惨劇の痕跡はない。
ほんのりと井草の匂いが残っていた。
「大丈夫そうです」
後方に控えていた教頭へ声をかける。
「うむ」
偉そうに頷きながら、僕を押しのけて中へ入ってきた。
教頭は奥の扉の前で立ち止まる。
そして、いきなりポケットから鍵束を取り出した。
何本もある鍵の中から迷うことなく一本を選び、鍵穴へ差し込む。
鍵束が擦れ、乾いた金属音が鳴った。
屋上では、鍵の話は一度も出なかった。
教頭の手元を見ているうちに、錠が外れる。
「この奥が保管庫だ」
扉が開かれた。
中には、段ボール箱が天井近くまで積まれていた。
「備蓄用の水や保存食が入っている。君は中の物資を回収しなさい」
教頭は宿直室を見回す。
「私は、この部屋に使える物がないか確認しておこう」
保管庫へ入る。
手前の箱を開けると、二リットルの天然水が隙間なく詰められていた。
箱の側面には、災害備蓄と自治体名、それから賞味期限が印字されている。
隣の箱には缶入りのパン。
その奥には、保存食や簡易食器と書かれた箱が積まれていた。
他の箱も同じなら、かなりの量になる。
教頭に感謝する気にはなれないが、情報としては有益だった。
手前の段ボールへ触れ、一箱ずつ指輪へ収納していく。
そんな中、宿直室を調べていた教頭が保管庫へ入ってきた。
「まだかかっているのかね?」
苛立ちを隠そうともしない声へ、手を止めずに答える。
「……手に触れたものしか収納できないんです」
松風にはアイテムボックスのようなものと説明したが、実際には色々と制限がある。
大きさは最大で八十センチ四方くらいまでだし、中で時間は普通に経過する。
段ボールは収納できても、奥の箱へ触れるには、手前の山を順番に片づけていく必要があった。
教頭の視線を感じながら作業を続ける。
全体の三分の一ほどを収納したところで、突然声がかかった。
「もう、それくらいでいい」
振り返る。
「すべてを一度に回収する必要はない。必要になれば、また来ればいいのだから」
教頭は保管庫の外へ出るよう、顎をしゃくった。
簡単に言ってくれる。
僕の表情から何かを察したのか、教頭が鼻息を荒くする。
「この物資は皆の生命線なんだ。君がすべてを持ったまま戻れなくなったら、どうするつもりだね! 責任を取れるのか!?」
教頭は僕を外へ出すと、自ら保管庫の扉を閉めた。
鍵を差し込み、錠を二度確かめる。
鍵束をポケットへ戻してから、ようやくこちらを見た。
「さあ、もう出なさい」
言葉どおり宿直室へ戻る。
教頭はすぐには出口へ向かわなかった。
座卓の脇へ立ち、腕を組む。
「ところで依代君。君は無月君のことをどう思っているかね?」
突拍子もない質問だった。
「能力も責任感もある。頼りになる奴ですよ」
「ふむ」
教頭が眉間を押さえ、深いため息をつく。
その目が手元の腕時計をチラッと確認した。
「無月君が優秀であることは、私も認めているよ。だが、責任を背負うには少々若い」
「先生も、ついさっき無月に若いと言っていましたね」
「そのとおりだ。今のような非常時に必要なのは、皆の意見を一つずつ聞くことではない」
教頭が顔を上げる。
「正しい判断を下し、それに従わせることだよ」
湿った音を立てながら、唇が動く。
「私はね、必要に迫られて皆を導こうとしているだけなのだ。だが彼は、私の方針が気に入らないらしい。数名を味方につけ、ことあるごとに反発している」
大げさに首を振る。
「自尊心や感情を優先し、団結を乱す。君も、いつまで彼へ任せ続けることが皆のためになるのか、考えるべきではないかね?」
「無月が団結を乱しているようには見えませんけど」
「今は、まだね」
教頭が一歩近づく。
口の中の湿った音が、少しだけ大きくなった。
「だが、間違った人間が上に立てば、いずれ全員が道連れになる」
もう一歩。
「正直、君には一目置いているのだよ。依代君」
教頭の声へ熱が戻る。
「君は一人でこの校舎を歩き、物資を持ち帰った。屋上にいる誰もが、君の力を認めている」
視線が、僕の右手へ落ちる。
「今や、皆の生命を支える物資まで君が握っている。無月君よりも、君の方が皆を導く立場にふさわしいとは思わないかね?」
「僕がですか?」
「そうだとも」
教頭の頬が緩む。
「君が力を担い、私が正しい方向を示す。悪い組み合わせではないだろう?」
右手が差し出された。
教頭の目は、演説の締めを飾るように輝いている。
僕はしばらく、その手を見つめた。
教頭は笑みを浮かべたまま待っている。
「先生、一つ聞いてもいいですか」
笑みが僅かに固まった。
それでも、差し出された右手は下ろされない。
「……何だね?」
長く話す必要はなかった。
「先生、エゴ使えますよね?」




